オルムの洞窟
自身を神獣ノックと名乗った神獣は、メリッサの肯定を受けて巨大な前足に生える鋭い爪を器用に使ってメリッサを縛る鎖を壊した。
呆然とするも、自分を縛る鎖はすでにノックと名乗る神獣が取り払った(というかぶち壊した)ことに今更ながら自覚し、そっと右腕を挙げれば強張ってはいるもののちゃんと思うように体は動いた。たった1日とはいえ、体の全てを拘束されるということはこれほどまでに辛いものなのかと、要らぬ経験を積んでしまった。
1日ぶりに自由となった体は節々が固まって体を起こすのも辛い。
それでも何とか半身を起き上がらせ、自分を食べるにせよ魂だけ取り出すにせよ随分もったいぶるものだと思いながらノックの方を見れば、かの神獣は巨大な体を祭壇のすぐ下で伏せた状態でメリッサを呼んだ。
「愛し仔よ、我の背に乗るがよい」
そういって蛇の尾がノックの背中を指し示す。
何をするのかと眉にしわを寄せつつもメリッサは体に鞭を打つようにもやっとやっとでノックの体の前にくるが、生まれてこの方インドアで舞踊以外の運動などしたことのないメリッサに山小屋ほどの大きさの神獣の背までよじ登ることは難しい。ましてやメリッサはまだ12歳である。幼い体で神獣の体を登山するということは厳しいように思うのだ。
そんな悩めるメリッサの姿にようやく気付いたのか、ノックは蛇の尾でぐるりとメリッサの体にきつくない程度に巻き付けるとそのまま持ち上げて己の背に乗せた。
「落とすことはないが、危ないだろうから我の鬣を掴むことを許す」
獅子の頭を少し震わせてノックがそういうので、メリッサは恐る恐るといった様子でノックの鬣を握った。思うよりもふかふかしていて肌触りは良い。
羽の付け根の少し前に据え置かれたメリッサは今まで触れたことのない感触を無自覚に楽しんでいたのだが、ふと自分の立場を思い出した。
「ノック様、確認したいことがあるのですがお許しいただけますか」
「構わぬ」
「私を供物として召し上がるのでは?それにノック様の主である神の下、神の国へ向かうのならば、人の体は不要かと思うのですが何処へ向かわれるのでしょう」
「我は肉など食わぬ。我が食うのは清められた空気と澄んだ水、そして我が神の御力のみよ。我が神は人の世に住むもの故、人など食わぬ。
これから向かうのは我が主の御許よ。何、そう遠くない故歌でもひとつ唄っている間に着いてしまうわ」
ノックは説明し終わるや否やその巨大な羽を羽ばたかせ、勢いよく空へと浮き上がった。
ノックの巨体についているだけあってそれなりの大きさの羽だが、それでも自重を考えればいささか小さいようにも感じる羽であったが、背中に乗るメリッサは羽の付け根という最も風圧のかかるような場所にいるのにも関わらず、微風程度の風しか受けていない。よくよく目を凝らせてみれば、ノックは自分の体を中心に竜巻ほどの強さの風を纏い空を飛んでいるのであった。それだけの風の術を使うのは人の身ではまず有り得ないが、使う相手が神獣であれば納得もできた。
何から驚けばいいのかわからないが、とりあえず今すぐにメリッサの命が絶えることはなさそうだと理解した。ノックは神々しいほどの神力で満ちており、その神力も神より直接与えられたものであるためか澄みきっている。その姿を目にするだけでも感じられるが、直に触れればそれはなおのことはっきりわかる。なるほど、生肉などの生臭なものなど清らかなる神獣は食べないということか。
しかし、神が人の世にいるというのは聞いたことがない。
この世界を作ったリーベス神とその妻と子、経典にある通りならば10柱の神々がいるはずだ。リーベス神の第二の妻であるティスは人の身であり、神々の国に迎え入れられたが神の仲間として受け入れられることはなかった。これは第一の妻であるユニ神の嫉妬によるためと言われているが真偽は定かではない。少なくとも、現在ティスを信仰する宗派は存在しない。唯一、ラル湖の番人たる一族は尊んでいるようだが、それも偉人のような扱いで信仰とはまた違う物であった。
神同士の間で問題や諍いが起こり、人の世界で喧嘩という名の戦争や天災を起こすということは記録にもあるが、現在そのような話は聞いていない。むしろ、そんなことが起こっているのならば真っ先にメリッサが投入されていただろう。
メリッサは与えられた神話や童話、教典を思い返してみるが、なかなか出てこない。
