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孤ノ影斗記 \ Anti-Dreams  作者: 鰓鰐
第α章 青嵐―Into the Blue ―
3/14

〈2〉


―2―



「や、八神くんって、陸上部だよね?」


図書室を後にし、村山の家に向かう道すがら、美原が不意に尋ねてくる。まだ日は充分に高く、アブラゼミの鳴く声がいたる場所から聞こえている。青天には雲一つなく、アスファルトが熱でゆらゆらと揺らめいていた。


「うん、短距離」


「そ、そうなんだ。八神くん、背が高いから高跳びかと思ってた」


それを聞くと、八神七斗は困ったように苦笑する。


「誰に似たんだか、まだ身長伸びてるんだ。そのせいか、バスケ部にからかわれるよ」


「そ、それは、八神くんの運動神経がいい、っていうのも、あると思う……体育祭の時、凄かったし」


何かを思い出すように、美原が眼鏡の奥の目を細める。それを聞くと、八神七斗は照れくさそうに笑っていた。


「あの時のサッカーか。土壇場での逆転だったもんな。でもあれは、パスを回した奴がうまかったんだよ。たまたま俺がいい位置にいたから、シュートを撃ったのが俺っていうだけ。……っていうか美原さん、試合見てたんだ?」


そう尋ねると、美原は途端に顔を赤くし、おどおどとした様子で視線を逸らす。それから彼女は(せわ)しなく眼鏡に触れながら、小さく、本当に小さく頷いた。


「じょ、女子のバレーの方は、すぐ負けちゃったから……そ、その……」


「そっか、男子の方を応援に来てくれてたんだ。ありがとう」


美原が顔を真っ赤にしている事には気付かず、八神七斗は足を進める。やがて住宅街に差し掛かると、彼は一軒の家の前で立ち止まった。


「ここ、だよな」


表札を確認してから、八神七斗がインターホンを鳴らす。しばらく二人して玄関前で待っていると、誰かがドア越しに立ったらしい物音が耳に入ってきた。


「……八神?」


てっきり家人が出るとばかり思っていた八神七斗は、それが欠席している村山本人だと気付くと、少しばかり意外そうな顔をした。


「ああ。体調よくないって聞いたから、ちょっと寄ってみた。それと、美原さんも一緒だ。委員会の事で、話があるって」


「……そうか」


それだけを言うと、ドアの施錠を解いたらしく、ガチャリ、と鍵を回した音が聞こえてくる。しかし、それ以上何の反応も返ってこない。八神七斗は、思わず美原と顔を見合わせた。


「村山、入ってもいいって事か?」


「……ああ」


その返答を聞いて、八神七斗は遠慮がちにドアを開いた。玄関に足を踏み入れるも、そこには誰の姿もない。無造作に脱ぎ捨てられたままの靴が三足、そこに並んでいるだけだ。心なしか、空気がわずかに埃っぽい。


「悪い、ドアを閉めてくれ。外の空気に当たるのはよくないって、言われてるんだ」


奥の部屋から、声だけが聞こえてくる。美原が慌ててそれを閉めると、ようやく村山は、のそのそとした足取りで姿を現した。


「……村山、体調は平気なのか?」


その同級生の姿を見て、八神七斗は思わず尋ねる。室内だというのにフードを被った彼は、頬が痩せこけ、目には活力がなく、落ち窪んでいる。てっきり周囲の話から登校拒否だと思っていたが、存外本当に体調が悪いだけなのかもしれないと、八神七斗は思いなおしていた。


「今日は、結構気分がいいんだ。……まあ、上がれよ」


そう促され、八神七斗と美原はどうしたものかと、再び顔を見合わせる。その様子を見ていた村山は「立ったまま話してると、さすがに疲れるから」と口にすると、さっさと奥に進んで行ってしまった。


「……お邪魔します」


声を揃えながら言うと、二人は(あが)(がまち)を跨ぎ、家へと上がり込む。村山の後を追った先、彼が待っていたのはリビングだった。どういう訳かカーテンが閉めきられ、薄暗い部屋の中には生活感がない。


