プロローグ三話 魔法使い
「ゔっ!」
投げ出された。枝や葉っぱを巻き込みながら吹き飛んで、やがて地面へ落下して、打ち付けられては転がった。それから何かに背中を強打して、身体はようやく、静止した。
「……ん」
上手く身体が動かない。全身のあちこちが痛い。
横たわったまま細く開いた瞳。裂けた肌が、映り込んだ。
赤黒く湿った土から、普段嗅がない匂いがする。
熱が、流れ出る感覚がしていた。
「こ……がみさ……ん」
痛みで涙が滲み、焦点が合うまで時間がかかった。
けれど、近くには鴻上さんも横たわっているのが見えて、それだけでも少しほっとした。
彼女には出血も見て取れない。
それはいいが、一体何が起こったんだ。
ひとまず状況を整理しないと。
「いっ……たいなぁ……もう……」
時間が経ってほんの少しだけ痛みが引いたから、悶えながらも身体を起こして、這いつくばりながら近くの木に背中を預けた。
しばらくはまともに動けそうにない。血は出てるけれど、幸い傷はそんなに深くなさそうだ。少し待てば止まるだろう。内臓の方は、正直わからない。が、とにかく耐えがたい痛みで、呼吸が荒くなったまま収まらない。
それにさっきのアレはなんなんだ。
人型をしていたが、明らかにこの世のものとは思えない。
仮に動けるようになったとしても、アレは……
やばい、思い返すだけで冷汗が止まらない。
私、こんなところで終わるんだろうか……
身体のどこにも、力が入らない。
今になって、恐怖がじんわり滲んできた。
「ふぇ……?」
徐に、間の抜けた声がした。
良かった。鴻上さんが、目を覚ましたみたいだ。
両手をついて体を起こす。寝ぼけまなこで、昼寝明けみたいな優雅さだった。でも途端、左腕を押さえた。
「───いっ」
いくら日頃の行いが良い彼女といえど、無傷とはいかなかったみたいだ。
それでも少し、恐怖が和らいだ。
きっと彼女に今までの記憶はないだろう。それどころか、私が近くにいることさえも気づいていないようだった。
「……鴻上さん……大丈夫?」
「川上さん……?」
ゆっくりとこちらを向いた彼女は、私を見て一瞬、目を大きく見開いた。
「どうしたんですか!? その傷!」
すっとその場から立ち上がって、駆け寄ってきた。
「なっ、んだろうね……私にも、わかんないや」
頭は正常に回っている。でも、荒くなった呼吸で上手く言葉が出ていかない。
咳き込んで、全身が痛む。傷口はいまだ、ひりついていた。
「きゅ、救急車! いい今、救急車呼びます!!」
「慌てすぎだって……ゆっくりで、いいから」
「はははははい! ただいま!」
思わず一言いいたくなる取り乱しっぷりに、こっちが心配になる。それでも助かった。あとは鴻上さんに任せていいみたいだ。
でも、いいのだろうか。ここらにはまだ、アレがいる。
根拠なんてないけど、人を襲う類のものであるのは間違いない。ずっと肌が冷えているんだ。
「鴻上さん……ちょっと。いい」
首がほとんど動かせなくて、後頭部を木に預けたまま、視線だけ彼女に向けた。
すると、両手でしっかりと握りしめているスマホから、顔が上がった。
「ど、どうしました?」
「なんて……言ったらいいかな」
「なにか、ありましたか?」
「……何かがこっちに……近づいてる」
「近くに人がいるんですか!? それなら助けを呼べそうですね!」
あー、そうなるのか。
「じゃなくて……よくない何か」
「よくない何か。ですか」
呟くだけで、スマホへ戻る視線。
いやに落ち着いて見えた。
……もしかして、ちゃんと伝わってない?
