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八神七斗を置いて部屋を出るなり、その父親は、険しかった表情をより険しくさせた。眉の間には皺が寄り、口は固く引き結ばれ、目はどこか遠くを見据えている。
「カガリちゃん、あの子の事なんだけど……他言しないでもらえないかな」
その一言に、しかしカガリは予測していただけに、無表情のみを返す。カガリの眼前で、彼女から無言の拒否を受け取ると、八神医師は沈痛な面持ちの顔を、ゆっくりと俯かせた。
「この事がICSA内の人間の耳に入れば、あいつはもう、二度と元の生活に戻れなくなる。ましてや、数少ない特殊能力者だと知られれば……まず間違いなく、戦闘員としてこの組織に入隊させられるだろう。私は……家族を、息子を、そんな事から離れた場所に置いておきたい」
盗み見た八神医師の顔に、いつもらしい表情は見受けられない。医師としての顔ではなく、ただ息子を気にかける父親然とした顔で、彼は余裕なく言葉を口にしている。
「お気持ちは理解出来ますが……私には、今後彼が日常生活に戻れるとは思いません。あの脚力……恐らく、普通に生活するだけでも支障が出るはずですから。少し力加減を間違えて走った程度でも、彼の体には生死を左右するほどの負荷がかかる。それに、走る速度の問題だけではありません。もし彼が全力で脚を振ろうものなら、人間の内臓を吹き飛ばすくらいの威力になるんですよ」
冷静にそう答えるカガリの表情にも、少しばかり不安の色が見て取れる。それを横目で見ながらも、八神医師は苦悩にまみれた表情で、握った拳を壁に押し付けていた。
「分かってる。分かってるんだよ。それでも、私は……」
「──では、本人の意思を確認してみては?」
八神医師の言葉を遮った声は、カガリのものではなかった。唐突に聞こえてきた声に、二人は弾かれたように振り返る。彼らの後ろに、眼鏡の奥に鋭い双眸を持つ男性が立っている事を認めた瞬間、八神医師は目を見開いていた。
「局長……!?」
咄嗟に、カガリが頭を下げる。そこにいた人物こそ、ICSA日本支局における局長、珠王康玖その人だったのである。八神医師は、嫌忌の表情を隠さないまま、歯を食い縛っていた。よりにもよって、一番知られてはいけない人物に、この事を知られてしまった。タイミングが良すぎる登場を考えれば、探りを入れられていた事くらいは、想像がつく。恐らくは、どこかで監視されていたのだろう。
「先生ともあろう方が、当人を蚊帳の外にして、一方的に進むべき方向を決定してしまうなど。些か、感情的になっているのでは?」
ひどく、冷静な声だった。事実を淡々と告げるだけの局長に対して、しかし医師の表情は崩れない。
「ご子息の内情を鑑みてください。親しかった友人を二人も失った喪失感。吸血鬼に対しても、少なからず憎悪を抱いているはずだ。そして今、彼の体には戦えるだけの力がある。とすれば、やがて彼が行き着くところは一つではありませんか?」
それが暗に、八神七斗の入隊を示唆している事は、聞き返すまでもなかった。質問口調ではあるが、その言葉には有無を言わさぬ強さがある。
「……こんな事は言いたくなかったし、言うべきじゃないんだけどね」
医師は目を閉じ、深い皺を額に刻みながら、絞り出すように言葉を吐く。
「君なら、分かるだろう?今の私の、心情というやつを」
その瞬間、静寂と共に空気が張り詰めた。時間が凍ったように、医師と局長は視線を交錯させたまま、無言で互いを圧している。医師の一言に、果たしてどんな意味があったのか、第三者であるカガリには理解出来ない。だが、それでも二人の間に横たわる並々ならない事情の一端は、彼女の背筋に冷たい汗を流すのに、充分なほどだった。
「……後生だ。頼みを聞いてくれないか」
沈黙を破ったのは、八神医師の言葉だった。彼は腰を折り、深々と頭を下げる。だが、局長の顔に変化はない。
「それとこれとは、話が別でしょう。他ならないあなたの頼みだ、蔑ろにしたくないというのは正直なところ。しかしこの問題を放置する事は出来ない。……だが」
その時、局長の顔に初めて、表情らしい表情が浮かぶ。もっとも、それは何か意味を含んだような、薄ら笑いであった。
「実を言うと私も、先生に『頼み』がありまして」
それが、『頼み』などという言葉を被っただけの『取引』だということは、明々白々だった。故に、カガリは驚愕で目を剥く。天秤の片皿に乗せられているのが八神七斗の身柄だとして、局長は当然、それに釣り合う何かを要求するつもりだろう。特殊体質者、それも明らかに戦闘向きの能力を持つ八神七斗を、見逃す事に釣り合うもの──その重さは、科学者であるカガリにとっても、想像を絶する程に重いものだった。
血を吸われ、しかしその身を吸血鬼に堕とされる事がなかった時点で、その人間は充分に研究対象たりえる。仮にそのメカニズムを、吸血鬼にならない彼らの体を解き明かす事が出来れば、今後の吸血鬼による被害を、その一切合切を、根絶する事が出来るかもしれないのだ。ICSA全体で見てみても、そもそもの巫の数は極々少数。希少な存在である八神七斗の事を、局長が、組織の最上部に立つ人間が、容易な事で手放すとは思えなかったのだ。
「……カガリちゃん、少し、あいつの事を見ててやってくれないかな?」
