第三話 条例
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第三話 条例
なんとかどちゅまりさを背負ったまま、自宅のアパートに辿り着いた祐介は、息を荒げながら外階段を上り始めた。
深夜の住宅街は静まり返っており、アパートに着くまで幸いにも誰にも見つからなかった。もし通行人や近所の住人に目撃されていれば、野良ゆっくりを保護したことがすぐにバレてしまうところだった。
二階建てのアパートの鉄階段が、深夜に響く重い足音を立てる。額から大量の汗が滴り落ち、目に入りそうになるのを何度も腕で拭いながら、背中に感じる小さな体温を落とさないように慎重に二階まで登り切った。
自分の部屋の前に着くと、壁に手をついて一度大きく息を吐いた。
カバンから鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。カチャリという音とともにドアを開けた。
家の中は夏の暑さで熱気がこもっており、蒸し暑かった。祐介はすぐにエアコンのスイッチを入れ、部屋を涼しくした。
残業続きでほとんど家にいない独身生活のため、部屋は比較的片付いていた。
祐介はまず押し入れを開け、毛布を二枚取り出した。一枚をリビングの床に広げ、もう一枚をその上に重ねて柔らかい寝床を作った。
抱っこ紐代わりに身体に巻き付けていたスーツの上着は、包帯代わりとしてそのままにしておき、どちゅまりさを毛布の上にそっと横たえた。
「……う……ゆ……」
弱々しい声が、どちゅまりさの口から漏れた。
目を開ける気力すらないようで、薄く開いた瞳は虚ろだった。
祐介は治療道具を買うため急いで外へ飛び出した。
治療道具を買うため、祐介は近くの行きつけだったゆっくりショップに向かって全力で走っていた。しかし途中ではっと足を止め、腕時計に目を落とした。
(しまった……! もう、とっくに閉まってる……)
もう二十三時を回っている。ショップの閉店時間である二十時を大幅に過ぎていた。
祐介はショップに着くことなくその場で立ち止まり、すぐに方向を変えた。
焦りを抑えながら、代わりに近くのコンビニエンスストアへ向かって再び走り出した。
深夜のコンビニに飛び込むと、レジに立っていた男性店員が一瞬だけ彼の慌てた様子を目で追った。
祐介は商品棚の間を素早く動き回り、大量の小豆の缶詰、オレンジジュース、ゆっくりフードを次々と買い物かごに放り込んでいった。
レジへ並んだ祐介は、息を荒げながら商品をカウンターに置いた。
「あんまん、ここにあるの全部ください!」
店員は少し驚いた顔をしたが、什器に残っていたあんまんをすべて袋に詰めた。
会計を済ませると、祐介は袋をひったくるように抱え、ほとんど駆け足で店を飛び出していった。
自動ドアが閉まるのを見送りながら、店員はふと、以前店長から聞いた話を思い出した。
『深夜に小豆や甘いものを大量に買っていく客はな、大抵ゆっくりが原因だよ。怪我や病気の治療の為に買っていくのさ』
(なるほど……あのお客さんも、そういうことか)
店員は妙に納得しながら、空になったホットショーケースに次のあんまんを補充し始めた。
部屋に戻った祐介は、急いで鍵を閉めるとリビングへ駆け込んだ。
毛布の上に横たわったどちゅまりさは、小さく震えながら弱々しい息を繰り返していた。
祐介はすぐにキッチンへ行き、皿を取り出してその上に小豆の缶詰を全て開けた。
そこに水を加えてよく混ぜ濃度を薄めていく。急激な甘みで中枢餡がショートし、死に至る危険があることを、以前ゆっくりを飼っていた時の知識から知っていた。
(まずはあんこを補充しないと……)
祐介は水で薄めた餡をスプーンに掬い、どちゅまりさの口元にそっと運んだ。
「食べるんだ……少しずつでいいから、飲み込んでくれ」
「……あまあま……しゃん……?」
弱々しく口を開けるどちゅまりさの口内へ、祐介は一口ずつ丁寧に餡を流し込み、時折背中をさすってやった。ある程度体内の餡が補充されたのを確認すると、すぐに次の処置へ移る。