「鴻上さんは……離れた方がいい」
「離れた方がいいって、川上さんはどうするんですか?」
目線が合って、なにか不可解だった。
まるで計算式を書いていないのに、解答だけが記されている。みたいな。
「……ちょっと動けそうにないや」
木々の向こうから、冷たさが増してきてる。おかげでなんでか、距離感も輪郭もはっきりとしてきた。
アレはまだ、七十メートルくらい先。体長は三メートルくらいかな。やっぱり人の形をして歩いてる。でも全身に無数の羽根と、背中に大きな翼がある。飛べるのかもしれない。
今はまだ木々で視界が効きにくいから、こちらに気がついてはいないけれど、ここを目的地としているのは、やはり間違いなさそうだ。
「先に行って。鴻上さん」
まともに動ける鴻上さんだけなら、まだ逃げられるはず。
「な、何を言ってるんですか!? そんなのダメです!」
ぶんぶんと、彼女は首を振った。
「私一人だけ逃げるなんてできません!」
意外だった。
普段はなよなよしてるから、断られるなんて思ってもみなかった。その、誰かのためにだけ強くあれる心を、普段からもっと自分のためにも使えばいいのに。体調が良かったらきっと、そんないらない言葉が口をついていたと思う。
「気持ちは嬉しいけど……どうするつもり?」
彼女の体格じゃ私を運べるはずないし、ここで私と一緒に死を待つつもりなら、その行為に価値なんてない。でも彼女がそこまで考えなしには思えなかった。
「これを、川上さんに使います」
そう言って何やら服の内側に手を入れた彼女は、何かを握りしめた状態で取り出した。
首筋に黄色い紐のようなものがチラついてわかる。ネックレスかな。
「なに……それ」
尋ねると、彼女は俯いた。
そう遠くない場所から、草木の揺れる音がする。
夕焼けはいつの間にか沈んでいて、空は徐々に青紫色へと落ちていく。日中と比べて低くなった気温は肌で感じ取れるくらいに涼しく、秋の到来を予感させた。
さっきまで煩いくらいに吹きすさんでいた風も、遊び疲れたのか今はその気配すら感じさせない。おかげで学校の敷地内だっていうのに、変に静まり返っていて薄暗く、まるで世界に私たち二人しか居なくなったんじゃないかって、ありもしないことを考えてしまった。
私の投げかけた質問は、今もまだ宙に浮いている。このままだといずれ、処暑の空を飾る星座の一つにでもなってしまいそうだから、無理しないでって、切り出そうとしたんだ。でも不意に、鴻上さんの口は開いた。
「……川上さんは、知っていますか? 紫雲さんの噂」
急に何って思ったんだけど、さっき感じた不可解の答えがそこにありそうな気がして、自然と問い直していた。
「魔法が使えるって……話?」
「はい。実は私……以前、東京で紫雲さんを見かけたことがあるんです」
いまいち話が見えないんだけど、一つ気にかかることがあった。
「……いつの、話?」
「先月の話です。お察しの通り、そこが『魔法地域』と呼ばれるようになった、そのあとの話です」
あんな魔力の濃いところ、一般人は近づかない。
鴻上さんの目は、震えていた。
確かにここまで、何一つ科学的じゃなかった。それは言われるまでもないことなんだけど、でも魔法ってもっとこう、キラキラしてて明るいイメージがあったんだ。
ただそうなって久しいから、知識としては当然ある。
多分、信じたくなかった。のかもしれない。
吸い込む空気さえ、なんだかちょっと、重かった。
「……私の家系も、実は魔法使いなんです」
木に預けていた頭を、どうにかかっくんと持ち上げて、彼女の顔を視界の真ん中にもってきた。
驚きが苦しさを打ち消すことはなかったけれど、概念としては知っているそれに、私は初めて相対した。
ていうかなんで魔法使いが、こんな田舎にいるんだろう。非魔法地域だっていうのに。
「兄や姉はみんな、魔法が使えて、家族で唯一私だけがその才に恵まれませんでした。そんな出来損ないの私なのに、家族は優しく接してくれて、それが逆に申し訳なくて……」
両手でネックレスをしっかりと握ったまま、両肩はゆっくり上下する。
それなのに、どうしてそんなに、息苦しそうな表情をしているんだろうか。
