16話 父娘④ フェリシア
「遅い! 一体何をしていたんだ!」
執務室に入るなり、お父様の怒号が頭上から降ってきた。
言い訳など無用。こんな時、一言でも余計な口を挟めば、火に油を注ぐだけだ。
「申し訳ありません……」
わたしは頭を下げたまま、決して顔を上げなかった。
これは、一度目の人生で痛いほど学んだお父様への対処法。
もし不用意に顔を上げれば、その瞬間に大きな手が飛んできてわたしの頬を張り倒す。
だからこそ、わたしは体を小さく丸め、震えながら俯き続けた。
「……顔を上げなさい」
イライラが少し収まったのか、声の刺々しさが和らいだ気がした。
恐る恐る顔を上げる。
けれど、そこにいたお父様は、やはり酷く恐ろしい顔でわたしを睨みつけていた。
(一体、何があったというの……?)
お祖父様の密偵である使用人たちからは、「最近のお父様は街で暮らすアンジェリカたちと会っていない」と聞いていたはずなのに。
お母様が出て行ってからの数日間、精神的にも落ち着いていて、わたしに無関心ではあっても、こうして理由もなく怒鳴り散らすことはなかった。
……なのに今のお父様は、まるで『一度目の人生の時のお父様』にすっかり戻ってしまっていた。
記憶に刻まれたトラウマが蘇り、体が思うように動かない。声を出そうとしても掠れて出ず、膝がガタガタと震え出す。
(どうしよう……逃げられない……!)
密偵の使用人たちも、ここではただの使用人として振る舞っている。
わたし自身が「大怪我や死ぬほどの危険がなければ手を出すのは控えてほしい」とお願いしていたのだ。
もちろん、前世の残酷な運命を知らないお祖父様たちは、わたしの真剣な言葉に驚きつつも、お母様が毒を飲まされていた事実があるため、決して油断することなく見守ってくれていた。
……けれど、わたし自身が少し油断してしまっていたのだ。お母様が無事に逃げ出せたことで、どこかで安心していた。
ここは、やはりわたしにとっての安住の地などではなかったのに。
怯えるわたしに向かって、お父様は冷酷な決定を告げた。
「……わたしは再婚する。まもなく、新しい母とお前の妹となるアンジェリカがこの屋敷へやってくる」
——ついに、来てしまう。
わたしの心は恐怖で凍りついていきそうだった。
——怖い。とにかく、怖すぎる。
きっと、いまのわたしは顔から血の気が引き、真っ青になっているだろう。
「二人のためにも、お前は口答えなどせず素直に言うことを聞くのだ。妹を悲しませるな。新しい母を敬え。よいな!」
こうして始まった新しい生活は、惨憺たるものだった。
一度目の人生の時よりも、さらに嫌がらせや虐待は苛烈を極めた。
ただし、屋敷から追い出されることなく今までの部屋で過ごすことになった。
『お姉様はいいなあ。そのドレス、わたしも着てみたいわ!』
『フェリシア! 妹が欲しがっているんだ、さっさと譲りなさい!』
『お姉様はずるいです! わたしは今までお勉強をしてこなかったのだから、この問題が解けるはずがないのに! 自慢するように満点を取るなんて!』
『いつもテーブルマナーを先生に褒めてもらえてずるいわ! わたしだってあの先生に習えば出来るようになるのに! わたしにあの先生をちょうだい!』
こうしてわたしが大好きだった先生は取られてしまった。
『お父様! お姉様はいつもわたしを馬鹿にするの。お勉強だって頑張っているのに、わからないと言っても難しい言葉ばかりわざと使ってちゃんと教えてくれないの!』
『フェリシア! 罰として、当面の間何も言葉を発してはならない! 黙ってアンジェリカの世話をするんだ!』
『ふふ、お姉様。わたしの部屋のお掃除よろしくね? あ、もちろん床はモップではなく雑巾で綺麗に拭きあげてね? 誰かに手伝ってもらおうなんて許さないから!』
『そこに埃があるわ! わたくしへの嫌がらせかしら? あなたのその服で綺麗に拭いてちょうだい!』
『フェリシア! お前はまともに掃除もできないのか!母に対して嫌がらせをするとは!』
わたしは公爵令嬢としての扱いをことごとく奪われ、まるで下等な使用人のように扱われた。暴言を吐かれ、罵倒され、事あるごとに蔑まれた。
見るに見かねた密偵たちが、密かにわたしへ囁いた。
『お嬢様……もう限界です。今すぐこの屋敷を出て、辺境伯様のお屋敷へ逃げましょう』
けれど、わたしは固く首を横に振った。
(いいえ……まだ逃げないわ)
どうしても知りたかった。
なぜお父様は、あの時また突然豹変してしまったのか。
お母様と離縁した直後、馬車を見送るお父様は確かに「悲しみ」の中にいたはずなのだ。
あの不自然な変化の裏には、絶対に何かがある。それを見極めるまでは、ここを去るわけにはいかない。
✴︎ ✴︎ ✴︎
そんなある日、王宮で開催される子供たちの為のお茶会に、わたしとアンジェリカの二人が招かれることになった。
二度目の人生で、初めて迎える王太子殿下との謁見。
豪華にドレスアップしたアンジェリカは、会場で王太子殿下の姿を一目見るや否や、前世と同じようにあっさりと恋に落ちた。
「ねえ、お姉様! わたし、あのお方……王太子殿下と結婚したいわ! お姉様、なんとかしてちょうだい!」
お茶会の間中、殿下をチラチラと見ていたアンジェリカが、興奮気味に詰め寄ってきた。
わたしは冷ややかな瞳で妹を見つめ、静かに答えた。
「……お願いをするなら、わたしではなくお父様になさるといいわ」
するとアンジェリカは可憐な顔を忌々しそうに歪め、盛大に舌打ちをした。
「チッ……本当に使えない女ね」
思わずアンジェリカを見つめた。
——え?6歳の女の子が?まさか……この子も?
でもアンジェリカは文句を言いながら目の前にあるケーキを令嬢とは思えない食べ方で食べていた。
手についた生クリームをペロリと舐めたのだった。




