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っぺしっ、ぺしっ・・・
アライグマ族のファトマが、その身体には不釣り合いの大きさの本を持ち、片手に打ち付けている。
重くないのかな、と横目で見てしまった端から檄が飛んできた。
「はい、集中してねえ。余所見は厳禁なんだからあ」
「はいっ!」
まさかその手にある本が武器と化す、なんてことはないだろうとは思いながらも、若干離れた位置に座り直しながらリドリーは机に向かう。
ここ最近、毎夜リドリーの日課となったことがある。アライグマ講師による勉強会だ。
夕刻ごろに目覚め、一緒に夕(朝)食をとり、黒兎姉妹と交代で朝まで屋敷の一切合切をほぼ一人でこなすという働き者のファトマ女史である。お忙しい身にそんなことはさせられない、と固辞するリドリーに女史は一言告げた。「遠慮しなくていいのよお」と。
ならばリドリーが返す答えの選択肢は一択のみであった。
「よ、よろしくお願いしますです・・・」
「『よろしくお願いします』よお?」
「よろしくお願いしますっ!!」
「よろしいー」
リドリーは一応母に教えられていたので文字を読むことはできるが、書くことは覚束無い。
字の書き取りから始まり、一般教養から一般じゃない教養まで、ついでに「机に向かってばかりでは飽きるからねえ」と立つ・歩くの姿勢矯正から発声練習、お茶の淹れ方まで。最早勉強会というより改造計画だな、と感じる。
「最低限のことだけ教えるわねえ」というのが女史の御言葉であるが、果たして下働きという名の雑用に、諸外国地方の地場産品や出身著名人などの知識が必要なのだろうか甚だ疑問だった。
「やっぱり根性のある子はいいわねえ」
それでも、心なしか毛並みをツヤッツヤさせながら鼻歌交じりに去っていくファトマの後ろ姿を見ると、何も言えないリドリーだった。
そうやって毎夜、破裂するんじゃないかというほどに詰め込まれ就寝し、朝目覚めて食べるデンゼルお手製の朝食の美味しいことと言ったらなかった。初日はちょっと本気で涙が出た。
リドリーがそんな勉強漬けの日々に音を挙げなかったのは、ファトマの教え方がこの上なく上手だったからに他ならない。単純な字の書き取りの間でさえ奇談珍聞織り交ぜて、出るわ出るわ雑学宝庫。3、4日たてば勉強会は、リドリーにとって楽しいものでしかなくなった。
その日は、屋敷の中は朝からなんだか少し忙しなかった。黒兎姉妹のペタン、ペタンという足音をあちこちで耳にする。
あの日以来、アレクに用を申し付けられることもないし、大抵昼間は黒兎たちの家事を手伝うのだが、その日は誰もかれも声をかけづらい雰囲気だった。
ならばと仕方なしに最近知り合った人族の庭師の老人、ゼインのところへ手伝えることを探しに行く。
奥庭にいたゼインは脚立を一人で運び出すところだったので、リドリーは慌てて手を貸した。屋敷の広大な庭をゼイン一人で管理しているのか不思議だったが、大抵のことは夜中外にいるというファトマの夫のバリスが、見回りがてら済ませていくのだとか。
「上、届きますか?」
リドリーの言葉にゼインは頷く。
当初何を話しかけても無言だったので半獣であることが気を悪くさせたかと思っていたが、ある時シャツの隙間から覗いた喉元に大きな傷があるのが見えた。
言葉は無くともきちんと反応を返してくれていたことに気付いてからは、リドリーは一方的にはなるが、会えば話しかけるようになった。
「この花初めて見ました!」
ゼインがリドリーを見下ろし、再び頷く。
しわの多い口元には穏やかな微笑みがあった。
やや気恥ずかしくなって俯くリドリーの頬を、冬の風が一瞬で冷ましてくれる。
「リドリー様!」
黒兎が芝生の向こうから駆けて来た。
「主様――お嬢様がお出掛けになられますわ。一緒にお見送りいたしましょう」
「はい」
お嬢様ってやっぱり動けたのか、と大変失礼ながら少々驚いたリドリーである。
この屋敷に忍び込む前リドリーが聞いた噂は、ブレスウェイドの娘は身体が丈夫でないというものだったが、アレクの話ではその実『至って健康』だというので所詮噂は噂だったということなのだろうと思った。
まだあまり見慣れない本棟の広い広い正面玄関。躊躇いながら整列するお仕着せ仕様のデンゼルと黒兎姉妹に並ぼうとするリドリーを、スフが呼びとめる。
「お辞儀の最終確認ですわ。さん、はいっ」
ぽふっ。
ふわっふわの両手を合わせるスフに、数拍遅れて頭を下げた。
「・・・」
「・・・」
まさかこのまま?!、と本気で焦りかけたリドリーだったが、やがて聞こえるふん、という鼻息。
「及第点ですわ。――並んでお待ちになっていてくださいまし」
「はい」
神妙に返事をして見せたが、内心は両手を突き上げ、勝利の雄叫び状態であった。
スフの姿が階段の先に消えて間もなく、リドリーの鼻が香水の香りを拾う。
不快ではないが存在感あるそれが、一際近づいてきた時、並んだ皆が一斉に頭を下げた。
どうやって合わせているのかという疑問を挟む間もなく、すっかり改造されつつある身体は反射で折れ曲がる。
頭を伏せた視界の端で、デンゼルが一歩前に出たのが分かる。光沢のある深緑のドレスの裾が見えたが、ここで目線を上げようものなら、どこから漏れてファトマに伝わるかわからない。リドリーは懸命に目を伏せ続けた。
音も無く動いた黒兎姉妹が、開けられていた大扉を閉め始めたところで、やっと目線だけを横に移動する。
後ろ姿なので、なるほどお嬢様だなというありふれた感想しか出てこなかった。
背中に流れる緩く波打つ長い白金の髪が深緑のドレスと相まって何とも豪華だ。
完全に扉が閉ざされたのを確認してから隣のスフに尋ねた。
「あの、お嬢様の隣にファトマさんが・・・」
「えぇ」
「昼間はお休みのはずでは?」
「今日は特別ですわ。城へお供するのは私達には荷が重すぎるのですわ」
流石のファトマ女史、いや先生である。どこぞの元『博士』とは大違い、月とスッポンというやつだとリドリーは先生への尊敬を新たにした。
「お嬢様は城へ行かれたんですか?」
「そうですわ。本日は殿下とのお茶会ですわね」
「で、殿下っ!?」
最近は流石に慣れてきたが、王族なんてものはまだまだ彼方の存在だ。はーと感嘆のため息しかでない。
そう言えば巷の噂で王子がお嬢様にホの字というものがあったな、とリドリーは思い出したが決して口には出さなかった。
ファトマ先生による改造、もとい教育の賜物である。
お嬢様と共に帰宅したはずのファトマ先生が、全く昨日と変わらぬ調子で勉強会を行いきったことに、リドリーの尊敬が天元突破するのは4半日後のことである。




