プロローグ零話 ほんのちょっとだけ前の話
今から話すのは、ほんのちょっとだけ前の話。まだ私が何も知らず、何者でもあらず、平凡に暮らしていた、その頃の話だ。
「はっ! 何だ、今の……?」
訳あって後から聞いた話だから、そこに私はいないけれど、その時にはもう、始まっていたらしい。
「きゅ、急に何ですか! おどかさないで下さいよ、先生」
「わ、悪い。だが今、そこで何かが……」
「何かってなんですか? どうせシカとかキツネとかじゃないんですか?」
その時間帯の私といえば、たしか自室のベッドに寝転がりながら、呑気にスマホを眺めていたはずだ。
「あ、ああ、そうだよな。でもなんか、黒かった気も……」
「白いチョークを投げつけられたって、振り返った瞬間なら、色なんてわかりませんよ」
「……まぁ。そうだよな」
その翌日に起こることなんて、一切知ることもないままに。
「以上がお二人の、最後の記録となります」
ホログラムの停止ボタンを押して、その人は振り返った。
「最後?」
「はい。その後、一切の音も拾えませんでした。悲鳴や残響はおろか、獣の鳴き声や服の掠れる音、そして足音さえも」
ビデオ通話の相手は冷静に一呼吸おいてから、端的に口を動かした。
「……場所は?」
「隣町です、デバイスに位置情報をマークしたマップデータをお送りしますね」
「わかった、行ってみる」
「———副統轄長様」
通話画面を消そうと伸びていた手が、止められた。
「その前にお一つよろしいでしょうか?」
「うん」
「つい1時間ほど前にお送りさせていただいた報告書の方には、お目を通されておりますか?」
「うん、読んだ」
「やはり、先週同様、すべての項目において増加傾向を維持しておりました」
「みたいだね」
「濃度は依然20%台を維持しておりますが、面積としましては約1%ほど増加。一、二ヶ月……とは言いませんが、さほど遠くない未来、副統轄長様がいらっしゃる辺りでも、異変が起こり始めるかもしれません」
声や表情の端々から、心配が窺える様子だった。
「……本部からの指示は?」
「現状維持です。変わらず、有事の際は副統轄長様のご判断に委ねられるそうです」
「わかった」
「それと、これから現場へ行かれるのであれば、くれぐれも防寒対策を失念なされませんよう、お願いします」
「向こう、寒いの?」
「降雪が確認されております」
タブレット端末に視線を落としながら、「観測史上最速だそうです」と付け加えてから、因んだ。
「まだ、八月ですから」
私がこれを知るのはまだ少し先の話なんだけど、全てを知った今だって、後悔なんてない。それでも今に至るまで、色々あって結構大変な思いもしたんだ。時間にすれば、たかだか十日。されどその十日が、当時の私の、何もかもを変えてしまった。
ほんとにもう、変わってしまったんだ。