温めたお湯でタオルを湿らせ、身体にこびりついた泥と乾いた餡を丁寧に拭き取った。
傷口が露わになると、そこから剥き出しになった餡子を周りの皮ごとスプーンで慎重に抉り取る。菌の繁殖を防ぐための苦渋の選択だ。空いた隙間に、先ほど作った水で薄めた新しい餡を優しく詰めていく。
「ごめんな、痛いけどちょっと我慢してくれよ……。まずはこれで、中を塞いで……」
すかさず、買ってきたあんまんの皮を剥いで傷口を覆い、応急処置としてオレンジジュースを垂らした。ひとまずの流出はこれで防げるはずだ。
しかし、これはあくまで本物の皮を作るまでの時間稼ぎに過ぎない。
祐介は食品棚を開け、小麦粉など饅頭の皮の材料を取り出した。幸い、以前料理好きの友人が泊まりに来たときの使い残しが眠っていた。
急いで生地をこね、薄く伸ばして簡易的な饅頭の皮を作り上げる。
あんまんの皮をそっと剥がし、出来立ての生皮を傷口へ丁寧に貼り付けた。そして仕上げに、もう一度オレンジジュースを満遍なくかける。
すると、ゆっくり特有の驚くべき再生能力が働き、新しい皮が馴染んで傷口がみるみる塞がり始めた。
どちゅまりさの顔を見ると、苦痛に歪んでいた表情が少しずつ和らいでいく。
「……いたいいたいしゃん……どっかいったのじぇ……?」
「よかった……本当に、よかった……」
祐介はその場にへたり込み、大きく息を吐いた。ようやく肩の力が抜け、心からの安堵が込み上げてきた。
しかし、同時に胸の奥が重く沈んだ。
(俺は今、犯罪を犯している……)
この街で野良ゆっくりを保護することは、立派な罰金刑の対象だ。
加工所員に詰め寄られた時の、あの冷たい視線と感情を一切浮かべない落ち着いた声が脳裏に蘇る。
あの無機質で事務的な態度が、逆に祐介の背筋を凍らせた。もし野良ゆっくりだとバレていたらと考えると、ただでは済まされなかったかもしれない。
祐介は目を閉じベッドに腰掛け、三年間の街の変化を思い返した。
知事が交代したのが、全ての始まりだった。
飼っていたまりさが亡くなってから一年後、新しい知事が就任した。「東京オリンピックに向けた景観美化とクリーンシティ」を公約に掲げ、野良ゆっくりゼロ政策を強力に打ち出したのだ。
野良ゆっくりによる無断侵入と不法占拠、家屋や食品の汚敗・食害、特有の甲高いゆっくりボイスによる騒音、うんうんの垂れ流し、家庭菜園や花壇の破壊、ゴミ捨て場の散らかし——そうした迷惑行為が長年、社会問題となっていた。
さらに彼らは「自分たちは特別で可愛い存在」「人間はゆっくりに奉仕するべき」という身勝手で傲慢な本能を持ち、それが人間側の苛立ちを増幅させていた。
知事は就任後すぐに臨時会を招集し、条例案を都議会に提出した。役所の法務担当による条文作成や法令審査、事前調整に数週間を要した後、ようやく本会議での審議に入った。
市民の多くは野良ゆっくりによる迷惑行為に長年うんざりしており、政策への反対の声は少なかった。
都議会で審議された結果、出席議員の過半数の賛成を得て条例は可決され、施行された。
「拾わない」「餌を与えない」「駆除する」の三原則が徹底されることとなった。
政府も地方自治体と連携し、加工所に多額の国費を投入して一匹残らず駆除する方針を打ち出した。
祐介にとって、この野良ゆっくりゼロ政策は、ある意味で都合の良いものだった。
まりさを殺されたトラウマを抱え、できるだけゆっくりと関わらないように生きてきた彼にとって、街から野良ゆっくりが排除されることは、心の平穏を守るための後押しでもあった。
当然、野良ゆっくりたちも黙ってはいなかった。街中の野良ゆっくりが集まり、デモ行進を行って必死の抗議の声を上げたこともあった。
「ゆっくりしていってね!!! ゆっくりするけんりさんをまもるのぜ!!!」
「のらゆっくりだって、いきてるんだよ!!! ころすのは、ゆっくりできないよ!!!」
「こんなじょうれいは、むこうよ!!! いますぐ、とりけしなさい!!!むきゅー!!!」
「ちじしゃんは、ゆっくりできない、うんうんなのぜ!!! いますぐ、やめるのぜ!!!」
