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処暑の風と、焼けなかった秋刀魚

処暑の風と、焼けなかった秋刀魚


八月二十三日の朝、芳江は白い木綿のブラウスに薄茶色のズボンを穿き、台所の暦へ赤鉛筆で丸をつけた。暦には小さな文字で「処暑」と印刷されていたが、窓の外では蝉が声を張り上げ、ガス台の前へ立っているだけで首筋に汗が流れた。昨夜飲み残した麦茶はぬるくなり、流しの脇では洗った二枚の皿が水切り籠の中で斜めに重なっている。


「暑さが収まる日だっていうけど、ちっとも収まっていないじゃない」


六畳の和室から、夫の達夫が新聞を持って出てきた。紺色の甚平は何度も洗われて襟が柔らかくなり、左の袖口から白い糸が一本垂れている。達夫は冷蔵庫を開け、麦茶のポットを持ち上げた。


「空っぽだぞ」


「最後に飲んだ人が作る決まりでしょう」


「俺は一口しか飲んでいない」


「一口でも空にした人が最後の人です」


「ずいぶん厳しい法律だな」


達夫はやかんへ水を入れ、麦茶の袋を一つ落とした。ガスの青い火がつくと、台所の空気はいっそう重くなった。芳江は扇風機の前へ移動し、冷蔵庫から昨夜の南瓜の煮物と胡瓜のぬか漬けを取り出した。


「今日から秋だと思っていたのに」


「処暑は、秋になったという意味じゃないぞ。暑さが峠を越す頃だ」


「峠なら、とっくに越えたでしょう。七月から毎日暑かったもの」


「長い峠なんだよ」


「そんな峠、途中に茶店くらい置いてほしいわ」


朝食は、塩昆布を混ぜたおにぎりと南瓜の煮物、それに冷たい胡瓜だった。芳江はおにぎりを丸く握り、達夫は海苔を巻く係を引き受けたが、海苔の端を揃えようとして何度も貼り直したため、一つだけ黒い団子のようになった。開けた窓から近所のラジオ体操の音楽が聞こえ、醤油と糠の匂いに朝の湿った空気が混ざった。


「あなたのおにぎり、海苔が三重になってる」


「余ったから全部使った」


「海苔だけで口の中がいっぱいになるわよ」


「余らせたら湿気るだろう」


「そういうところだけ、几帳面なのよね」


達夫は返事の代わりに、三重の海苔を巻いたおにぎりへかじりついた。噛んでも噛んでも海苔が切れず、口元から黒い帯が垂れ下がった。芳江が吹き出すと、達夫は海苔を指で押し込みながら新聞で顔を隠した。


「笑うな。味は同じだ」


「食べ方が違いすぎるのよ」


「次は二重にする」


「一重でいいの。一重で十分なの」


朝食後、芳江は押し入れから薄手の秋物を出した。小豆色のカーディガン、格子柄の長袖シャツ、達夫が退職祝いにもらった灰色のベストを畳の上へ並べると、防虫剤の匂いが部屋に広がった。達夫は新聞を読みながら、ときどき畳へ落ちた菓子の屑を指で拾い、灰皿代わりに使っている小皿へ入れた。


「まだ早いんじゃないか」


「朝晩は涼しくなるって書いてあるもの」


「天気予報は、今日も三十五度だぞ」


「でも、急に秋が来たら困るでしょう」


「秋は玄関の呼び鈴を押してから来るのか」


「あなたみたいに、鍵を忘れて窓から入ろうとはしないわよ」


去年の九月、達夫はごみ出しへ行っただけなのに鍵を持たず、芳江が買い物から戻るまで二時間も外で待っていた。ベランダから入ろうとして植木鉢を倒し、隣家の奥さんに泥棒と間違えられたことまで、町内ではよく知られている。達夫は灰色のベストを手に取り、話を変えるように背中へ当てた。


「これは、もうきついかもしれない」


「服が縮んだんじゃなくて、あなたが育ったのよ」


「七十二歳でも育つのか」


「毎晩、アイスを二つ食べれば育ちます」


昼前、二人は商店街へ買い物に出た。芳江は藍色の帽子をかぶり、白い日傘を差した。達夫は薄い水色の半袖シャツとベージュのチノパンを身につけ、保冷バッグを肩から下げたが、玄関を出た直後に老眼鏡を忘れたと言って戻った。


「冷蔵庫の上に置いたでしょう」


「どうして分かるんだ」


「さっき牛乳の賞味期限を読んで、そのまま置いたから」


「よく見てるな」


「四十八年も一緒にいれば、眼鏡の置き場所くらい分かります」


商店街の魚屋には、銀色の秋刀魚が氷の上へ並べられていた。去年より細身だったが、尖った口先と青黒い背は店先の光を鋭く跳ね返している。焼いた魚の匂いを思い浮かべた芳江の舌に、ほろ苦い腸の味がよみがえった。


「二尾ください」


「待て。今年の初物だぞ。値段を見たのか」


「見たわよ」


「一尾六百八十円だぞ」


「老眼鏡を取りに戻って正解だったわね」


達夫は値札と秋刀魚を交互に見た。保冷バッグの口を開けたまま動かないので、後ろに並んでいた女性が籠を持ち替えた。魚屋の主人は包丁で氷を崩しながら、二人の相談が終わるのを待っている。


