〈10〉
―10―
六限目の授業が終わり、SHRを経て放課となる。教室に残り駄弁る者、部活動へ向かう者と、生徒たちはそれぞれの時間を過ごし始める。それを、八神七斗はどこか他人事のように眺めていた。ふと、首元の傷口を隠すガーゼに手をやる。村山や美原の件から、すでに二週間が経とうとしていた。
「なあ、八神」
不意に、近くにいた数人の男子生徒たちが、声をかけてくる。
「これからカラオケ行くんだけどさ、お前はどう?」
「あー……悪い、今日はパスで」
苦笑しながらそう答えると、彼らは少し複雑そうな顔をする。それを見て、八神七斗は察した。事件に巻き込まれたという八神七斗に対して、彼らは彼らなりに気を遣っていたのだ。
「……えっと、ごめんな」
思わず八神七斗がそう口にすると、その内の一人が、笑いながら彼の肩を叩いた。
「何でお前が謝るんだよ。俺らはただ、八神を連れて行けば女子が釣れるから、誘っただけだっての。な?」
同意を求めるように言うと、彼らはわざとらしく下卑た笑いを浮かべる。思わずその光景に、八神七斗は吹き出した。
「ははっ!何だよ、それ。……ありがとうな。また、落ち着いた時に誘ってくれ」
「おう。確かに聞いたぜ」
口々に別れの言葉を言いながら、彼らは教室を後にする。それを見送った後で、八神七斗は窓の外へと目をやった。グラウンドでは、すでに多くの生徒たちが部活動を始めている。少し前まで、彼自身も加わっていた光景だった。
学校に再び顔を出すようになってから、八神七斗は退部届けを提出した。理由は今さら語るまでもないが、彼が巫という特殊体質者になってしまった事に、他ならない。以前まで5秒台後半で走りきっていたはずの50mを、今の彼は1秒半で終らせてしまう事が出来る。無論、普通の人間にそんな記録が出せるはずはない。故に、彼はもう人前で走る事が出来ない。そして何より、努力を積み重ねて達成した5秒台の価値が薄れてしまったような、虚しい感覚に耐えきれなかったのだ。
「俺……この時間、いつも何してたっけ……」
トラックを走る部員の姿を見て、八神七斗は小さく呟く。その光景が、今の彼には恐ろしいほど遠くのものに見えてしまっていた。
いつの間に時間が経っていたのか、グラウンドで部活動をしていた生徒たちは、それぞれの用具を片付けて、ちらほらと帰路に着き始める。気が付けば、教室には自分以外誰も残っておらず、壁にかけられた時計は6時を指し示していた。
「……帰るか」
力なく口にして、八神七斗はようやく教室を後にする。下駄箱で靴を履き替え、校門まで向かう道すがら、彼は何気なく無人のグラウンドへと目を向ける。思わず、自嘲的な笑いが出た。
「未練がましいな」
中学の頃から、ずっと短距離を走ってきた。挫折を何度も経験して、それでも諦めきれずに、続けてきたものだった。だからこそ、なのだろう。このままでは、踏ん切りがつかなかったのだ。
八神七斗は誰もいないトラックに向かうと、荷物を下ろしてブレザーを脱いだ。襟元のボタンを外し、腕捲りをした後で、クラウチングスタートの構えをとる。距離は、100m。八神七斗が走る、最後の100m走だ。
「位置について、よーい……」
毎日のように繰り返した動作で、腰を上げる。体に染み付いた所作が、流れるように形になる。
「──ドン」
その一言と共に、彼はスターティングブロックを蹴った。
踏み出した足がタータントラックを規則正しく叩き、加速のついた体が風を切る。整ったフォームで、しかし一心不乱に何かを振り払うように、前へと進む。呼気が、体が、熱を帯びていく。体が、速力に耐えきれていない。それでも、どうかこの時間が、この100mが、もう少しだけ続いてほしいという願いを、一歩毎に失いながら──
彼は、人生で最も短い100mを走りきった。
「はっ、ぐっ……」
その瞬間、八神七斗の体が倒れる。無様に荒い呼吸をしながら、頭から滝のような汗をかきながら、彼はトラックの上で仰向けに、大の字の格好で横たわっていた。
「……終わった」
絶え絶えな息の中、八神七斗は脱力と共に呟く。自然と彼は目を閉じて、無理をした事の反動に耐えていた。そしてそれにも勝る、達成感とは呼び難い、行き場のない感傷に胸中を埋め尽くされる。
そんな時だった。熱を帯びた彼の額に、冷たい何かが触れる。驚いて目を見開くと、彼の額の上に、よく冷えたスポーツドリンクのペットボトルが置かれていた。
「……え?なっ……」
思わず、戸惑いの声を上げる。寝転ぶ八神七斗のすぐ隣に、どういう訳か一人の女性が腰掛けていたのだ。そして彼女は、紛れもなくICSAの隊員の一人、諸星南心だった。
「南心さん!?何で……」
あまりに唐突な事に、八神七斗は慌てて上体を起こす。
「あんな事件があった後だからさ、この辺りの調査をしてたんだ。それで、そういえば七斗くんの学校この辺だったな、って思って、ちょっと覗いたの。そしたら……」
そこから先を、彼女は口にしなかった。八神七斗が何を思って100mを走りきったのか、彼女も察しているのだろう。
「……そっか、見ててくれたんですね。よかった。これで最後なのに、観客がいないのは少し寂しかったんです」
その笑顔が、痛々しかった。自分の手で、自分の夢にトドメを刺した少年を見て、南心の表情に一瞬苦味が走る。だが、彼女は笑顔を浮かべた後で、そっと口にした。
「ナイスラン、七斗くん」
その瞬間、八神七斗の表情が崩れた。これまで抑えてきたものが堰を切って、口が震えそうになる。それでも彼は、込み上げるものを必死に抑えながら、大して上手くもない作り笑いを返す。
「はい。ありがとうございます」
どうにか、それだけを口にする。その表情を見ないようにしながら、南心は八神七斗の方にそっと手をやると、クシャクシャと乱暴な動作で、彼の頭を撫でていた。




