プロローグ一話 滅ぼしたいもの
この世界の、もっとも不要なもの一つを選んでかき消してもいいのなら、私は迷わず滅ぼしたいものがある。世界のいたるところ、ありとあらゆる場所や場面からそれを排除して、取り除いて集約し、実在が確認できないほど細かく切り刻んだら、焼却炉で焼き払ってしまいたい。そして、間違ってもまた、それが世界に蔓延しないよう、そこから出た煙や残骸でさえ瓶に詰めて、海の底に沈めてしまいたい。
そうしたならば世界は、まるで錆付いた金具に油を差したみたいな円滑さで、合理的かつ理論的に、回る事ができるのだから。
「ねぇ、飾ー」
名前を呼ばれてふと、外の世界に意識が向いた。まただ。
「それ終わったらこっち手伝って」
「はいよーちょっと待ってて」
教室の隅に散らばった埃をかき集めては、塵取りですくう退屈な作業。こういう何の気なくできることをしていると、つい想い耽ってしまう。
適当に集めた埃をゴミ箱に捨て、頼まれた作業を手伝いに向かった。
「おまたせ」
「うん」
掃き掃除のために教室の後方へと追いやられた机たちを、元いた位置に戻す作業だ。
「そういえばさぁ、飾。英語の課題、終わってる?」
机を運ぶ私の隣に、机が一つ、並んでくる。
昼休みが終われば提出だというのに、おおかた、終わってないんだろうな。
「終わってるよ」
「さっすが、飾! 掃除終わったら見せて!」
強めた語気の勢いそのままに置かれた机が、ガツンと大きな音を立てた。
例えばそれが、友達でもなんでもない人からの願いであれば、私は基本、こう答える。
「別にいいよ」
「やったね! やっぱ持つべきものは友だよぉ」
「そだねー」
はしゃいでるその子をしり目に、次の机を運びに、来た道に戻った。
机は再び、二つ並んで運ばれる。
「飾ってさ、ドライなわりに意外と優しいよね」
またか。私は別に、優しくない。
おおよその人、このクラスに限ればほぼ全員に同じ言葉を、同じように返す。それがほとんど話したことない人でも、分け隔てなく。例外は二人だけだ。
それを優しさだと思ってしまっている。
「そう? 別に———」
興味がないだけだよ。なんて言われて嬉しい人なんていないから、私はなるべくそれっぽい言葉を探してしまう。
「みんなだって優しくない?」
これはきっと、悪い部類の癖だ。
「えっ? 私優しいかな?」
「そうなんじゃない?」
机を持ったまま立ち止まった彼女を置き去りにして、私は適当に言葉を返した。
「……そんなこと、初めて言われたんだけど」
「優しいでしょ? 特定の人には」
だから私は、この子があんまり、好きじゃない。
別に嫌いってわけじゃないから、これでいい。
人一人、通れるくらいの距離感で。
「特定の人って……ほんとそれなっ!」
表裏のない笑顔。
何が面白いのかわからないけれど、それでいいのだろう。
今度は私の方が少し先に運び終えて、そのすぐ後に、その子も机を降ろした。今度はちゃんと、ゆっくりと。
「いやでも、なんか飾がそう思ってくれてるのって、結構嬉しいなぁ」
面と向かって屈託なく、平然と言うんだ。
胸がキュッと苦しかった。本当に、ほんの少しだけだけど。
なんとなく彼女を見ていられなくって、視線が窓の外に向いた。
「───っ」
不意に何か、冷たい何かの気配がした。
「ん? 飾、どうかしたの?」
「……別に」
最近、たまにそれで肌寒くなる。なのにみんなは、まったく気にならないみたい。
だからそう返したのに、その子はわざわざ私の隣まで寄って来て、窓の外を覗き込んだ。
「そう言えばさ、昨日、珍しく部活に来てたんだ───」
両方の肘が手すりに載った。
「───紫雲さん」
目下には、グラウンドが広がっている。
掃除当番で仕方なく清掃業務を行なっている私の気持ちなんて、露ほども気にかけていない生徒たちが、昼休みを謳歌していた。
みんながボールを蹴るか投げるかしている中で、一際異彩を放っている人に、私の視線は持っていかれた。
