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「地獄――ですか」
「はいー」
「『大災』か」
身体を起こしたアレクが、白から青に戻した顔で呟いた。
「そうー。もチろん『勇者の系譜』、ブレスウェイドにおツトめになられテいらっしゃるかタはご存知のこトデしょうね」
「やめろ。その呼び方は不愉快だ」
尾の毛がぶわりと逆立つ。
昨晩突き付けられた剣を思い出すが、あの時よりはるかに冷たい、本気の怒り―殺気に身体が竦んだ。
店主の猫耳がぺたりと伏せられた。
「タしかに、おいかりはごもっトも。しツげんデしタ。申し訳ない」
店主の真摯な謝罪に、アレクは鼻を鳴らす。
「パンタリアで起きている『大災』にタいしょ方法はないかと、商売を始めましタ。あっチこっチいろんなところに行きましタねー」
「・・・・・・それは――大変、でしたね」
この雰囲気で、アレクの前で『大災』について聞くことは憚られた。
せめて言葉を選ぼうと頭をひねったみたが、結局たいしたものは出てこない。
当然なのだろう。店主の数十年は、リドリーにとっては途方もない話だ。途方もなさ過ぎて想像もできない。
「トてもー。タくさん苦しかっタ。デも同じダけ幸福もありましタね」
そう言って猫耳の店主はぐふぐふと笑っていた。
結局、一瓶だけを持って店をあとにすることになった。残りの薬はパンタリアに送るのだと言う店主に、アレクは何も言わなかった。というか、アレクはあれからずっと黙りこんだままだ。
ただ一度、店を出る前に「医者のところに案内しろ」とだけ言って、リドリーの後ろについてきている。
何の会話も無いまま、歩き続ける。
そのうち道の舗装が無くなっていく。周囲の街並み、道行く人の格好はリドリーの見慣れたものになる。
掘っ立て街と呼ばれる街区だ。
つまりはあちらにあるような、塀が崩れかけているのに放置された家だとか、そもそも家ですらない継ぎ接ぎ天幕の列だとか。そういう場所だ。
住民もそこにいるような、酒瓶抱えて道脇で寝ている男だとか、向こうのやけに際どい服の女だとか、そういうものだ。
リドリーには中心街の複雑な匂いとは違った、ここらの饐えた匂いの方が慣れている。決して居心地の良いものではないが。
しかし今のリドリーは、下でもどこかの商会の下働きに見える格好だ。まして後ろのアレクなど、明らかに貴族のお使い。真っ昼間とは言え、この辺りではかなり悪目立ちしている。
面倒なのに絡まれないよう、普段はあまり通らない道を選び、遠回りしながらリドリーは昨夜ぶりの帰宅をした。帰宅と言っても、雨風を凌ぐときだけ片隅に寝かせてもらっているだけだが。
軋む扉を舌打ちとともに蹴り開けると、狭い部屋の窓際の椅子で老婆がいびきをかいていた。
「婆さん・・・婆さん!」
「・・・あ?」
軽く肩を揺さぶると億劫そうに片目を開ける。
「寝るんならせめて横になれって」
「腰が痛いんだよ。・・・リドリーかい?」
「薬!持ってきたから!いつもの先生のやつ!」
「薬ー?あれはもう無いんだろう?・・・」
「買ってきたんだって!こら寝ーるーな!」
目の前で薬の瓶を振ると、やっと両目を半分だけ空けた。
「そうかい。そりゃ無駄な買い物をしたね」
「無駄じゃないだろ!」
正確には買ったのはアレクで、リドリーは今後無償労働で返済していくのだが。
「無駄さ。あのロクデナシに何言われたか知らないが、全く――しょうもない買い物をするなっていつも言っているだろうに」
「っ!でも!良くなるんだろ?」
『猫の手だろうがイタチの手だろうが、何もないよりはマシか。アンタ、暇なら手伝いな』
家や僅かな財を失い、路上で生きていたリドリーにそう声をかけてきたのがこの老婆だった。
数年まともに人と話しておらず言葉がなかなか出てこないリドリーを、郊外に無断で開墾した畑まで連れていき、鍬を押し付けてきたのだ。
