神獣ノック
メリッサは膿んでいた。
いつからかと言われてもわからない。
ただ、母以外の女の手の内に入った時からそれは始まっていたのかもしれない。
メリッサの意思など何一つないまま、継母だけでなく実父からの庇護も愛もなく、メリッサは光すら届かない地下へと閉じ込められた。
贄だから。
その一言で済ませられる存在だと自覚する頃には、メリッサは全てを諦めていた。絶望したと言ってもいい。命を絶つことは容易いが難しい。こんな目に合っているというのに、この世界の大部分を治めている神々が自分を慈しんでいると言われたところで何の説得力も意味もない。彼らが直接にメリッサを助けることなどないのだ。力は際限なく譲渡されようとも、そこにはメリッサが一度も受けたことのない温もりも情もない。
生家から父たるリーベス神の家である主神殿に行く道中で見た空は晴れていたのか雨だったのかも碌に覚えていない。
10年に及ぶ日の光を浴びることなく地下で鬱々と暮らす毎日は、確実にメリッサを膿んで腐らせ濁らせた。傍付であったララやクーベルトもいくらかは慰めになったが、それも自分の存在価値ゆえに与えられたものだと知っていた。人としての情をララから受けることはできたが、それも無償のものではない。クーベルトが不要と決めたのなら、メリッサの意思もララの心情も無視して、メリッサは”神子”という価値のためだけに死ぬのだ。人はいずれ死ぬとしても、家畜のように飼われるように生殺与奪を他者に委ねられた環境で理性を保てたのは、一重に無駄にある神の加護故で、メリッサとしてはさっさと気が狂ってしまった方が楽だと思うばかりだ。
そうすれば、表面上だけでも一般的に理想とされるような慈愛と慈悲を持ち合わせながらも厳しさを持つ神子姫を装うことなどしなくて済むのだから。
タール神から与えられた予言は12歳を迎えた年で記録が途絶えていた。思ったよりも遅いのか早いのか判断しかねるが、自分の置かれた環境下で生き続けることに苦痛しか感じないメリッサとしては終わりが見えていることに安らぎすら感じていた。その日が待ち遠しくてならなかった。ここまでくる途中でいくつもの人の死と遭遇することもあって、その都度すり減る心はどうしようもなかったけれど、ようやく。
既に膿んで腫れあがり血の滲む精神はギリギリのところにいた。
それでも、メリッサは亡き母の僅かな思いを辛うじて知っていた。人らしく、幸せになってほしい。ただそれだけだった。それだけのことすら叶えられない最後だった。せめてもと遭遇する人の不幸を慰めようとしたけれど、そんなことをしたところでメリッサの心は慰められることもなく、焦燥感ばかりが残った。
最後の最後でイヴァンに再生の力を与えたが、それもどうなるのかわからない。彼の大切なものが守れるかなんてメリッサに興味はない。ただ、希望などない自分の代わりに、誰かが与えられた希望で幸せになることができるのは、もしかしたら嬉しいことなのかもしれないと思ったから、手を差し伸べてみただけだ。
人に優しくしたところで、自分に優しくしてくれる人もいないし、硬い石の台に乗せられて既に一日が経過している。飢えと何もない空白の時間はメリッサを暗い淵へと思考を誘っていく。
メリッサが思うことは、いつも最終的には一つだけだ。
なぜ、自分がこんな目に合わなければならないのか。
なぜあの父は私たちを裏切ったのか。もし、あの女がいなければ。
母は。
自分は。
憎い。
恨めしい忌々しい憎らしい。
許せない。許さない。何一つたりとも。
叶うのならば、あの女に、私を堕とした全て
死んでも、許さない。
一陣の風が吹いた。
全てを薙ぎ払わんばかりの風だった。
暗い思考の海に沈んでいたメリッサは意識を浮上させ、思わず顔を覆おうとしたが拘束された身では瞼を閉じることしかできない。
尋常ではないその力に、メリッサは本能的に察した。
徐々に収まる風に目を凝らしながら風上へ顔を向けたその先には、予想していたものがいた。
顔は獅子・体は虎・ドラゴンの羽・蛇の尾の山小屋ほどの巨体を持つ怪物であった。
巨大な体から流れる神力は、紛れもなく神獣と呼ばれるにふさわしいもので、そしてその神力は金と黒の2つを流している。
怪物はメリッサの程近い場所に降り立ち、四本の獣の足で祭壇に上った。
神獣はメリッサの前まで来ると、獅子の顔をメリッサの顔へ薄く口を開いて近づけた。
メリッサは目を閉じることもせず、その瞬間を息を止めて待った。
しかし、いくら待てども神獣は小さな唸り声をあげるだけで噛みつくでもなく食べるでもなく殺すでもなく、じっとメリッサの瞳を憐れむように見つめるだけだ。
メリッサが神獣の意図が読めずに困惑の色をにじませると、神獣は一歩下がって頭を垂れた。
「我は神獣ノック。神々の愛し仔と視るが、お前は我が神の下へ連れ去ることを許すか」
恭しく口上を述べる神獣にメリッサは瞠目するも、なんとか首を縦に振った。