メリッサがそうやって一人頭を悩ませている最中も、ノックはのんきに鼻歌を歌いながら空中散歩のような心地で空を飛んでいた。中々かみ合わない一人と一頭であるがお互いのことを気にかけてはいないので、一応問題は生じていないようだった。
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メリッサが考えることを半ば放棄し、眼下に広がるトフェトの森に群生するイグを眺めていた。この状況を質問攻めにするのもこれから死のうという人間が神獣と会話を楽しむというのも何だか違うような気がしたので、メリッサは大人しく黙っていただけであるのだが。
眼前には大陸のどこにいても見ることのできるロンメル山脈が迫っていた。ロンメル山脈は山によっては実りの多い豊かな山もあれば、今メリッサの目前にあるような麓にイグという豊かであるとあまり嬉しくない木が広がり山肌は岩ばかりで草木のかけらもないような死の山と呼ばれるような山もある。
そんな山であっても、メリッサにしてみれば初の山である。遠くから見たことはあったが、実物を間近で見るのはまた違った感想が出てくるものだ。出た感想と言えば思ったよりも暗い色をしていないという程度のものだったが。
「愛し仔よ、もう間もなく着く。しっかり捕まれ」
ノックは振り向くでもなしにメリッサにそういうと、強めに羽を動かし高度を下げた。
急降下というほどではないが、それでもかなりの速度である。
メリッサは慣れない浮遊感に内臓が揺らされたような感覚がして気持ち悪くなったが、それもわずかな時間で済んだ。
というのも、ノックはその巨体とは裏腹に慎重に、メリッサに負担のかからないように目的地の入り口に身を滑り込ませたからだ。
ロンメル山脈の一角、死の山と名高いナイア山の巨大な岩陰に隠されるようにぽっかりと穴が開いていた。穴といっても身を起こせば山小屋ほどの大きさのノックが楽々出入りできるほどの大きさである。ナイア山およびトフェトの森に近づく者がいないため見つかることが今まではなかったのだろう。
ノックは器用に背中に乗せたメリッサを蛇の尾を使って降ろすと、虎の四本足で先導するように中へと進んだ。メリッサは振り替える必要もないのでノックの後に続いた。
移動中に神力でいくらか体を回復させたため、歩く程度であれば問題はない。
ただ布を巻いた程度の服を来ただけのメリッサには山の中腹程の高さにあるこの洞窟は肌寒いほどで、鳥肌が立ちそうなほどで腕を擦りながら早足で歩いた。
洞窟と言われればそうだろうとしか言いようのないほど、本で読んだ通りのトンネルのような、途中に光の術による光源が点々と続く道を歩くこと3分。ノックの巨体越しにほのかな明かりがメリッサの足元まで伸びた。
ノックは巨大な頭を恭しく下げて、中にいるだろう彼の神に帰還を告げた。
「我が神よ、神々の愛し仔を連れてきた」
心なしか嬉しげにノックはメリッサを尾で指し示し、彼の神に見せるようにその巨体をずらした。反射的にメリッサは跪き、頭を垂れた。神殿で教わった、神託の巫女が神と対話する際に取る姿勢であった。
メリッサの傍へ軽い布が擦るような音と共に影が降りた。
「お前が父と兄姉らの愛し仔か」
美しい男の声だった。
程よく低くそれでいてよく通る、涼やかな声だった。
それ以上にメリッサが驚いたのは、「影」があることだった。
「俺はオルム。父リーベスと母ティスの末神だ」
影がより深くなり、それは思いのほか少し冷たいぐらいの温度の「両手」がメリッサの頬に添えられ、ゆっくりと顔を挙げさせた。
「お前の名はなんという」
紛れもない人間の肉体を持つ男の姿がそこに在った。
最初に目に入ったのは褐色の肌に金の瞳、そして胸にかかるほど長い青みがかった銀の髪の美しい男だった。今までさして美醜について思うことのなかったメリッサは初めて「美しい」人だと思った。ただ、その体から流れ落ちるのは神しか持ちえない神力の強さとその「黒」の色が紛れもなく、彼が神だと知らしめていた。
メリッサは渇いたのどを唾液を飲み込んで濡らした。
目の前の神から視線を外すことなく、震える唇を開いた。
「メリッサ。メリッサ・アストレアと申します」
メリッサか。
そう呟いて、オルムと名のった男は目を細め口に弧を描いた。
メリッサはその時ようやく思い出した。
神々の末子、忌まわしき力の子、呪われた神
追放者、破壊と絶望の神オルムを。