「ゆっくりをいじめる、わるいにんげんさんは、せいっさいされるべきだよ!!!わかってねー!!!」
しかし、それは逆に格好の標的となり、デモに参加していたゆっくりたちは次々と駆除され、結果として政策の加速に繋がっただけだった。
捕食種である飛行能力を持つゆっくりたちも、駆除の対象となった。
れみりあ種やふらん種、きめぇ丸種をはじめとした空を飛ぶゆっくりの捕食種。彼らを効率的に落とすために、加工所は特殊な電波兵器を投入した。
その電波はゆっくりの中枢餡を直接揺さぶり、脳震盪のような状態に陥らせる。飛行能力を一時的に失ったゆっくりたちは、次々と地面に落ち、待ち構えていた駆除班によって粛々と処理されていった。
知能が高いきめぇ丸種の一部は人間側に「交渉」を申し出た。
きめぇ丸種はゆっくりの中でも特に知能が高く、人間に対して無闇に迷惑行為を働くことはほとんどなかった。それどころか、賢明で理性的な個体が多く、共存の可能性を模索しようとする者も少なくなかった。
きめぇまる種の一部は人間側に「交渉」を申し出た。「共存の道を探ろう」と知事や議会への面会を求め、知事側はこれを承諾した。しかし、それは罠だった。
交渉の場に集まったきめぇ丸種たちは、その場で一斉に特殊電波を浴びせられ、抵抗する間もなく駆除された。「交渉のテーブルに着いた時点で、すでに終わりだった」というのが、当時の関係者の間で囁かれた言葉だった。
希少種も例外ではなかった。さなえ種、めーりん種、さくや種等といった希少価値の高いゆっくりたちも、容赦なく駆除の対象とされた。
川や池に潜んで暮らしていたつむりまりちゃ種や、にとり種も例外ではなかった。ここにも特殊な電波兵器が投入され、中枢餡に直接干渉して脳震盪を起こさせることで水面に浮き上がらせ、その場で駆除されるという手法が取られた。
さらに、街のいたるところで徹底した「ゆっくり避け対策」が施された。
ゴミ捨て場には対ゆっくり用の高周波超音波装置が設置され、公園には触れると火傷のような痛みが走る特殊な雑草と砂利が設置され、街路樹や環境用の草木にもゆっくりが食べられないよう忌避剤が塗布された。元々排気ガスで黒ずんでいる葉や茎は、さらに不味く不衛生なものへと変えられていった。
公共の施設や商業施設にはセンサーが配置され、バッジの有無を自動で判別してブザーが鳴り響く仕組みも導入された。
加工所員だけでなく、一般住民たちも「ゆっくり駆除ボランティア」として積極的に活動に参加していた。彼らは街の景観美化と安全を守るという大義名分のもと、野良ゆっくりを発見した際の通報や、時には自ら捕獲・排除に加わる者も少なくなかった。
特に鬼威惨は大いに活躍した。彼らにとってこの街は野良ゆっくりを遠慮なく狩り、好き放題に虐められる「最高のスポット」として人気が高まり、遠方からやって来る者まで現れるほどだった。
都市部での生活を諦め、逃亡を試みるゆっくりたちも少なからず存在した。しかし県境には加工所員が厳重に配置され、県外への脱出はほぼ不可能だった。飛行能力を持つゆっくりたちも、ドローン型の特殊電波兵器によって墜落させられ、逃げることはできなかった。
命乞いをするゆっくり、善良で人間に危害を加えなかったゆっくり、人目につかないよう隠れて密かに暮らしていたゆっくり——種族や過去の行いを問わず、「野良」という枠組みだけで彼らは容赦なく駆除された。
さらに、飼い主のもとにいる一部のゆっくりたちも駆除の対象となった。それは元々野良ゆっくりだった個体と、その血を引く子孫たちだった。理由は「野良としての本能が遺伝的に残っており、再野生化の危険性がある」とされ、条例の完全運用を理由に一律で排除される方針が決まった。
しかし、これに対して飼い主である人間たちから強い反対の声が上がった。政府は最終的にこれを特別措置として『生態調査および安全管理』を名目に研究所へと引き取られる形となった。
その年から、飼っているゆっくりに対しても「所有者登録バッジ」の取得が義務付けられ、バッジを付けていない個体は野良認定され、即時駆除の対象となった。