そう声をかけられて、カガリは慌てて我に返る。いつの間に顔を上げていたのか、八神医師は真っ直ぐに、何かを懇願するような目で、彼女に視線を向けている。取引の──或いは勝負の場に上がった彼の目には、鬼気迫る光が宿っていた。
「……はい」
その『父親』の顔を見て、首を横に振る事は出来なかった。例え、これからどんなやり取りがなされ、どんな結果をもたらすとしても、そこに踏み入るだけの資格はないと、彼女は自身に言い聞かせ、頭を下げる。そのまま彼女は、気迫めいた何かに背を押されるようにして、二人を残した部屋に戻っていった。
「あれ?先生は……」
カガリが部屋に入った途端、南心は不思議そうな表情で首を傾げる。それに何を答えるべきか迷い、カガリは開きかけた口を再び閉ざす。
「……カガリさん?何か、あったの……?」
黙するカガリに何かを感じ取ったのか、南心の表情には不安の色が混じる。一方で、渦中にある八神七斗は未だベッドの上で上体を起こしたまま、本調子ではないぼんやりとした表情で、中空を眺めていた。
「一つ、聞いてもいいかな」
気付くと、カガリの口からはそんな言葉が吐かれていた。
「キミは、戦いたいと思う?」
「っ、カガリさん!」
怒気を孕んだ声だった。温厚な性格の南心が、声を荒げてカガリを見据えている。その問いが何を意味するものなのか、現行で戦闘員をしている南心にとっては、見過ごせないものだったのだろう。先程廊下で繰り広げられていたのとは別種の緊張感が、部屋に生まれかけていた。だが、それを霧散させたのは、八神七斗の一言だった。
「戦う……って、俺が?誰とですか?」
本当に、心底不思議そうに、八神七斗はそう問いかけた。その瞬間、南心とカガリは呆気に取られて、言葉を失う。八神七斗は、カガリの質問を、その意図を、全く以て理解していなかったのだ。あれほどの境遇を経験したのにも関わらず、八神七斗は憎むべき対象を、怒りをぶつける相手を、見出だせていない。そのちぐはぐに、カガリは眉をひそめるのと同時に、医師の守りたいものが『これ』なのだと理解すると、それ以上言葉を続ける事が出来なかった。
「ごめん、待たせたね」
誰もが口をつぐむ中、ドアを開ける音と共にその沈黙を破ったのは、八神医師だった。申し訳なさそうに苦笑する彼の表情の奥に、押し隠された何かを察する事が出来たのは、カガリ一人だった。
「それで……」
南心がそれとなく、八神七斗の処遇を促す。
「うん、しばらくは入院だね。学校に戻れるのは、まだ先になる」
それは、ICSAという組織の内情を知っている者からすれば、到底信じ難い一言だった。まるで──というよりは、八神七斗が日常生活に戻れる事を確定するかのような物言いに、南心もそこで何かを気取ったらしく、微かに表情を強張らせる。ただ一人、八神七斗だけが「そうか」と納得したように、消沈した様子で呟いていた。
「文化祭までに、間に合うかな……」
「そりゃ、お前がきちんと静養してればな」
不安を溢す息子の頭を、医師は乱雑にクシャクシャと撫でる。その一方で、彼が何をねじ曲げたのか察したカガリと南心は、閉口したまま目を落としていた。
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「本当によろしかったのですか?あのような条件で、特殊体質者を見逃すなど……」
八神医師との言葉の押収を終え、エレベーターへと戻る廊下の途中、珠王局長の背後から、女の声が問い掛ける。軽く首を後ろに向ければ、いつの間にやら足音も気配もなく、一人の女性隊員──十代程度の見目を考慮するに、少女と呼ぶべきか──が忍び寄っていた。特に驚いた様子も見せず、局長はそれだけを視認すると、再び前へと視線を戻す。
彼女は、この局長の護衛だった。立場上、命を狙われる危険性を考慮して、密かに忍ばせている懐刀である。だがしかし、護衛されている本人を除いて、彼女の存在を知る者は他にいない。というのもそれは偏に、彼女が穏形の才に秀でているからである。一度彼女が本気で姿を隠せば、常人がそれを気取る事はほぼほぼ不可能。その実力は、吸血鬼の目さえ欺くほどである。無論、ただの人間にそれだけの事が出来るはずもなく、それは彼女が、八神七斗と同じ特殊体質者である事を示していた。
「ああ。あれで構わない」
淡々と、局長は言葉を返す。内密の護衛という役柄、普段の彼女に発言の機会はほとんど許されていない。その彼女が、人目につく危険性のある場所でそれを尋ねてきたという事は、事態の重大性を指し示していた。
「しかし……」
彼女は眉をひそめて、難色を示す。だが、「心配せずとも、私が損をする事にはならない」と、局長は言い切った。
「地獄の蓋を開けた人間が、その中身を見てしまった人間が、今さら知らないふりで元通りの生活に戻れるものか。逃げるか、腐るか、戦うか。結局人は、そのいずれかを選択させられる。そして、最後にそれを決めるのは、結局本人の意思だ」
「……それは、どういう……?」
未だ理解が及ばず、彼女は歯切れの悪い言葉で尚も説明を促す。エレベーターの前へとたどり着き、操作パネルへと触れながら、ゆっくりと振り返った。
「──断言しよう。彼はいずれ、自分から頭を下げに来る。ICSAへ入隊する為に、だ」




