プロローグEND それでも私は
なんの脈絡もない言葉だったのに、瞳が見開いていたんだ。
やっぱりそうなんだ。
彼女が囚われているものの正体がわかってしまって、納得してしまった。
彼女の背中に触ったとき、見えた記憶。届いた感情。あの、胸を締め付ける痛みの正体は────罪悪感だ。
あのときは、何に対するものかわからなかったけど、今ならわかる。
目の前でいじめられていたあの子に、手を差し伸べてあげられなかったことへの罪悪感。
彼女はそれを、「見殺しにした」って思ってたんだ。
……なんだよ、それ。
「小鳥ちゃん、中学の頃……同じクラスの子が、転校したでしょ?」
「な、なんで……」
あの記憶を覗いた後なら確かに、あんな思いは二度とごめんだ。でも手で口を覆ってみせた彼女に、私は伝えてあげないといけない。「そうじゃないでしょ」って。
だからどれだけ全身が痛もうが、ゆっくりでも腕を上げて、伸ばさなきゃいけない。
「小鳥ちゃんはさ……きっと、世界に期待しすぎなんだよ」
「期待……なんの、話ですか?」
ここからは少し、長い話をしなくちゃいけない。
大事なことを、思い出したから。
「目に映る世界がとても綺麗で……周りには何不自由なく、暮らしている人が、多すぎて……優しく見える人が多すぎて…………」
ダメだ。息が、言葉と一緒に抜けていく……
「……この世界がまるで、光り輝く宝石みたいに、見えてるんじゃない?」
「……何を、言っているんですか?」
ほんとそう。でもその切なそうな顔を、放っておくことなんかできないから。
「そうだよね、ほんと……でも、伝えないとって、思ったんだ」
ネックレスを握りしめる彼女の両手に、私は下から、左手を優しく添えた。
触れると小刻みに震えていた手が止まって、目が合ったんだ。
「でもね、綺麗に見える世界なんて……ほんのごく一部なんだよ?」
本当は、ぜんっぜん合理的なんかじゃなくって、ちっとも正しくなんかないんだ。ほんともう、嫌気がさすくらい。
「小鳥ちゃんがどれだけ必死に誰かを助けたって……救われず苦しんでいる人の方が、数えきれないほど多い……酷い世界な」
「——知ってます! わかっています! それでも……!」
強めた口調で、彼女の長くて綺麗な髪と、手から垂れているネックレスの紐が波打った。
その紐の色を見て、私は嬉しかったんだ。
彼女が私の言葉を遮って、そう言ってくれたことも含めて。
「それでも私は———」
「———いいんだ……! 小鳥ちゃんはそれで。でも、だから私は、世界が、私が、多くの他人が、ほんとうはあんまり……好きじゃない」
痛みも相まって視界がぼやけてきた。それでも視界に映ったネックレスの紐は、綺麗な黄色い光沢を放っていた。
黄色だったんだ、金属製なのに白じゃなく。
「だけど、小鳥ちゃんがいるから……なんだよ」
痛む右肩を無理やり回して、彼女の両手を包み込む。あまりの痛みに全身が強張った。
「いっ……」
「もっ、もういいですから! 無理しないでください」
そうやって、代わりに泣いてくれるから。
「…………本当はこの世界も、綺麗な場所なんじゃないかなって、思っちゃったりもしてさ」
言葉が咳で、邪魔される。
「すごく、力が貰えるんだ……私も、もっと頑張んないとなって」
小鳥ちゃんの手から、力が抜けた気がしたんだ。
「何度だって期待して、何度だって後悔しても、私はやっぱり……この世界を好きでいたいんだと思う」
一口に「ガーベラの花言葉」といってもいくつかあって、咲き方や本数なんかでも違いが生まれるんだ。
その中でも特に有名なのは、色による変化で、中でもその色が黄色なら、意味合いはこう変わる。
「こんなにも生きにくいこの世界で、優しくあれる貴方が……私にそう、思わせてくれてるんだよ? だからさ、そんなに自分を責めないで……どれもこれも、小鳥ちゃんの罪じゃない」
究極の愛、親しみやすさ、そして────『優しさ』。
「貴方が思っているよりもずっと、小鳥ちゃんは、正しくて優しくて────素敵な人だよ」
彼女の姉がこのネックレスに込めた想いは、きっと励ましなんかじゃない。知っていて、選んだんだ。
季節を問わず咲き誇り、誰にでも優しく平等に、その綺麗な花びらを向けられる。
そんなガーベラの花に、彼女の姿を重ねて。
「かわかみさん! 私……」
唐突に腕が強く圧迫された。痛みが全身を駆け巡る。
それでも、また小刻みに震えだした彼女が、何かを必死に伝えようとしているから、私はただ、彼女の言葉を待つことにした。
「───私は! 誰かにこんなことを言ってもらえたのが、初めてで……でもずっと……ずっと後悔していて……このネックレスを見る度に思い出してしまうんです……自分が何もできないことを……何もしてあげられなかった、あの子のことを」
鴻上小鳥は、気持ちと行動に乖離がない。私と違って、本心からくる純粋な優しさを持っている。
「ごめんなさい……私ってば、また」
この世界に必要な優しさとは本来、彼女のようにあるべきであって、けれどそれが稀有であるからこそ、その涙は尊く、綺麗なものなんだって私は思う。
「いいよ……ちゃんと、伝わってるから」
それでもこのネックレスが、彼女を過去に縛り付けているというのなら、私から彼女へしてあげられることは、多分一つだけだ。
「あとで……もっと聞かせてよ、小鳥ちゃんのこと」
「で、でも……!」
悪いけど、もう本当に時間がない。これ以上どんな言葉を投げかけたって、彼女はきっとそうしないから。
「———ごめん、ちょっと痛むよ!」
ネックレスを包み込んだ彼女の手ごと持ち上げて、思いっきり地面に叩きつける!
