プロローグ二話 人の形をした何か
歩き方がふらふらとしておぼつかない様子だし、思わずかけていた声にも返事しないまま、外へ出て行ってしまった。
心なしか、玄関がなんだか肌寒い。
ていうか今、上履きのままじゃなかった? それに鞄すら……
「おっ、飾じゃん、今帰り?」
無意識に、追いかけようとしていた。後ろからかかった声。振り返ると、同じ班のあの子だ。
「え、なに? どしたの? 怖い顔して」
「あっ、いや、別に……」
驚きを引きずったまま、振り返っていたみたい。
……さっきの鴻上さん、絶対何かあったよね。
嫌な感じだ、紫雲真夜の事も気になるけど、それどころじゃない気がする。
「そう、なの? ならさ、今から───」
「ごめん! ちょっと用事!」
急いで靴を履き替え、勢いそのままに出入口へと駆け出した。
誰かのために進んで自分を犠牲にできる鴻上さんのことだ、無理が祟ってたって不思議じゃない。
考えすぎ、だろうか。でも万が一違うのなら、力になってあげなきゃいけない。
「お、おう。がんばれー」
背中から声がした。
初めて誘って貰った気がする。なのに私は……
いや、いいんだ、それで。
これまで多くの人へ手を差し伸べてきた彼女の優しさが、こんなところで押し潰されていいはずなんてないから。
階段を蹴って浮き上がる。身体がいつもより軽い気がしたんだ。
「あれ……いない」
玄関前。
さっきの今でしょ、あの足取りでそう遠くに行けるとは思えない。
少しの焦りを感じつつ、校門付近まで急いだ。
両脇にイチョウの木が植えられた一本道。夕陽が差し込むそこには、校門へ向かう生徒たちがまばらに見受けられた。
だが、そこにも彼女の姿はない。
校外へ出るのなら、必ずこの道を通る。ならまだ敷地内?
「……!!」
不意に、どこか嫌な気配が襲ってきて、思考が一旦打ち切られる。
どんなとは言い難い。違和感というか、引っかかり。
だけど明確な方向性があって、それが私を、ゆっくりと振り向かせたんだ。
「鴻上さん……!!」
遠くに彼女が見えた。並木道とは反対、校舎裏の方だ。でもそっちって、ただの雑木林だったはず。
校舎裏へと消えるその姿に、嫌な感覚が増した。
なんだ? 上手く言えそうにないけど、急いだ方がいい気がする。
走り出さずには、いられなかった。
「はぁ……はぁ……」
やっぱり何かが変だった。
呼吸がしづらいし、口をつく息が白い。
運動不足の自覚はある。けどきっと、そのせいだけじゃない。
「やばい……かなり冷えてきた」
さっきからなんか、視界がチラチラ黒で覆われる。
いつの間にかに、風速も増していた。
もはや歩くのすらしんどくなってきたんだけど、それでも彼女のことが気に掛かって、足を止められなくて、ようやく辿り着いた校舎裏の角を、やっとの思いで曲がったんだ。
「———なっ……何、これ」
雑木林の中を満たしていたそれに、思わず絶句した。
それがなんなのか、私にはわからなかった。何って言いようがない。形容しがたいんだ。
視界には黒い靄のように見える。それが本来の色なのか、辺りが暗いからそう見えたのかはわからない。ただ、肌を透過するたび、べっとりとまとわりつく感覚だけが残った。
「鴻上さん! 大丈夫!?」
靄が一番濃い場所に、彼女はいた。
背中へ投げかけた言葉に、返事はない。
もしかして、意識がないの?
よく見たら両足とも地面から浮いている。
どういう原理かまるでわからないけれど、ここから連れ出した方がいいのは、間違いないだろう。
「ねぇ! 鴻上さん! 聞こえてる!?」
彼女までたかだか10歩程度。それなのに黒い靄が地吹雪みたいに吹き荒れていて、声が届いているのかもわからなかった。
こうなったらもう、直接触れて確かめるしかない。
でも……進まないといけないの? この先に?
来た道を一瞬、振り返る。
わかってる。
首を振る。
諸々全部押し殺して飲み込むと、喉から一回、音が鳴った。
「……今、行くから」
一歩ずつ、鴻上さんの元へ足を運ぶ。
「───いっ」
風がうるさかった。小枝や石が巻き上げられて、顔を掠めていく。
髪や制服が靡いて歩きにくいし、汚れるしでもう、最悪。
なんで私、こんなことしてるんだ。
そもそもこれ、何がどうなって、こうなってるわけ?