「……バスケ部に? 帰宅部じゃなかった?」
「助っ人だよ、助っ人」
「なにそれ、漫画の主人公じゃないんだから」
「ねー、でも実際、そう言われても不思議じゃないよ。それに噂じゃ、魔法使いだって話だよ?」
「そりゃすごいね、で、なんで魔法使いともあろう御仁が、こんな片田舎の学校に通ってるわけ?」
最悪。右手の人差し指、ささくれてるんだけど。
「信じる気まったくなくて、ウケる」
「そりゃあね、どっちかって言うとアレ、物理側でしょ」
グラウンドへ落とした視線。隣の子も釣られて、そちらを向いた。
「まぁ、確かに……なんであそこまでできるんだろう」
「……さあね」
少なくとも私の知る彼女は、魔法なんていう神秘的な概念と、対極に位置している。
控えめに言って、狂気じみている。常軌を逸しているんだ。
「……私が知りたいくらいだよ」
だって毎日だよ、毎日。毎日昼休みの間ずっと、自主的にグラウンドをランニングし続けるような人間が、正気であってたまるか。
「意外、飾でもそんな風に思うんだ」
「それってどういう意味?」
「飾ってなんか、いい意味で人に興味ないじゃん? 他人からの評価を気にしないっていうか、価値観がズレてるっていうか——あっ、いい意味でね、いい意味で」
随分な言い方だ。まぁ、それくらいでいちいち目くじらを立てたりはしないけどさ。
「……それで?」
「と、とにもかくにも飾でも、紫雲さんのことは気にかかるんだなーって」
「そんなリズミカルに言われたって、気にかかるでしょ。さすがに」
どこまでもストイックで、他人に一切の興味を示さないし、誰かと日常会話をしているところすら見たことがない。話しかけても基本、「うん」か「うんん」。私が知る限り、彼女が学校で発した最長の言葉は「わかった」の四文字。にもかかわらず、そのミステリアスなところが人を惹きつけるようで、浮くどころか崇拝されてる始末だ。
一体どんな目標があればあんなに頑張れるのさ。どこからそれだけの原動力が湧き上がってくるのさ。私にはまったく、見当がつかないよ。
「……いいな」
机から消しゴムを落とした時みたいに、口から言葉がこぼれ落ちていた。
「ん? なにが?」
「なんでも」
想像もできないけれど、100歩ほど譲ってもしもの話。彼女から英語の課題で頼られるようなことがあれば、引き換えにその理由を訊ねることにしよう。
「窓際のお二人さん、口だけじゃなく手も動かそうな」
「あーごめんごめん」
同じ班の男の子に注意されたから、私たちは渋々、机を運ぶ作業に戻ることにした。
最後に見えたグラウンドでは、珍しく足を止めている彼女がいた。
その後、手分けして机を運び終えたらそこに載せていた椅子を下ろして、濡れた雑巾で表面を拭った。
掃除はもう、ゴミ捨てを残すだけになって、普通ならじゃんけんで押し付け合いをするところなんだけど、うちの班はちょっと違う。
「それじゃあ、あとはよろしくね、小鳥ちゃん! さてとー課題課題」
「……はい」
自ら進んで、ゴミ捨てを引き受けてくれる子がいるのだ。
ゴミ捨ての少女は名前を、鴻上小鳥と言った。
「ってことでかざりぃ、課題見せてー」
「はいはい」
人が嫌がることをすすんで引き受けることができる彼女からの頼みなら、私はきっと、簡単に課題を見せたりはしないだろうな。
ただそれさえも、真面目な彼女の性格を踏まえると、どうしたって起こり得ないもしもの話でしかないから、代わりに言葉を用意する。
「鴻上さん。ゴミ捨て、いつもありがとね」
彼女は教室の扉に手をかけたまま、顔を半分だけ振り返って、
「……好きで、やってますので」
弱々しく呟いて、逃げるように廊下へ出ていった。
同級生相手に、何をそんなに畏っているのやら。
以前気になって調べたのだが、鴻上とは大きな鳥を意味するらしい。その名字でなぜ、小鳥という名前が付いたのか、私はいまだに気に掛かっている。
そんな彼女を見送って、さぁ昼休みだって振り返る。一番に不満そうな顔が目に付いた。