「い”っ……」
……やった。完全にやってしまった……
今まで感じたことがないほどの激痛が右肩に走った。
これ多分、もうくっつかないんじゃないかな。
痛覚が勝手に涙腺を刺激して、涙が溢れ出て止まらない。叩きつけた両手に引っ張られて、倒れた身体も起こす余裕なんてない。
けれど、
「───かっ、川上さんっ!」
小鳥ちゃんの手の中で、ネックレスが砕ける感触が確かにあった。
「ダメです、こんなの! こんな終わり方なんて……」
小鳥ちゃんがネックレスを勝手に割られて抗議の声を上げているけれど、正直痛みが勝り過ぎてほとんど頭に入ってこないし、返せない。
瞼もほとんど開けない状態だったんだけど、不自然に白い光が瞬いたのはわかって、同時に触れていたはずの手にぬくもりがなくなった。
それだけで私は満足だ。よかったよ、本当に。
「ごめん、ね……」
ここまでみたいだ。
まともに動かせない視界の中に、黒く悍ましい何かが映っている。
────ほんと、不合理だ。
終わりを悟った瞬間、やけに身体が軽くなって、痛みも意識も薄れていって、身体が芯まで冷えていく感覚がした。
「───遅くなってごめん。よく頑張ったね、飾」
私の視界が閉じ切る瞬間、
「あとは任せて」
誰かがそこに、立っている気配がした。
* * *
「お疲れ様です。副統轄長様」
自動ドアがスライドして、薄暗かった会議室に照明が差し込んだ。室内には数人見受けられるが、妙に静かだった。
「お疲れ様」
入り口付近を陣取っていた白衣のエンジニアに挨拶を返して、少女はその隣に並んだ。
「ご学友のご様態は、いかがでしたか?」
微かな声が少女の鼓膜を揺らす。
「平気。じきに目を覚ましそう」
「そうでしたか、それは何よりですね」
10名ほどしか入れないこぢんまりとした会議室には、円卓や立体映像出力装置を備える他、巨大なディスプレイが前面の壁を覆っていたりと、充実した設備環境が窺えた。
「あれは?」
小声でやり取りを重ねながら、少女の視線はホログラムに向いた。どうやら少女が部屋に入る前から集っていた数名は、それを眺めているようだ。
「現場の魔力痕跡から当時の映像を復元した検証映像です。つい今しがた、調査班より上がってきました」
見覚えのある雑木林の中、見覚えのある制服に身を包んだ二人の女学生を写している。
「早いね、ついさっきのことなのに」
「時間が経過すると、痕跡を追えなくなってしまうらしく」
ホログラムからは音声も入力されており、おそらく二人が交わしたであろう会話の内容まで再現されていた。その声も、少女には聞き覚えがあった。
「発生源は?」
「小柄な少女の方です。現在のところトリガーまでは判明しておりませんが、不自然な点が1つ見受けられました」
「と言うと?」
尋ねるとエンジニアの視線がホログラムを離れ、少女に向いた。
「もう一人の子なのですが、小柄な子が取り込まれる最中、彼女を助けに来たみたいなんです」
「助けに?」
少女の眉が、少しだけ歪んだ。
「はい。どうにも行動を共にしていたわけではないようです」
「その部分、後で見れる?」
「あ、はい。この視聴が終わった後でよければ」
再びホログラムに戻った彼女の視線を追って、少女もそちらに視線を向けた。
ホログラムから、どこか獣にも似た得体の知れない唸り声が鳴って思い出す。数時間前の自分もそれを聞いていたことを。その時初めて、今回の事案に気がついたことを。
「ですがこの二人、特にもう一人の子については、おおよそ間違いなく適性があるかと」
「そうなんだ」
「はい。少し前ですが、彼女から対象の存在を確信しているような発言がありました。加えて、数十メートル以上離れた対象を完全に視線で追っていました。現場は木が生い茂った森林地帯です、視認できていたと考えるには無理があります。それこそ、特異稀な適性があれば、話は別ですが」
「……そう」
返された二文字にはこれっぽっちの感情も含まれておらず、少女の興味は既に、別のものに移っているようだった。
「……転校生。ね」
ホログラムから流れるその声は、呼吸するのもままならない、苦しそうなものだった。胸の奥がざわつく。同時に疑問が浮かび上がっていた。
その答えを求め、動き出した身体は円卓で唯一、空いている席へ向かう。
少女が席に着こうとも、向けられる視線は一つとしてなく、全員がただ、固唾を飲んで見つめていた。
場が静寂に包まれていた。少女も視線を外せずにいたんだ。
たった一人のために、必死で言葉を尽くすその人から。
「どうして……そんなに」
思わず手で覆っていた口から、言葉がこぼれ落ちていた。彼女自身でさえ、そう思ってしまったことに、驚きを隠せなかった。
まさか、自分にこんな感情があったとは。




