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その夜の勉強会、部屋を訪れたファトマにリドリーは尋ねた。
「『大災』について聞いてもいいですか?」
根性とか勇気とか、リドリーの中にあるそれらを振り絞った問いだった。
ファトマ先生が、パンタリアについて触れることを避けていることくらい、リドリーにだって分かっている。
交易のある大陸外の島国の、族長の悩みが四十肩、なんてことまでリドリーの頭に詰め込もうとしてくる先生である。自身の故郷である隣国の事情を教えないなど、本来ならあり得ないのだ。
「・・・」
ファトマは何も言わず、リドリーが淹れたお茶を飲む。固唾を飲んで待ち続けていると、ふぅと一息ついてカップを置いた。
「どうして知りたいのー、リドリー」
「私は、何も知らないけど・・・知らないことを棚に上げて、肝心な時に何も言えない、ことできないことをしょうがないと、思いたくない・・・から」
考え、考え口にする。
「そうー」
「ごめん、なさい。獣人にとって、言いたくことだというのは分かってるんです、けど」
自分達は『逃亡者』なのだと、泣き叫んでいたイキ。
同じものはファトマの中にもあるはずなのだ。それでもリドリーが知るにはこの先生に聞くしかなかった。
「私もねえ。教えよう、とは思っていたのよねえ。最初に会った時リドリー、私の尾に巻かれて驚いていたでしょー」
「え?はい」
「あれねえ。初めて会った長い尾持ちの獣人お決まりの挨拶なのよー。尾同士を絡めたり合わせたりするのよねえ」
「え?!・・・あー、そう、だったんです、ね」
「だからー、あーこの子は知らないんだろーなーとは分かっていたからねえ」
昼間のイキとの間にあったことをファトマは既に聞いているのかもしれなかった。
「ただ・・・ちょっと踏ん切りがつかなかったのよねえ。――そうねえ、教えた方が、いいえ、知っておいてもらった方がいいわねえー。――これからのこともあるし、主様のためにー」
ファトマはぱふぱふと自分の頬を叩き、立ち上がる。
「ちょっと待っててねえ――あとお茶、まだ少し蒸らしすぎだからねえ」
「あ、はい」
先生はどこまでも先生であった。
ファトマが机の上にぺらりと広げたのは、地図だ。
「ここがこの国、フィーディアス、フィーディアス王国ねえ。で、ここがパンタリア」
指で示したのは、まるで結んだリボンのような形をした大陸だ。小さめの左半分がパンタリア、右がフィーディアスと他2カ国。右半分の大陸は東西に伸びる山脈でほぼ分断されている。
「そうねえ、ターピン山脈を越えるのは厳しいからフィーディアスにとっては寧ろ、海を挟んだミズホの方が距離はともかく、関係としてはずっと近いわねえ。」
地図の下方、大陸外に描かれた大小の島々を指す。
ファトマはおかしそうにふふふと笑った。
「人族にはねえ、不思議がられるんだけど。肉食中心の者と草食中心の者と、ちゃあんと一緒にいるわよー。私達が採ったり、育てたりして食べるお肉は卵生の生き物なの。空と海と大地からの贈り物として、ありがたく頂くのよー。もちろん、他のお肉も食べられるけど、輸入ものになるわねえ。リドリー、お腹が空いたらスフ達のこと食べたいと思うー?」
「めめめめ滅相もない!・・・も・・・」
「も?」
「もふもふはしたいと常日頃思っていますがっ!」
「ふふ。してもいいと思うわよーもふもふー」
手をわきわきさせた後、再び指を地図――リボンの結びの中心に置く。地図で見ると両国の国境付近にあるそこは、抉れたように穴が開いていた。
「ここはギュゼイラ湖っていう大きな汽水湖なのよー」
ファトマの声が静かに、そして少し哀しげに響いた。
『大災』は遥か遠い過去から存在した、訳ではない。