踏みだしたことを既に後悔しながらも、それでもなんとか歩みを進めて、鴻上さんに腕を伸ばしたんだ。
指先から制服の感触が伝播して、手のひらは彼女の背中を押した気がした。
そしたら途端に、触れた途端に瞬いた。
瞬いて、小石が当たる痛みも、鼓膜を震わせていた音も止んで、目の前の景色が一変したんだ。雑木林の中から、一瞬で。
それでも目が眩むような眩しさはなくって、やんわりと目に馴染んだ風景は、見慣れた日常のそれだった。
どこの学校にもある普通の教室。ただ、棚とか張り紙とか、私がいつも見ているものとちょっと違う気がする。
「ちょっとぉ、その辺にしておきなってぇ、可哀想でしょー」
誰かの声がした。嘲笑うような、見下すような、そんな声。
振り向いたんだけど、なんかこう、違和感がある。
「またやってる……」
首が動かせないんだ。もっとこう、横向きにしたいのに。
それどころか私の意思とは関係なく、視界が正面に戻った。
「ほんと酷いよね」
女の子が一人、こっそりと私に呟いた。その子の顔に見覚えはない。まだ中学生くらいかな。
状況を飲み込めないでいると、唐突にガツンと大きな音が鳴って、また勝手に視線が奪われる。
「……なんか言った?」
声の主はさも不愉快と言わんばかりに、こちらを睨みつけていた。
その前に置かれている机は変に傾いている。足で蹴られたみたいに。
「ぃ、ぃぇ……」
なんなんだ、あの人。
私の正面に座っていた子は、完全に萎縮してしまった。
関わってもどうせ、ろくなことにはならないだろうから、私も視線を逸らしたかったんだけど、ここにきてまた、首が思うように回らなかった。
「……ちょっ、小鳥。やめた方がいいよ」
まるで私を呼ぶようだった。それなのに、小鳥?
そしてまだ、その意図を理解できないうちだった。
「で、ですが……」
ついには口が、勝手に動いていたんだ。
しかも聞こえたその声は、今日も昼間に聞いた声。
ああ、そういうことか。
どうやら私は、鴻上小鳥ちゃんの記憶を見ているのかもしれない。
気付くと同時に場面が切り替わって、今度は夕日が差し込むホームルーム。黒板の前に一人、女の子が立っていた。
「……さんはご両親の仕事の都合で、転校することになりました。今日が最後になりますので———」
担任が話す傍らで、その子はずっと俯いていた。
その子をチラッとだけ視界に入れたあと、小鳥ちゃんもずっと。
時々視界が滲んでは、手で覆われて何も見えなくなった。
苦しかった。胸が締め付けられる気がして。
痛いのに、なにもできない。ただただ痛む胸を抑え込んで、それが過ぎ去るのを待つこと以外、本当に、なにも。
その痛みの正体を、知っていた。身に覚えがあった。
でもきっと、これは私のものじゃなくて、それどころか、私が知っているよりも、もっとずっと大きくて重たかった。熱いし悲しいし辛いし。何より、呼吸を止めてしまいたいくらいに、苦しかった。
───途端に、暗闇が瞬いた。
「はっ」
次に意識がはっきりすると、私は雑木林の中に戻ってきていた。風も音も鴻上さんも、何も変わっていないまま。呼吸が荒くなるほどの苦しさだけが、綺麗になくなっていた。
「なに……今の?」
あの記憶は、一体なんだったのだろうか。
考えるにしてもひとまず、ここから鴻上さんを連れ出す方が先だろう。触れても反応がないから、意識もないんだろうし。
「ちょっとごめんね」
背中に触れていた手を肩に乗せた。
優しく引き寄せると、簡単に動いてもたれかかってきたから、そのまま左手を膝の裏に添えて抱えた。
「はぁ……良かった」
息はある。でもやっぱり、意識はなかったみたい。
靄の中心から鴻上さんを引き剥がすと、電池がなくなりかけたモーターみたいに、風や悪寒が衰えをみせた。彼女がコアみたいな役割を果たしていたのかな。
真相はわからないけれど、これが好機であることには違いないから、急いでその場を離れることにしよう。
風が弱まった影響もあって、来た道を戻るのは、来る時よりずっと楽だった。
半分くらい戻るまでは。
「風向きが、変わった……?」
さっきまで中心を囲うように渦巻いていた風が、唐突に向かい風となった。
足が止まる。嫌な気配だ。
まさか、鴻上さんを連れ戻そうとしている?
抱える手に、ぎゅっと力が籠った。
裏腹に黒い靄は流されて、久しぶりに収まった雑音。開けた視界。
雲さえ紅く染め上げる夕暮れが、息を吐くほど綺麗なのに、急遽訪れた静寂は、なんだか妙に不気味だった。
途端、遠くで鳥が一斉に羽ばたいた。鳴き連なるカラスの声。
「ハッ────」
背後から、今日一番の悪寒がした。
───逃げないと、やばい。
あんなに疲れていたはずなのに、足が既に、駆け出していた。
思い至る。私はなにか、重大な思い違いをしていたんじゃなかろうか?
急にしなり出した草木。
さっきのは、風向きが変わったんじゃない。
微かに震えだす地面。
辺り一帯の黒い靄が、集められたとしたら?
思い至った時点で間違いなく、全力で逃げるべきだったんだ。なのに私は、得体の知れない恐怖に惹かれて足を止めてしまった。
背後で何か、弾けた気がした。
振り返って、しまったんだ。
「───なっ」
瞬間、見えた、気がしたんだ。人の形をした何か。
でもその確証を得る頃には既に、私はその場にいられなかった。
強烈な風にさらされていたんだ。歩くことはおろか、立っていることさえもままならないほどの強風。鴻上さんを抱えていた私ごと持ち上げて、簡単に数メートル以上吹き飛ばすほどの、衝撃波にも似た烈風によって。




