第二話 路地裏のどちゅまりさとお兄さん
この作品はAIを使用して作成しております。ご了承の上お読み下さい。
夏の夜の住宅街は蒸し暑さと静けさが奇妙に混じり合っていた。コンクリートから照り返す熱がまだ残り、じっとりと湿った空気が肌にまとわりつく。遠くでエアコンの室外機の音が低く響く以外は、ほとんど物音のない不気味な静寂だった。
半田祐介はネクタイを大きく緩め、よれよれになったスーツの上着を脱いで片手に持ったまま歩いていた。今年二十九歳のやさぐれたサラリーマン。目には深い疲労の色が浮かび、髪は乱れ、シャツの襟は汗で湿っている。
今日の会議で上司に言われた言葉が、頭の中で何度もリフレインしていた。
『できない病にかかってない?「◯◯だからできない」ではなくて、「どうすれば出来るのか」知恵を出すのは君達の仕事だ』
祐介は苛立ちを抑えきれず、吐き捨てるように愚痴を零した。
「知恵を出すのはお前ら経営陣の仕事だろうが……。現場の俺らに全部押し付けて、数字だけ見てんじゃねえよ。クソが!」
苛立ちのあまり、祐介は通り沿いのブロック塀を軽く拳で叩いた。
拳に鈍い痛みが走り、祐介は顔をしかめながらさすった。
「自分のボーナスが減るのが怖いからって、俺らを夜遅くまでこき使いやがって……。」
吐き捨てるように愚痴を零し、深くため息をついた。
しかしすぐに小さく頭を振った。
「……まあ、明日から三連休なんだし、せめてゆっくりと英気を養うとするか」
その時、祐介は靴で何か柔らかいものを踏みつけた。
「ん?」
足を上げて確認すると、黒っぽい粘り気のある小さな塊が靴底に付いていた。犬のフンかと思ったが、匂いも見た目も違う。
「……何だこれ?あんこか?」
祐介は顔をしかめた。何でこんな路地近くにあんこが落ちてるんだ?誰かが食いかけを捨てたのかとも思ったが、妙に気味が悪かった。
(もしかしてゆっくりのうんうんか?マナーの悪い飼い主もいたもんだ……全く今日は運がついてねえな……)
彼は舌打ちしながら、近くの路面で靴底を何度かこすりつけてあんこを落とした。
そんなことを考えているうちに、イライラが募って無性にタバコが吸いたくなった。
(……マナー違反だってわかってるけど、もう我慢できねえ……)
祐介は辺りを見渡しながら路地裏へと足を踏み入れ、ため息をつきながらポケットから煙草の箱を取り出した。
路地はさらに暗く、街灯の光もほとんど届かない。ライターを手に火を点けようとした瞬間、路地奥の暗がりで何か黒い影がわずかに動いた。
「……何だアレ」
恐ろしさと好奇心が混じり合い、スマホを取り出して暗闇にライトを照らす。祐介は闇に蠢く物体に近づき光を照らした。
そこにいたのは成体のゆっくりよりやや大きめで、縦長体型のまりさ種だった。黒いトンガリ帽子が泥と埃で汚れ、肌色の体はひどく汚れ痩せ細り、髪の毛が乱れていた。極めつけは腹の横あたりにできた大きな傷――そこからあんこがどろりと溢れ出ていて、思わず息を呑んだ。
「何でこんなところに……傷ついたゆっくりがいるんだ?」
彼はしゃがみ込み、まりさのお飾りを確認した。飼いバッジは付いていない。間違いなく野良ゆっくりだった。祐介は首をかしげた。
(なんだよ、こんな場所で野良のゆっくりなんて……。県の条例で対策が徹底されていて、滅多に見ねえはずだろ。一匹も見当たらないくらい駆除されてるって聞いてたのに……)
野生のゆっくりは法律で保護も餌やりも禁止されており、発見した場合は加工所へ連絡して駆除を依頼することになっている。勝手に保護したり飼いゆっくりにしたりすれば刑事罰の対象だ。街の住人も「関わると面倒」と知っているため、野良ゆっくりを見かけても近づかないようにしている。
祐介はタバコを吸うのを止め、黙ってその場を去ろうと静かに踵を返した。
その瞬間、弱々しい声が聞こえた。
「……おとー……しゃん……むらのみんな……もっと……ゆっくち……」
目を閉じたままのどちゅの呟きに、祐介の胸が強く締め付けられた。
――社会人になって数年経った頃、祐介は一匹のまりさ種のゆっくりを飼っていた。家に帰ると玄関先で「おかえりなさい。おにいさん!」と嬉しそうに出迎えてくれた。知能は低めで少しドジなところもあったが、それがまた愛らしかった。仕事で疲れ切った心の拠り所であり、毎日の癒しだった。
おうたを歌うのが大好きで、特に祐介の手のひらの上で小さな体を揺らしながら「まりちゃのちゃちゃちゃ」と歌う姿が好きだった。銅バッジから始まり、努力の甲斐もあって飼って二年で銀バッジに昇格した時は、祐介も嬉しくてご褒美にケーキを買ってあげたことをよく覚えている。
しかしある日、そのまりさは散歩の最中、突然いなくなってしまった。
数日後に見つけたときにはすでに手遅れだった。体は極限まで痩せ細り、お飾りは無くなっており、額からは無数の茎が伸び、弱々しく震えていた。祐介の手のひらの上で、最期に小さく呟いた言葉が今も耳に残っている。
「……もっと……ゆっくり……したかった……」
あのとき、祐介は何もできなかった。ただ手のひらの中で冷たくなっていく体を抱きしめることしかできなかった。
その事件をきっかけに祐介はゆっくりに対して強いトラウマを抱くようになり、それ以来、一切関わらないように生きてきた。見かけたとしても無視し関わらない。それが自分を守るためのルールだった。
しかし、祐介の目には足元で苦しんでいるどちゅまりさが、過去に亡くしたあのまりさと重なって見えていた。
同じ黒いトンガリ帽子。同じまりさ種。
極限まで痩せ細った体、腹の傷から溢れるあんこ、浅く苦しげな呼吸、そして焦点の合わない潤んだ瞳。
――死にかけている。
その瞬間、過去の後悔と罪悪感が、一気に胸の中で爆発した。
(……もう二度と、死なせたくない)
あの時、手のひらの中で冷たくなっていく感触を味わった絶望。
何もできなかった無力感。
もう絶対に、繰り返したくない。
「……くそ」
小さく毒づきながらも彼はしゃがみ込んだ。声は自然と優しくなっていた。
「おい、大丈夫か?」
どちゅが薄く目を開け、ぼんやりと祐介を認識した。
「……にんげん……しゃん……?」
祐介はカバンから飲みかけのペットボトルを取り出し、キャップを外して少しずつ水をどちゅの口に流し込みながら言った。
「ゆっくり飲み込むんだ」
ごくごく……と小さな音がする。
水を飲み終えたどちゅは、か細い声で呟いた。
「……ち、ちあわちぇー……」
祐介は胸をなで下ろした。
(……まだ、ギリギリ助かるかもしれないな。それにしても一体どこから来たんだ?)
