10話 回帰
……すべてが始まる、ずっと前の過去へ。
「おかあさま……」
フェリシアは小さな手で母フィーアの冷たい手を握り、ベッドの傍らで語りかけていた。
母が体調を崩して寝込むことが増えたのは、ここ最近のことだ。
父であるスタートレッド公爵は仕事が忙しいと言っては屋敷を空け、めったに帰ってこない。
幼いフェリシアは心細さと不安から、母の側を片時も離れようとしなかった。
胸の奥がざわつき、母のことを思うだけで居ても立ってもいられなくなる。
「おかあさま、今日ね、先生から外国語を習ったの。発音が上手だってほめてもらえたのよ。すごいでしょう?」
「今日はね、メグとお庭をおさんぽしたの。おかあさまの好きな紫陽花がきれいに咲いていたわ。一緒に見に行きたいな……早く元気になってね?」
だが、母が起きている時間はここ数日で急激に減っていた。
めったに帰宅しない父も母を心配したらしく、『体に良いから』とハーブティーを贈ってくれた。
母はそのハーブティーを毎日大切そうに口にしていたが、皮肉にもそれを飲み始めてからというもの、容態は回復するどころか衰弱の一途を辿っている。
幼いフェリシアにはどうしてなのか知る由もない。
けれど、胸を満たす嫌な予感と底知れぬ不安だけが、日に日に大きく膨らんでいた。
母の容態が悪いなか、高位貴族の子供たちが集まるお茶会に招かれ、断ることができずフェリシアは家庭教師のメイサに付き添われて馬車に乗り込んだ。
(ほんとうはずっとおかあさまのそばにいたい……)
暗い気持ちで参加したお茶会は、やはり楽しいものではなかった。
それでも高位貴族の令嬢として、なんとか笑顔を絶やさず終わらせることができた。
その帰りの道中——街の賑やかな通りを通りかかった時のことだ。
窓の外をふと眺めたフェリシアの瞳が、凍りついた。
華やかなカフェのテラス席で、仲睦まじく笑い合う三人家族の姿があった。
——仕事で忙しいはずの父。
そして見知らぬ見目麗しい女性と、自分と同い年くらいの可憐な少女。
父はその少女を慈しむように抱き上げ、甘いお菓子を口に運んでやり、女性と睦まじく微笑み合っている。
自分や母には一度も見せたことのない、心からの優しい笑顔で。
(おとうさま……? どうして……?)
激しいショックで頭が真っ白になり、体が震えた。
その日の夜、久しぶりに屋敷へ帰ってきた父が出迎えたフェリシアの前に現れた。
いつもなら「おとうさま!」と嬉しそうに駆け寄り抱きつくはずのフェリシアだったが、昼間の光景が目に焼きついて離れず、ただ青ざめた顔で立ち尽くすことしかできなかった。
「どうした、フェリシア。挨拶もなしか?」
いつもと違う娘の頑なな態度に、父はあからさまに不快感を露わにした。
「愛想のない顔をして、一体何なのだその態度は! 公爵家の娘としての教育がなっておらん!」
父の激しい怒号が響き渡る。
反省を促すためという名目で、フェリシアは一人、敷地の隅にある使われていない冷たく暗い部屋へと押し込められ、鍵をかけられてしまった。
月明かりすら届かない、漆黒の闇の中。
「おかあさま……あいたいよ……」
冷たい床に膝を抱え、恐怖と悲しみで小さな体を震わせていたフェリシアの頭に——突如、激痛が走った。
『——頭が、割れるように痛い……!』
脳裏に溢れ出してくるのは、見たこともない……いや、自分が確かに歩んだはずの記憶。
母の死の真相。偽りの手紙。苛烈な虐待と太ももの鞭痕。
初恋の夫からの冷遇、妹アンジェリカの裏切り、そして不当に投獄された地下牢での陵辱と衰弱死——。
過酷で残酷な『一度目の人生』のすべてが、津波となって幼い意識へと流れ込んでくる。
「あ……あっ、あああぁっ……!!」
ボロボロと涙がこぼれ落ち、息を詰まらせながらフェリシアは己の小さな手を見つめた。
(わたくしは……死んだはず……。地下牢で……)
幼い体、八歳の自分。
そして、まだ息のある大好きな母——。
(神様が……時間を巻き戻してくださったの……?)
暗闇の中で、フェリシアの瞳から涙が消えた。
溢れ出していた恐怖と絶望は消え去り、そこにあったのは固い決意。
(お母様を……あの毒入りのハーブティーから救わなければ。そして……)
自分からすべてを搾取し、惨めに踏みにじり殺した者たち——父、セリアナ、アンジェリカ、そしてあの愚かな王。
(今度の人生では、絶対にあの人たちの思い通りにはさせない……!)
八歳の体のフェリシアだったが、もうその心から幼さは綺麗に消え去っていた。