「悪い、せっかく来てもらったのに、何も出すものがなくて」


ソファーに腰掛けた村山が、力のない声で口にする。八神七斗は首を横に振って応じた。


「気にするなよ。……そういえば、家の人はいないのか?」


妙に静かな室内を見渡しながら、八神七斗が尋ねる。村山は顔を上げる事なく、小さく頷いただけだった。


「……うん。出掛けてる」


それっきり、村山は黙り込んでしまう。何から切り出せばいいものか八神七斗が迷っていると、不意に美原が、何かを探すように周囲を見渡している事に気付いた。


「美原さん、どうかした?」


「え?あ、う、うん。その……何か……ガス?みたいな臭いがしない?」


そう言われてみて、八神七斗も周囲に意識を集中させる。埃っぽい空気の手前、無意識に呼吸を浅くしていた彼は、そこで初めて微かな刺激臭に気付く。


「言われてみれば、確かに……ガスが漏れてるんじゃないか?村山、確認した方がいい」


「ああ、大丈夫だよ」


何でもない事のように、村山が答える。しかしガス漏れとあってはそのまま放置するわけにもいかず、八神七斗は食い下がろうとする。


「けど、何かあってからだと……」


「そう言うなら八神、お前が見てきてくれよ」


深めに被ったフードの下から、胡乱な目で八神七斗を見上げる。その手は廊下の方を指差しており、恐らくはそこから先に台所がある事を示しているのだろう。


「……分かった。少し見てくる」


八神七斗がそう答えると、美原はわずかに不安げな視線を、彼へと向ける。心配いらないと目で答え、彼は部屋を後にした。廊下に出た瞬間、ムッと立ち込める臭いが濃くなり、鼻をつく。場所を聞かずとも、それがどこから臭ってきているのか、分かるほどだった。だが、足を進めるのに従って、八神七斗は徐々に疑問を抱いていった。鼻をつく臭いが、ガスのような刺激臭というよりは、腐臭のような生理的嫌悪感を掻き立てるものに感じられたのだ。


「……ここか」


異臭のしてくる部屋を見つけると、八神七斗はドアに手をかける。しかし、ノブを回してそれを開けた瞬間、八神七斗は口元を両手で押さえて眉をひそめていた。


「っ、何だこれ……!?」


強烈な臭いに思わず咳き込む。彼はすぐさま窓へと駆け寄ると、それを開け放ち、我慢していた息を一気に吐き出した。涙目になりながら呼吸を整えると、彼は再び息を止めて部屋の中に目を向ける。これは、ガスの臭いなどではない。腐った生物(なまもの)を混ぜ合わせたような、人の嗅覚が受け付けない、()えた臭いだ。不意に、臭いに誘われたのか、開けた窓から一匹のハエが入り込む。部屋の中を飛び回るそれを、八神七斗は目で追いかける。やがて、それがたどり着いた先にあった物に、彼は目を見開く事になった。


床の上に倒れたショッピングバッグからは、割れた卵や、萎びたキャベツや、色の変わった牛肉のパックが転がり出ている。少なくとも数日、その状態のまま放置されていた事の分かるそれは、明らかに異常の物と言っていいだろう。だがそんな光景も、そのショッピングバッグの先に転がっていた物の前では、些細な事象でしかなかった。女性が、倒れていたのだ。恐らくはそれが、村山の母親なのだろう。



すでに事切れ、微かな腐臭を放ち始める女性の死体が、そこに転がっていたのだ。



不思議と、嘔吐感を覚えたのは腐臭を嗅いだ時ではなく、死体の存在を認知したその瞬間だった。初めて死体を見た衝撃に、恐怖感や忌避感を覚えるより先に、彼は流し台へと頭を突っ込み、吐瀉物を溢す。脳が、体が、目の前の現実を受け入れられない。一人の人間が、腐った食物と一緒くたに、まるで生ゴミのように打ち捨てられている。それは到底、一介の高校生に許容出来る光景ではなかった。脚からは力が抜け、そのままヨロヨロとへたり込んでしまう。


「やっ……離……!八神くんっ‼」


八神七斗を正気に引き戻したのは、居間の方から響いてきた叫び声だった。振り絞るような、絹を裂くようなその声で、八神七斗の全身を新たな悪寒が襲う。それで全ての事態を察すると、彼は拳で膝に渇を入れ立ち上がり、全速力で、飛ぶような速度で廊下を駆け戻る。蹴破るような勢いでドアを開け居間に駆け込むと、目に飛び込んで来たのは、床の上に押し倒された美原と、その上に馬乗りになっている村山の姿だった。


「何してるっ、村山ッ‼」


咄嗟に村山の襟首を掴むと、八神七斗は彼を美原から引き剥がそうと、力を込める。だがその瞬間、八神七斗は違和感に気づいた。村山の体が、動かない。仮にも男一人が全力で、体重をかけながら引いているのにも関わらず、どういう訳かまるで岩山でも相手にしているように、彼の体はびくともしないのだ。


「台所にあったの、見たろ?八神」


言いながら、片手間に八神七斗を払いのける。手を払って、胸元を押す程度の軽い動作だ。だがその直後、八神七斗の体は宙に浮いていた。足が床を離れ、グン、と内臓がせり上がるような感覚を覚えた直後、彼は部屋の反対側まではね飛ばされていた。


「カッ……ハ……!?」


4m近く飛んだだろうか。強い力で壁に叩きつけられ、息が詰まる。その勢いに、背中の骨と壁材が、ミシリという音を立てて軋んでいた。飛びそうな意識の中、八神七斗は床の上に倒れ込みながら、未だに美原に跨がったままの村山を、信じられない物と遭遇したような表情で見上げた。今のは、明らかに人力で成せるものではない。どうにか咳き込んで息を吐き出すと、八神七斗は壁にもたれかかりながらヨロヨロと立ち上がった。