それは今から百数十年程前のことだったらしい――当時のパンタリアの統領一家が風光明媚なギュゼイラ湖を訪れていた時だった。その息子は好奇心の強い、まだ幼い子どもだ。周辺を飛び跳ね、駆け回り、転んだ拍子に、折れて鋭利なナイフの様になっていた枝に頬をざっくりと裂かれた。
倒れたまま泣く息子に、周囲の者が慌てて抱き上げようと手を伸ばした時、頬から垂れた血が一滴、水面に落ちた。
ドン
太鼓のような音を聞いたという。
静かだった湖面が、ざわりと揺れた。美しい緑青の湖が黒く染まっていく。
驚愕し距離を取る人々の前で、黒き湖から、ぬらりと鈍く光る無数の触手が現れ、慄く人々に襲い掛かった。
「それが『大災』――?」
「『黒き腕』に触れられたものは、あっという間に身体が痺れ、息ができなくなって亡くなっていくわー」
「――」
リドリーは言葉も出ない。
始まりはギュゼイラ湖だけだった。
数年後には井戸や洞窟から『黒き腕』は現れた。
まるで知性あるものの恐怖を食らっているかのように、『腕』は執拗に人のみを狙い続ける。
塞いでも固めても、実体のないそれには意味がなかった。
ここ3、40年のうちには、ギュゼイラに流れる2つの河川の流域に、唐突に『腕』が現れるようになった。
「『腕』の動き自体はそれほど早くないのと、現れている時間はそれほど長くないこと。それに――冬になると消えることが分かっているから、何とかなっているのよねえ」
ファトマは両手をぎゅっと組み合わせた。
「それでも――それでも、間近で『腕』を、そのために亡くなってしまった人を見てしまった者の恐怖は消えないわあ。私達のように海路でこの国に逃れる者は増えているのよー。これからも増えるわねえ」
「ファトマ先生も――?」
「頑張ろうとね、思っていたのよー。――でもねえ、息子が死んじゃって、気持ちが折れちゃったのよねえ。気が付いたら亭主と一緒に何にも持たずに船に乗ってたわー」
こうポッキーンとねえ、と腕を捻って笑うファトマに、リドリーはつい母の顔を重ねてしまう。
いつも笑っていた母。昔のことを決して話そうとしなかった母も、そうだったのだろうか。失い、失望の果てにこの国に来たのだろうか。
「そして旦那様のいる、ブレスウェイド伯爵領はここ」
「国境?」
一応国内にはなるが、そこは湖の目と鼻の先になるのではないか。
「そう――ブレスウェイドは、『大災』からこの国を守る砦なのよー」
「・・・でも、実体がないのでは?」
「そうなのよー。でも、一応戦う術はあるのよー、それがブレスウェイドの『血』」
「血ぃ?!」
「ブレスウェイドの『血』を、つまり今は主様の血を使うことで、実体の無い『腕』に形をとらせているのよー」
あのお嬢様の血を採っているということか、と愕然とするリドリーの耳に再び猫耳店長の声が蘇った。
「確か・・・ゆ、『勇者』って」
「そうー。・・・ブレスウェイドは広がる『大災』からこの国を守る『勇者』と呼ばれているのよねえ」
ひょいっと肩をすくめる。
「最も、主様に言わせればそれは、体のいい『生贄』なのだそうよー」
「『生贄』」
冷たい言葉の響きだ。リドリーの尾の毛がぶるりと震えた。
そしてその後、勉強会は通常通り行われた。
ファトマ先生は、ぶれない。
深夜部屋を出ていく際、先生はそうそう、と何か思い出したように振り返った。
「これから少し忙しくなるわー。主様がクーデターを起こすのよー。リドリーもそのつもりでいてねえ」
まだ内緒ねえ、と口元に指を立ててからファトマはドアを閉める。
「クーデター」とは?
辞書をめくる。
『クーデター:法律を無視し、軍隊などが武力で政権を奪うこと。革命との違いは、』云々かんぬんと・・・
辞書を閉じて、リドリーはベッドに潜り込んだ。
カモノハシ&ハリモグラ「食べるのか、食べられるのか。それが問題だ――」
ファトマ「この大陸にはいないわねえー」
カモノハシ&ハリモグラ「え?!」