そして、新知事が掲げた「野良ゆっくりゼロ」を義務付ける新たな条例の執行に伴い、それまで機能していた「地域ゆっくり制度」の即時廃止が決定した。
この制度は、野良ゆっくりや飼いゆっくりがゆっくり協会が実施する試験を受け、合格した個体に与えられる資格だった。合格者は「地域ゆっくり」として認定され、公園などに簡易的な拠点を構えてもらい、衣食住の最低限の保障を受ける代わりに、迷惑な野良ゆっくりを駆除する役割や、街の清掃などの社会奉仕活動に従事させられていた。
だが、新条例の徹底的な排除方針の前に、温い共存策は容赦なく切り捨てられた。
行政が挙げた廃止理由は、徹底的なコストカット、そして一部の個体に見られた「再野生化」という管理上の不備だった。
その結果、こちらも特別措置として研究所へと引き取られ、街から姿を消していった。
数年の間、この街では毎日、ゆっくりたちの悲鳴が響き渡っていた。
路地裏、公園、河川敷、廃屋の建物——どこからともなく聞こえてくる甲高い「ゆんやー!」「ゆぴぃ!」という声は、夜になると特に大きく響いた。
しかし、それも二年が経過した頃には、完全に聞こえなくなった。
野良ゆっくりが街からほぼ根絶されたことに伴い、駆除ボランティアの活動も自然と下火になり、参加者もいなくなった。加工所員の数も大幅に減らされ、かつてこの街を「狩り場」として楽しんでいた鬼威惨たちも、獲物がなくなったことで興味を失い、次第に街を去っていった。
街から野良ゆっくりは事実上、根絶されたのだ。
――ただし、例外が存在した。
一匹残らず排除しようとする政府の横暴に対し、過激派愛護団体が「ゆっくりの生存権」を掲げて真っ向から反抗。彼らは政治的な立ち回りでNPO法人の認可をもぎ取り、行政の介入を完全に拒絶する『公認保護区』として、ある古びた広場を死守することに成功したのだ。
警察すら手を出せないその公園には、今も無数の野良の群れが燻り続けているという。
ただし、そこにいるゆっくりたちは実際には野良ではなく、「保護ゆっくり」として扱われ管理されているのであった。
そして祐介にとって致命的だったのは、この街唯一の空白地帯が、運悪く自分の家からほど近い場所に誕生してしまったことだった。
まりさの死のトラウマを抱えゆっくりに関わらないようにしてきた祐介は、その近所の公園周辺にだけは決して近づかないよう、3年間ずっと避けて生活してきた。
祐介は目を閉じたまま、静かに息を吐いた。あの頃のゆっくり達の街中に響く悲鳴を、今でもはっきりと覚えている。
そして今、自分の部屋の毛布の上に横たわる一匹の野良ゆっくりを、法律を犯してまで保護してしまった自分自身を改めて自覚した。
(……なぜ、こんな危険な真似をしてしまったんだ)
胸の内で自問する。
こいつの弱々しい声と、死にそうな瞳を見た瞬間、飼っていたまりさの顔が脳裏に浮かんでしまった。あの時、助けられなかった後悔が、胸の奥で疼いた。
ただ、それだけだった。理屈ではなく、衝動的に体が動いてしまった。
不思議と、後悔はなかった。
むしろ、助けられなかったあの日の出来事を、わずかでもやり直せたような気がして、胸のつかえが少しだけ軽くなったように感じられた。
(……ところで、なぜあんな路地裏で傷を負って倒れていたんだ?)
祐介は目を細めて考え込んだ。
加工所員や鬼威惨に追われて逃げてきたのかもしれない。もしくは他の野良ゆっくりに襲われた可能性もある。
それにしても、なぜこの街にまだ野良のゆっくりが残っていたのか。バッジを付けていない個体は即座に駆除対象のはずだ。
考えれば考えるほど、頭の中が整理できなくなってきた。
祐介はふと壁にかかった時計に目をやった。すでに午前零時を回っていた。
(もうこんな時間か……。今日はもう限界だ)
部屋の照明を消し、風呂にも入らずスーツのままベッドに倒れ込んだ。
一気に疲労が押し寄せ、意識が深い闇へと沈んでいった。
薄暗い部屋の中、毛布の上に横たわるどちゅまりさが、かすかな声で呟いた。
「……にんげんしゃん……ありがとう……」
その声は、すでに眠りについた祐介には届かなかった。