「殺すつもりはなかったんだ。本当に。ただ、力加減が分からなくて」


一方で、感情のない顔で言いながら、村山は眼下の美原を見下ろす。口元を村山の手で覆われた彼女は、眼鏡の奥に涙を湛えながら、どうにかそれを押し退けようともがいている。だが、八神七斗の体格ですら微動だにしなかった彼の事を、わずかたりとも動かす事は叶わなかった。


「俺のせいじゃないんだよ。俺は悪くない。仕方ないだろ?こんな体になったらさ」


八神七斗の方を振り返って、村山は自嘲するように口角を上げる。それを見た瞬間、八神七斗の背に、言い知れぬ悪寒のような物が這い上ってきた。村山の口の端からは、鋭利な二本の牙が伸びていたのだ。それはまるで、肉食動物の持つ鋭い犬歯か、或いは──伝承に聞く吸血鬼の牙を彷彿とさせた。


直後、村山はその口を大きく開いたかと思うと、まるで八神七斗の想像を体現するかのように、美原の喉元へと勢いよく噛みついた。くぐもった悲鳴、金切り声は、それでも部屋中に響き渡る。まるでその光景は、生きたまま捕食される生物を見ているような、本能的な拒絶感を覚えさせるものだった。


ほとんど突発的に、八神七斗は足元に転がっていた電気スタンドを拾い上げると、それを村山に向かって振り下ろす。1m超の、金属製のスタンドだ。無論、まともに脳天へ叩き付けられれば、それこそ大人だろうと昏倒しかねない。それでも八神七斗は、目の前で行われている凶行を前に、迷いなくそれを実行した。真上から、半円を描くように、スタンドが振り下ろされる。だが、それが村山を捉える事はなかった。


「……ッ!?」


その動きを、目で追う事は出来なかった。気付いた時には右のこめかみ辺りに熱い痛みを覚え、声をあげる間もなく壁際まで跳ね飛ばされていた。村山は未だ美原にかじり付いたままである。ただ、右足だけを八神七斗の方へと向けて、真っ直ぐ伸ばしている。手にしていたスタンドが真っ二つに折れ、無様に倒れ込んだ自分の手元に転がっているのを見てようやく、八神七斗は自分が蹴り飛ばされた事を理解した。


「……あ……ぐぇ……」


視界が歪む。頭を強く打ったせいだろう、鼓膜の奥ではガンガンと耳鳴りが響いて、吐き気を催すほどだ。真っ直ぐに立ち上がる事すら出来ず、力を込めたはずの膝は折れ、そのまま大きくよろめき、彼は手近にあったカーテンを巻き込みながら、床の上に倒れてしまう。しかしその瞬間、事態は急変した。


「────ッ!?」


それまで不動を貫いていた村山が、唐突に顔を上げる。その、直後だった。


「っ、しまっ……く、ぁぁぁぁ!」


ブチブチと音を立ててカーテンが千切れるのに紛れて、響いてきたのは村山の悲鳴だった。突然の事に八神七斗が顔を上げると、窓から差し込んだ西日に照らされ、村山は自らの目を両手で覆っていた。状況は理解出来ないが、それでも美原を救い出せるのが今この瞬間をおいて他にない事は、はっきりと分かった。


「っ、村山ぁっ!」


ほとんど転がるような勢いで、つんのめるようにして足を踏み出し、体ごと村山へとぶつかる。体重を乗せ、自らの肩で相手の脇腹を押し退けるようにして、それでようやく彼の体は美原の上から退いた。そのまま二人の体はもつれ、床の上へと転がるが、八神七斗は咄嗟に両脚で村山の腹部を挟み込むと、強引に床へ叩き伏せ、どうにかマウントを取った。


「村山、これはどういう事だっ!?」


未だ顔を押さえながら呻いている村山の胸倉を掴み、怒鳴るような勢いで問いかける。


「いったい、何があった!?お前、何も無しにこんな事をする奴じゃないだろ!?話なら、俺が……」


腹の底から声を絞り出した直後、再び眩暈に襲われた八神七斗は、蹴られた痕を押さえながらよろめく。自らの手を見ると、瞼の横が切れているらしく、赤い血液が指を濡らしていた。


「っ、血……!!」


その瞬間、村山は何かに怯えたように声をあげると、八神七斗の事を押しのけていた。そのまま陽光の当たらない部屋の奥に、逃げるように這って行く。


「俺……またやっちまったのか……!?ダメだって、分かってたのに……!もう、飲みたくなかったのにっ……!!」


部屋の隅に縮こまり、まるで罪の意識に苛まれる罪人のように、ガタガタと震える。それは、ほんの数秒前とは別人のような豹変ぶりだった。


「村山、お前は……」


彼が正気に戻ったものと思い、近づこうとした八神七斗は、その時美原の姿がない事に気付く。直後、玄関のドアが開閉される音が、彼の耳に届いた。


「美原さん……!?」


慌てて体を起こすと、壁伝いに音の方へと向かう。その最中、村山の方を一度だけ振り返った。


「村山、話は必ず後で聞く。少し、待っててくれ……」


ヨロヨロとよろめきながら、頼りない足取りで玄関の方を目指す。彼が歩いた後に、点々と赤い血の跡が残っていた。


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