「かぁざぁりぃ、課題!」
「わかったって」
なんか課題見せるの、不服になってきたな。てかそんなに見せて欲しいなら鴻上さんに頼めばいいものを。
とはいえ本人は私の心情など知る由もない。伝えたところでわかってもらえるわけがないだろうし、きっとこの子は変わらずこのままであり続けるんだろうしな。
だから私は———いや、そうじゃないな。そんな諦めみたいな理由じゃない。
そもそも別に、私をわかってもらいたいわけじゃない。彼女を変えたいわけでも。
なら別に、いいじゃんか。
不都合なんて、私の感情以外に、他にない。
「はい、これ」
彼女を引き連れながら自分の席に戻って、カバンからノートを取り出して手渡した。
今きっと、下手な笑顔も、作れてない。
「ありがと!! ほんと助かるよ!」
この子が見せて欲しいと言っているから、たとえそれが私の思う『優しさ』とやらに反していても、そうした方が角が立たない。
わかってもらえるか、わからないからじゃない。
どうだっていいんだ。この子のことが。
───だから私は、私がどれだけ不服であろうが、見せることを選んだ。
ほんと、『感情』なんてなくてもいいだろうに。
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なんてことだ。まさかここまで延びてしまっていたとは。
私が過ちに気が付いたのは、扉が閉まる音が鳴ってからだった。
放課後になってすぐ、私は図書館に向かったんだ。普段は寄り道なんてしないが、特段用事があったわけでもなかった。
それでも、強いてっていうほど薄い衝動でもなくって、元をたどれば昼休み。触発されてしまったんだ。
紫雲真夜を、羨んでしまったから。
「はぁ。何やってんだろ……私」
今更になって拾い上げたペンを、指先はくるくると回した。ふと、辺りを見渡してみる。もはや空席しかない。ここへ来たときは、空いている席の方が少なかったのに。
心境が思わず口をついたのも、きっとそのせい。
ここに座る前は確かにこう、今日は筆が乗りそうだっていう感覚があったんだ。なのに気がつけば、はや二時間。結局したのは読書のみ。
「……また、全然進んでないし」
テーブルの上のノートに手が伸びた。ページを一枚、振り返る。
失くしたペンを、小鳥が届けに来てくれたところから始まる、少女とスズメのミステリー。実話を脚色して書き始めたはいいものの、思うように進んでいない。
このままじゃ絶対、ダメだってわかっているのに。
「帰るか……時間だし」
この無為な二時間を、彼女はどれだけ有意義に過ごしたことだろう。なんて、自室で読書しているときにはまず考えもしないことが頭を過った。
ただ今日は彼女、五時限目の鐘が鳴っても教室に戻って来なかったから、もしかしたら体調でも崩したのかもしれない。
とはいえそれで私自身の怠惰が消えるわけでもない。
持ち上げた鞄は、来た時よりも重くなっていた。
「あれ? 鴻上さん……?」
運動部がトレーニングで使っている廊下を通り抜け、玄関付近に差しかかったところだった。
見覚えのあるシルエットが靴箱の裏へ消えていった。
この時間まで残っているの、珍しいな。
そういえば彼女、昼休みに紫雲真夜がいなくなってから、休み時間の度探し回ってたっけ。来週までの課題も自分から渡しに行くって、手を挙げていた。
本当によくやるよ……って、
「……あれ?」
なんか変じゃない?
体調不良なら探すまでもなく保健室にいるはず……まさか、いなかったの? 早退ってこと? いや、荷物教室におきっぱだったし。
じゃあ、紫雲真夜は一体……
鴻上さんちょうど帰るところみたいだし、色々訊いてみよう。
このまま行けば、彼女がちょうど靴を履き替える頃には追いつける。適当に今来た風を装って話しかけよ。なんて、考えていたんだ。
「ちょっ、こ、鴻上さん……!?」
思わず、普段出ないような声が出た。
彼女の様子が、明らかにおかしかったんだ。




