11話 救母
「お祖父様にお手紙を……」
フェリシアは頭の中に流れ込んでくる前世の記憶に、激しい頭痛と吐き気に襲われていた。
……けれど、立ち止まっている暇なんてない。なんとかして、お母様を助け出さなければ。
幼い頭で必死に考えを巡らせる。
いまの自分は、たった八歳の子供だ。絶大な権力を持つ公爵のお父様に、正面から勝てるはずがない。
だからこそ、いま自分にできること——それは、お母様の実父であり、強力な軍事力を持つ辺境伯のお祖父様に助けを求めることだった。
部屋の中を見渡す。
(今はまだ、この暗闇の中で耐えるしかない……)
明日になれば、きっとここから出してもらえる。
お父様に素直に頭を下げて謝り、一刻も早くお母様の元へ行こう。
そう強く心に決めると、不気味な暗闇も、割れるような頭の痛みも、不思議と耐えることができた。
そしてフェリシアは、疲れ果てたようにそのまま気を失うように眠りについたのだった。
✴︎ ✴︎ ✴︎
「お嬢様、早く起きてくださいませ」
翌朝、カチャリと鍵が開く音とともに、あきれ顔で冷たい声をかけてきたのは、この屋敷に長く勤めるメイド長だった。
絶対的な主である公爵が、最近フェリシアに冷たく当たっているのを見て、使用人たちも明らかに態度を変えていた。
世話をするのも面倒だとばかりに、メイド長は深いため息をついて「早くしてください」と急かす。
ろくに眠れなかったフェリシアは、フラフラと千鳥足になりながら、毛布すらない冷たく硬い床から小さな体を起こした。
体はこわばり、思うように歩けない。
まだ寒さの残る早朝の部屋で過ごしたせいで、体に異様な熱がこもっている。
顔を見れば、すぐに高熱を出していることくらい分かりそうなものだった。けれど、メイド長は顔も見ようとせず、「旦那様がお待ちです」とさっさと部屋を出て行ってしまった。
フェリシアは、鉛のように重い足を引き摺るようにして後を追った。
(大丈夫……とにかく今は、おとなしくしていなきゃ……)
お父様の執務室に着くと、開口一番に厳しい叱責の言葉が飛んできた。
「自分のしでかした態度を反省したか、フェリシア! 公爵家の令嬢としての自覚が——」
不機嫌そうに怒鳴り散らす声が、熱のせいでおかしくなった耳の奥で遠く響く。
お父様に向かって頭を下げようとした瞬間、視界がぐにゃりと歪み、フェリシアの意識は途絶えた。
——ドサッ。
小さな体が、力なく床へ倒れ込む。
「……っ!? フェリシア!?」
目の前で倒れた娘の姿に、公爵は一瞬だけ素の表情に戻り、焦ったように駆け寄ろうとした。
——けれど。
次の瞬間、まるで何か目に見えない力で感情を塗りつぶされたかのように、その表情は一転して氷のように冷たいものへと戻ってしまう。
「……チッ、軟弱な。メイド長、部屋へ運んで医者を呼べ」
我が子に対する温かな愛情も優しさも、不自然なほどあっさりと消え去っていた。それは、誰にも気づかれることのない異様な光景だった。
✴︎ ✴︎ ✴︎
自室のベッドへ運ばれたフェリシアは、駆けつけた医師に「風邪による高熱」と診断され、薬を処方されてそのまま寝込むことになった。
高熱にうなされ、意識が朦朧とする間も、フェリシアの頭の中にあったのはお母様のことだけだった。
(早く助けなきゃ……お母様を救うために動けるのは、わたくししかいないのに……っ)
そんなフェリシアの側に付きっきりで、必死に看病を続けてくれたのは、若いメイドのメグだった。
冷たいタオルで何度も額を冷やし、汗を拭いてくれる温かな手。
メグもまた、落ち目となったフェリシアの味方をしたことで、他の使用人たちから嫌がらせを受けていた。けれど、心配をかけまいとフェリシアには一切そんな素振りを見せない。
「……メグ……」
「お嬢様! お目覚めになられましたか!?」
数日後、ようやく熱が下がり、薄っすらと目を開けたフェリシアは、メグの手をぎゅっと握りしめた。
「……メグ、お願いがあるの。誰にも見つからないように……お祖父様にお手紙を出してほしいの」
「辺境伯様へ、ですか……?」
「ええ。お母様とお手紙のやり取りをしていたときの、あの特別な宛先へ届けてほしいの。……お母様の命がかかっているの。お願い……!」
八歳の小さな主人の、必死で切実な瞳。
メグは一瞬目を見開いたが、力強く頷いた。
「……承知いたしました、お嬢様。私が必ず、秘密でお出ししてまいります!」
(お嬢様……奥様……絶対、何があってもこの手紙は守り抜きます……!)
使用人たちの意地悪で冷たい視線が突き刺さる中、メグは慎重に立ち回り、隙を作り出して手紙を抱え、屋敷を抜け出した。
向かった先は、屋敷へ出入りしている野菜の業者だ。
その業者は、お祖父様である辺境伯に頼まれ、遥か遠い辺境の地から王都まで、娘であるフィーアのために旬の野菜を運んできていたのだった。
当然、それは娘の様子を陰ながら探るためにお祖父様が差し向けていた密使でもある。
その事実を知っているのはフィーアとフェリシア、そして二人と親しかったわずかな使用人だけだった。
だが、かつてフィーアの周りにいた親しい使用人たちは、いつの間にか屋敷から追放されるように解雇されていた。
いま、この秘密を知る者で残っているのはメグただ一人。
メグは冷遇されながらも、周りの使用人たちの機嫌を上手にとり、なんとか解雇されずに残ることで、奇跡的にこの信頼できる伝路を護り続けていたのだ。
メグは怪しまれることなく野菜業者へ手紙を託すことに成功し、安堵の息をつくのだった。