「耐えられなくなって、家族から離れて暮らすことのできる、この学校に通うことにしたんです。このネックレスは、家を出る私のために、姉が作ってくれた魔法のアイテムなんです。これを身に纏って砕くと転移魔法が発動して、一瞬で実家に戻れてしまうんです。いくら魔法が使えないからって、過保護がすぎると思いませんか?」
優しく微笑んでみせた瞳には、涙が滲んでいた。
私はよくも悪くも、家族から期待を向けられたことがない。彼女が今どんな気持ちで、何を理由に躊躇っていたのか、理解できそうになかった。
それでも、慮って然るべきなんだ。
それが彼女にとって、大切な価値観であることを。
「でもそれが、こうして誰かの役に立つのなら、姉に、ちゃんとお礼を言わなきゃですね」
涙を拭ってから、ネックレスの留め具を外して、差し出した。
「どうぞ」
円形の枠の中に、ガーベラの花を象った金属製のネックレス。
ガーベラの花言葉はたしか、希望や前向き。才能に恵まれない彼女を励ますために贈ったのだろうか。
「戻ってきたのが私じゃなくてみんなびっくりすると思いますが、その怪我を見たらきっと助けてくれるはずです」
「受け取れないでしょ……そんな、大事なもの」
「こういうときのためのものなんです! 人の命には代えられません」
そりゃそうだよ。どれだけ大切なものでも、人の命に代えられるものなんて滅多にない。
でも、だからこそ受け取れない。
「……だから、自分で使いなよ」
「私は────」
彼女の声をかき消すように、何か唸り声のようなものが雑木林に響いた。続けて、木が折れる音。それも枝みたいに細いのじゃなくて、多分幹ごと。微かに地面も揺れた気がするから、もうかなり近い。
今から鴻上さんが走ったって、多分逃げられない。
「私のことはいいから……行って」
「…………ダメです、そんなの……」
どんどんと声が小さくなっていって、つられて視線も下がっていた。
最後の一言なんてもう、目の前にいる私にすら聞こえなかった。
それなのに唇の動きと表情だけで、彼女の声が遅れて届いた気がしたんだ。「もう嫌なんです」って。
「ダメなら、どうするのさ……一緒に死んでくれるの?」
こんなこと、当たり前に冗談で言ったのに。
「……そうします」
少し迷ってから返された言葉は、今までで一番力強くて、なんの言葉も返せなくなってしまった。
「もう……嫌なんです。誰かを見殺しにして生きるくらいなら、私は死んだ方がマシなんです……!」
見殺しって、この状況は別に鴻上さんが悪いわけじゃないじゃん。むしろ私は自分から進んでここに来たわけだし、それを犠牲みたいに思われるのは不服っていうか、癪だ。
まるで私が、鴻上さんを生かすために断ってるみたいじゃないか。
「違う……そうじゃない」
この状況は誰かに責任があるわけじゃない。互いにやむを得ず窮地に陥ったんだ。なら持つ者が助かって持たざる者が死ぬ。それが道理だ。だからそのペンダントは、持ち主が使うべきなんだ。
まして私は重症。助かる見込みもずっと薄い。この状況なら私は、他人から奪い取ってまで生きたくない。それも相手が鴻上さんみたいな優しい人間なら、なおさらだ。だからこれは、断じて見殺しなんかじゃない。断じてだ。
今思い浮かんだ伝えたいこと、全部伝えられるほどの余裕なんてなくて、でもきっと、伝えられたとしても彼女だって譲らないだろう。だからといって、ここで、二人一緒に命を懸ける必要なんてないから、それだけは阻止しないといけない。
「そもそも、私は……助からない」
「なら! 私もここで死にます」
は? 何言ってるんだ、この人。
駄目だ、感情が高ぶり過ぎてる。危機的状況で正常な判断ができてないんだ。
「私は助からなくてもいいんです! 助けたいんです! 貴方をここに置き去りにして私だけが助かってしまったら、また……」
藁にでもすがるように、瀕死の私にしがみついてきた。
「もう、あんな思いはしたくないんです! お願いです! お願いします……お願いですから、助かって下さい……」
ワイシャツの袖が濡れて、透けていく。
あぁ、そういうことか。やっとわかった。
一度肺にたくさんの酸素を取り入れてから、ゆっくりと吐き出した。
少し前にも気にかかったんだ。「もう嫌なんです」って。まるでいつかの自分に、何かを重ねてるみたいだなって。
「……転校生。ね」
「ぇ?」
ゆっくりと上がった顔は、涙で滲んでいた。




