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顔に冷たい風を感じて、八神七斗は小さく呻く。はっきりとしない意識の中、ぼんやりと目を開けると、こちらを不安げに覗き込む人物と目が合った。
「七斗くん、気が付いた!?」
南心が声をあげた直後、それに反応した父が、すぐさま容態を確認する。ほんの数日前とほとんど変わらない光景だった。それから彼は、経口補水液の入ったペットボトルを差し出すと、ゆっくりと飲むように指示した。
「何があったか思い出せるか?」
ベッドに横たわっていた八神七斗は、南心の手を借りて上体を起こし、渡されたペットボトルに口をつける。それで喉を潤すと、彼は嘆息を吐いてから、父の方へと視線を向けた。
「50m走った後に、倒れた。一体、何が起こったんだ?っていうか、ここは……」
はっきりと受け答えが出来る事に安心したのか、彼の父は胸を撫で下ろす。
「その辺は、私が説明するから」
聞こえてきた声に顔を向けると、何かの資料に目を通していたカガリが、デスクから立ち上がって歩み寄ってくる。どうやら、ここが科学班の研究室の一つらしいという事は、部屋の雰囲気から分かった。
「早い話が、熱中症。処置が早かったから、後遺症の心配はないだろうけど」
「熱中症って……あれだけの距離で……?」
カガリの言葉に、八神七斗は眉をひそめながら尋ねる。炎天下ならいざ知らず、冷房の効いた室内で熱中症など、思いも寄らなかったのだ。
「チーターが短距離しか全力疾走出来ない理由、知ってる?」
おもむろに尋ねられ、八神七斗は面食らいながら首を横に振る。
「上がり過ぎた体温を、下げる事が出来ないから。速く走れば走るほど、体温は急激に上昇していく。でも生き物の体は、基本的には熱に強く出来ていない。だから、陸上生物最速を誇るチーターは、長い時間トップスピードで走り続けていると、細胞が焼けて死んでしまうの。……そして、同じような事があなたの体にも起こりかかった」
それを聞いても、八神七斗はただ当惑する事しか出来なかった。話の内容は理解出来るが、しかしそれは、チーターに限った話だ。体細胞を焦がすほどに速く動くなど、少なくとも人間には預り知らぬ領域だ。だがその時、八神七斗は思い返す。あの時、八神七斗が50mを駆け抜けるのにかかった時間は、果たして人間のものとは思えないのだ。
「50mの距離を、あなたは1秒半で走りきった。無論人間の体じゃ、それについていけずに熱中症を引き起こした、ってこと」
「……それって、やっぱり……」
カガリの言葉に、南心が反応する。その一方で、八神七斗の父は苦悩にまみれた表情で顔を歪ませている。それきり、全員が口を閉ざす。八神七斗は戸惑いに視線を泳がせながら、誰かが言葉を継いでくれるのを、鬼胎に満ちた胸中で待っていた。
「……巫」
ポツリと、南心がこぼす言葉が、静寂を破る。
「吸血鬼に血を吸われた人は、吸血鬼になる。けどね、すごくたまに、そうならない人もいるの。そして、その中でもほんの一握り、吸血鬼と同じ身体能力を得る、特殊体質者がいる。それが、巫。今の、キミの事だよ」
八神七斗は、黙ったまま視線を下げる。自分が吸血鬼になったわけではないと、自らが駆逐される対象になった訳ではないのだと、わずかな安堵を感じていたのだ。だがその一方で、陰々滅々とした感情が、胸にのさばっているのも、事実だった。自分が助かったという一方で、美原や村山はそうならなかったという現実が、彼を苛んでいたのだ。そして、その上で助かった安堵を感じる自分がいる事が、自身を責め立てていた。
「結論を言わせてもらうけど、あなたは人間の体に、吸血鬼の脚を持っているようなもの。意味は、分かる?」
カガリが、呆然としたままの八神七斗へと問い掛ける。だが彼が返答するより先に、その父はおもむろにカガリの名を呼ぶと、目で何かの合図を出した。
「ミナミちゃん、少しの間、七斗の様子を見ていてやってくれるかな?」
いつになく余裕のなさそうな表情で、父が尋ねる。その問いに南心が頷くのを見てから、彼はカガリを伴って、部屋の外へと出て行った。
「……あのさ、七斗くん」
二人が部屋を後にするのを見てから、南心は口を開く。
「今、『何で自分だけ』、って考えてた?」
図星を突かれ、八神七斗は目を見開く。南心は、それを悲しそうな目で見つめていた。
「私も、こんな仕事をしている身だから。任務の度に、他の隊員が怪我をしたり、亡くなったり……そんな中で、自分だけ無事だった時、私はいつもそう思う」
何も言葉を返す事が出来ず、八神七斗は押し黙ったまま、彼女の言葉を聞いていた。
「運がよかったとか、そういう言葉で片付けたくはないけど……でも私は、そういう時、自分が無事な事を悲観したくはないんだ。それって……亡くなった人に対しても、良くないと思うからさ」
「……そういう時、どうやったら自分を肯定出来ますか?どうやって……納得出来ますか?」
助けを求めるような心持ちで、八神七斗は問い掛けた。南心は逡巡した後、悲しげに笑って口にする。
「納得なんて、出来ないよ。ただ……いつか、自分にしか出来ない事に……命懸けで向き合う時が来る。今回はそうじゃなかっただけだ、って、思うしかない。先伸ばしかもしれないけど、その時のために、頑張ろうって思えるし。あとは……次に同じ事が起きた時、今度は誰も同じ目に遭わせないようにしよう、って」
そこまで言って、南心は首を横に振った。
「ごめん、忘れて。これは……うん、私みたいな戦闘員だからこそ、思う事だから」
ここではないどこか遠くを見るような目で、南心は語る。これまで、自らとさほど歳が離れていないと認識していたはずの彼女が、その瞬間急激に大人びて見えて──自分よりもずっと多くの事を経験しているのだという事を思い知らされて、その表情に、八神七斗はそれ以上言葉をかける事が出来なかった。