「一尾にしよう」


「一尾を半分ずつ?」


「鯵なら三尾買える」


「処暑の日に秋刀魚を食べたかったのよ」


「秋刀魚は逃げない」


「値段が下がる前に、私たちの歯が減るかもしれないでしょう」


二人が言い合っていると、魚屋の主人が小ぶりな秋刀魚を二尾持ち上げた。少し皮が傷ついているため、二尾で七百円にするという。芳江は達夫の脇腹を肘で軽く押した。


「これにする?」


「傷があっても味は変わらないか」


「人間と同じだよ。焼けば香ばしくなる」


「店主さん、それは褒めているのか?」


秋刀魚を買ったあと、八百屋で種なし葡萄を一房選んだ。芳江は一粒の張りを指で確かめ、達夫は値札を見てから黙って財布を開いた。帰り道、空の西側に灰色の雲が重なり、乾いていた風に雨の匂いが混じり始めた。


「急ごう。降ってくるぞ」


「日傘だから、少しくらいなら雨も大丈夫よ」


「保冷バッグに葡萄を入れるな。秋刀魚の匂いが移る」


「袋で分けてあるでしょう」


「秋刀魚味の葡萄なんて、俺は食べないぞ」


アパートまであと二百メートルというところで、大粒の雨が落ちてきた。熱を持った道路へ雨粒が当たり、土と埃の匂いが一度に立ちのぼった。達夫は保冷バッグを胸へ抱え、芳江は日傘を半分ずつ使えるよう夫のほうへ傾けた。


「そっちが濡れてるぞ」


「あなたが葡萄を守るから、私はあなたを守ってるの」


「俺が守っているのは秋刀魚だ」


「葡萄も入ってるでしょう」


「秋刀魚が主役だ」


二人が玄関へ駆け込む頃には、達夫の右肩と芳江の左袖がびっしょり濡れていた。物干し竿に残していた布巾も雨を吸い、朝より重そうに垂れ下がっている。芳江は濡れたブラウスを着替え、薄桃色のTシャツに袖を通しながら、台所に立つ達夫へ声をかけた。


「秋刀魚、冷蔵庫へ入れて」


「分かってる。葡萄は洗うのか」


「食べる分だけね。全部洗うと傷みやすいから」


「一粒だけ味見する」


「一粒で済んだことがないでしょう」


夕方、雨が上がると、窓から入る風は朝よりも冷たくなった。芳江は秋刀魚へ塩を振り、魚焼きグリルへ二尾並べた。達夫は大根をおろしていたが、途中で腕が疲れたと言い、半分ほど残った大根を芳江へ差し出した。


「交代してくれ」


「さっき、秋刀魚は俺が守ったって威張っていたでしょう」


「守る筋肉と、大根をおろす筋肉は別なんだ」


「そんな都合のいい筋肉、初めて聞いたわ」


「葡萄を三粒やるから」


「五粒」


「四粒で手を打とう」


芳江が大根おろしを引き受けた直後、グリルから細い煙が立ち始めた。脂の焼ける香ばしい匂いに混じって、焦げた苦い臭いが台所へ広がる。達夫が慌てて火を止めようとしたが、魚焼きグリルではなく隣の味噌汁の火を消した。


「そっちじゃない!」


「つまみが三つもあるから分からないんだ」


「右よ、右!」


「俺から見て右か?」


「台所に右も左も一つしかないでしょう!」


グリルを開けると、秋刀魚の皮は真っ黒になり、尾の先が炭のように崩れた。芳江は菜箸を持ったまま口を結び、達夫は換気扇の紐を強く引いた。外では雨上がりの風が網戸を鳴らし、焦げ臭い煙を少しずつ薄めていった。


「七百円が黒くなった」


「中までは焦げていないかもしれない」


「あなた、さっき魚屋で、焼けば香ばしくなるって聞いたでしょう」


「これは少し香ばしすぎるな」


「少し?」


二人は焦げた皮を箸で剥がし、大根おろしをたっぷり添えた。冷めた味噌汁へ火を入れ直し、胡瓜のぬか漬けと、昼に買った葡萄も食卓へ並べた。見栄えの悪くなった秋刀魚の身は、皮の下に柔らかな脂を残していた。


「食べられる?」


「うまいよ。ちゃんと秋刀魚だ」


「焦げた味しかしないんじゃない?」


「大根おろしを載せれば、秋の味だ」


「ずいぶん大根に頼る秋ね」


食事を終える頃、蝉の声は聞こえなくなり、代わりに植え込みから虫の細い声が続いていた。芳江は葡萄を一粒摘み、薄い皮ごと口へ入れた。冷たい果汁が舌の上で弾け、達夫も皿から大きな粒を選んだ。


「朝より涼しくなったな」


「雨が降ったからでしょう」


「処暑だからかもしれない」


「暑さの峠を越したのかしら」


「峠の茶店で、焦げた秋刀魚を食べたところだ」


芳江は残った葡萄を数え、達夫の皿へ一粒多く分けた。窓から入り込んだ風が暦の頁を揺らし、赤鉛筆で囲んだ「処暑」の文字をちらちらと見せた。達夫はそれに気づかないふりをして、最後の葡萄を芳江の皿へ戻した。


「これは、そっちの分だ」


「四粒で手を打ったはずよ」


「大根おろし代に、もう一粒つける」


「では、ありがたくいただきます」


外では濡れた道路を車が走り、水を跳ねる音が遠ざかっていった。昼間の熱は畳や壁にまだ残っていたが、扇風機を止めても汗は流れなかった。芳江と達夫は焦げた秋刀魚の骨と葡萄の皮を片づけ、少しだけ軽くなった風の中で、今年最初の秋を迎えた。


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