しかし考えている暇はない。早く治療しないとこのままあんこが流れ出して危ない。祐介はどちゅをそっと抱き上げようと体を傾けたその瞬間――
「どうしたんですか。そんな所でうずくまって」
突然、後ろから低い声がかけられた。
祐介の背筋が一瞬で凍りついた。振り返ると灰色の制服を着た男が、懐中電灯を向けて路地裏の外で立っていた。胸元に「第三処理課」と書かれたバッジが街灯の光に冷たく光っている。間違いなく加工所員だ。
祐介は咄嗟に自分の体でどちゅを隠すようにした。
「いや……別に、何でもないです」
加工所員はゆっくりと近づきながら、鋭い視線を祐介とその背後に手元の光と共に交互に送った。
「野良ゆっくりがこの住宅街で目撃されたという通報がありましてね。……おや? その後ろにいるのは?」
祐介は必死に笑顔を作った。
「ああ、これは俺の飼いゆっくりでして……散歩の途中でちょっと……疲れたみたいで」
「スーツのまま夜中にですか?」
「……仕事から帰ってすぐ散歩に行きたいと駄々をこねたもんで、仕方なく連れ出したんですよ」
加工所員は一歩近づいた。祐介は無意識に後ずさる。手元に感じるどちゅの体温がわずかに震えている気がした。
「失礼ですが、そのゆっくり……飼いバッジは?」
(ヤバい……!)
祐介の頭の中で激しく警報が鳴り響いた。まだ本格的に保護したわけではないが、野良のゆっくりに対して水を与え、しかも「俺の飼いゆっくりだ」と嘘をついてしまった。加工所員がこれを信じれば、野良を保護・飼育したと判断される可能性が高い。刑事罰の対象となり罰金だけでは済まず、前科が付き会社に連絡が行ってクビは確実――人生が終わるレベルの大問題だった。
その時、どちゅが小さく呻いた。
「……おやまに……かえりたい……のじぇ……」
「おやま?」加工所員の眉が上がる。
祐介は慌ててフォローした。
「うちにある山の置物のことですよ! こいつの大好きな……」
「念のため確認します。バッジを見せてください」
男の手がゆっくりと伸びてくる。祐介の指先が震えた。時間がない。
「あっ! あそこに何か!」
咄嗟に加工所員の後ろを指差した。男は一瞬だけ視線を後ろに向けた。
そのわずかな隙に、祐介は急いでカバンの中から形見として持ち歩いていた過去のまりさの銅バッジを取り出し、どちゅの帽子のお飾り部分に素早く付けた。すでに片手に持っていたスーツの上着を、傷口を隠すようにどちゅの体に被せた。
「……何も見当たりませんが」
加工所員が再び振り向いたときには、すでに準備は完了していた。
男はバッジを確認し、ゆっくりと顔を上げた。
「……本物のようですね。しかし、なぜ急に上着を着せたんです?」
「こいつが……俺の服を着たがる癖がありまして……ははっ」
祐介は笑ったが、声が明らかに上ずっていた。加工所員は数秒、じっと祐介の顔を見つめたまま動かない。その沈黙が、異様に長く感じられた。
「……わかりました。気をつけて帰ってください」
加工所員はそう言い、背を向けて歩き出した。祐介はようやく肩の力を抜き大きく息を吐いた。
(……助かった……)
「あ、それと」
「え!? な、なんですか!?」
祐介の声が上擦った。突然足を止め振り向いた加工所員の呼び掛けに心臓が再び跳ね上がる。
「最近、飼いゆっくりがいなくなる事件が多発しています。十分に気をつけてください」
「……は、はい……気をつけます」
加工所員が今度こそ去っていくのを見届け、祐介は全身から力が抜け落ちるのを感じた。冷や汗が背中を伝っていた。
祐介は重いどちゅを背中にしっかりと担ぎ上げた。二十キロを超える体重が肩にずっしりと乗かる。黒いトンガリ帽子が首筋に触れ、柔らかい体が背中に密着する。
「大丈夫だ……俺が助けるからな。もう少しだけ頑張れ」
汗だくになりながら路地から一キロ先にある自分の古いアパートまで、よろよろと歩き始めた。