ただ本当に手伝いが欲しかっただけなのだろうが、明日どころか、一寸先も見えなかったリドリーは真っ当に感謝している。値のつかなかった僅かな野菜をもらって、ここまで食いつなげた。
「馬鹿だねえ。痛みが消えただけさ。私は単に寿命だ。お迎えが近いんだよ」
「じ、寿命って・・・婆さん、実はそんな年でもないだろう。年寄り扱いすんなっていつも煩いくせに」
「・・・ふん。私も昔散々馬鹿やっていたからね。いい加減、ガタがきてるんだろう」
リドリーと後ろにいるアレクを見、ニヤリと笑う。
「アンタはこうならないこったね――と言いたいが、余計な世話のようだね。いい格好してるじゃないか。馬子にも衣装とはこのことかね」
「ば、婆さん」
リドリーは何かを言おうとした。何かを言わなければならないと思った。だってこれではまるで最期の言葉のようではないか、と。
同時にはたと気づいた。自分が目の前の相手の名前すら知らない、教えてもらっていないことを。今までそれを気にしたことがなかったことも。
「せ、先生は」
「あのロクデナシに何ができるってんだい!できたとしてもあれに最期まで頼るのは死んでもごめんだね!リドリー、あんたにもだよ。――さっさと出ていきな。もうアタシに用はないだろう」
「その医者は今どこにいる?用件はそれだけだ」
背後で黙っていたアレクが尋ねた。老婆は少し眉をはね上げたが、再び椅子にもたれかかり、目を閉じる。
「はん。昼間は家にいるさ。借金取りに追い回されているから居留守使っているだろうけどね」
「婆さ」
「あと、もう一つだけ。――医者の名前は?」
老婆はもうこちらを見ることはなかった。
「サム・デイビス」
「医者の家はどこだ?」
アレクに引きずられるように外に出たが、リドリーはその場から動けずにいた。
「・・・いや、」
「何を言っても聞かないだろう、あの調子じゃ。早く行くぞ」
「・・・っ!せめて薬を!」
「素直に飲むと思うのか?」
ぐっと押し黙るが、それでも足を踏み出せずにいると、アレクは苛立たしそうに息を吐く。
「薬を渡せ」
「え?あぁ・・はい」
それだけ言うと今しがた出てきた扉を開け、一人中に入って行った。
リドリーが戸惑ったまま、自分も入ろうか悩んでいると、少ししてアレクが出てくる。
「置くだけおいてきた」
「えっ!よ、よかったの、んですか?」
「別にあれが必要なわけじゃない」
そう言って歩きだすアレクを慌てて追いかける。
後ろを振り返ったが、ビビ割れくすんだ古い窓からは中の人間の姿を見ることはできなかった。
そこはリドリーも過去、大怪我をした時に来たことがある場所だ。他にも老婆の使いで何度か来ているが、それ以外は、極力近づかないようにしている。
表の扉は常に鍵がかっていない。開けるまでもなく、リドリーの鼻は酒と薬、それから煙草、他にもよく分からないあれこれが混ざった匂いを拾っている。
扉を開けた時は、アレクも盛大に顔を顰めていた。
すぐそばにあるベッドを迂回して、瓶の転がる部屋の奥にもう一つある扉を叩く。
無言。無音。そうだろう。
「先生!リドリーだ!いるんだろ?」
声をかけたが、反応はない。
「先生!」
アレクが隣に立つ。
「元王宮医務官、サミュエル・エイビスだな?出てきてもらおうか」
反応は、ない。もう一度扉を叩こうと手を上げた時、ノブがゆっくりと回る。
「――っうわっ!!!!」
開くと同時に水平に飛んできた椅子を仰け反って避ける。
「だらああああああ!」
「待て、こら、おっさん!!」
直後雄叫びと共に奥の部屋の窓から飛び出そうとする白衣の男の首根っこを掴み、足を掛ける。
「ぐえっ」
尻もちをついた男の、白髪の混ざった灰色のボサボサ頭を見下ろす。
「なーんで、逃げるんだせーんせ?」
「・・・あはは」
冷めきった半目の二人に見下ろされた男は、乾いた声で笑っていた。




