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行野編。短めの予定です。
「きゃああああっ!!」
空に鉛色の雲が垂れ込め、今にも雨が降り出してきそうな、鬱陶しい朝。俺、四瀬行野は統と葛城と、いつものように登校していた。統は先日の選挙を首尾よく潰して機嫌がいいし、葛城は葛城で何か心境の変化があったのか、統にべったりとくっついている。時折俺に自慢げな視線を向けてくるのが癇に障る。少し統に近づきすぎじゃないか? 前はもっと一歩距離を置いていただろう。
辺りを歩く生徒たちは、統が目に入るとさっと居住まいを正し、「おはようございます!」と叫ぶように挨拶する。やはり、公衆の面前で一条の顔を潰せたのは良かった。今まで一条につこうか傍観を決め込もうか悩んでいた生徒たちが、明確に統を支持し、一条を敵視し始めた。
大衆の気は変わりやすい、と統は大して喜んでいるようでもなかったが。
彼女は微笑んで挨拶に応え、昇降口に足を踏み入れる。統と葛城はA組、俺はB組で、下足箱が違う。すぐに合流しようと、急いで靴を履き替えた。
――そこで、悲鳴が上がった。
すぐに統でないことは分かった。しかし叫び声というのは似通ったもので、誰とは特定できない。耳を聾する甲高い声。葛城とも思えないが……。
とにかく統の無事を確認しようと歩き、そして、すぐに後悔した。
A組の大きな下足箱の前には、五月川学園の制服に身を包み、両てのひらを頬に押し当て、頭の上で二つに結んだ長い髪をぶるぶると震わせる、今日も今日とてわざとらしいほど可愛い子ぶった、一条真妃が立っていた。
「もぉ~っ! なにコレ! ひどいよぉ~」
くねくねと体を動かす一条の横には、蓋の開かれた恐らく彼女の下足箱と、そこから零れ落ちる、大量のゴミがあった。紙屑やビニールなど、乾いたものも多かったが、菓子の包み紙なども含まれており、こんなものを下足箱に入れられたら気分が萎える。
しかし、一体誰がこんなことをしたのだろう……?
一条にこんな見え透いたいじめを行うなど、今の五月川学園では自殺行為だ。すぐに一条ハーレムに連行され、数日後には姿を消すことになるだろう。
統と葛城はその様子を一瞬だけ見やり、すぐに背を向けた。関わるのも馬鹿馬鹿しい。そういえば今日の一限は数学の問題に当たっていると言っていた。まさか統がミスをするはずもないが、最終チェックは怠らないだろう。
わいわいと騒ぎ始めた野次馬や、「一条さま!」と絶叫するハーレムの山を抜け出して、教室へ向かおうとしたとき。
「――お待ちなさい、三雲統」
涼やかな声が、その場を打った。
その声を聞いた瞬間、俺は思わず振り返った。目を見開き、凝視し、今にも殴りつけそうな手を必死で押さえる。心臓の鼓動が早くなった。それの持ち主を、俺は知っている。
統が首だけで振り向き、ハッと息を呑むほど鮮やかな笑みを刷いた。
「おはようございます、四瀬透先輩。何か私にご用ですか?」
人ごみの中でつい目が釣り込まれてしまう存在感を放ちながら、四瀬透が一条の元へ歩いてくるところだった。銀縁の眼鏡の奥の瞳は鋭く細められ、捕食するかのように統を捉えて離さない。そのぶしつけな視線にも動じることなく、統は口元をほころばせている。
「大したことではありません。しかし、クラスメイトが酷い目に遭ったというのにもかかわらず、冷酷にも背を向けるあなたに、少しばかり注意をしようと思っただけですよ。まるで犯行現場から逃げるこそ泥のようだ、と」
「そうですか、ご忠告感謝します。では、失礼いたしますね」
四瀬の挑発を跳ねつけ、統は踵を返そうとする。そこにすかさず、一条の甘ったるい声が入った。
「マキ、誰にもこんなことされるほど恨まれてなんかいないのに……っ!! どうしてっ? どうしてマキがこんな目に遭わなきゃいけないのぉっ!?」
「そうですね、一条さん」
四瀬が紳士然として一条の肩を抱く。さながら悲運の姫を守る騎士のように。葛城が隣で「気持ち悪いね、四瀬先輩って」と呟いた。全く同感だ。
「しかし、一条さんを深く恨んでいる人が、この学園には一人だけいるんじゃないですか? こんな卑劣なことでも、平気でやってのけられる人間が。ねぇ、三雲さん?」
「さあ? 一条真妃の態度は決して良くないから、恨む人がいても不思議ではありません」
「そうですね、彼女は少し人を惹きつけすぎます。それで大切な誰かを奪われて、見当違いの恨みを抱く人もいるでしょう。嘆かわしいことです。しかし、それくらいのことでここまでする必要はありますか?」
「すべての人間が、あなたと同じ価値観を持っているわけではないのですよ? 四瀬透が『それくらい』と思っても、その人にとっては重要なことかもしれません」
「――例えば、弟さんを亡くすとか?」
四瀬が唇を釣り上げ、統を見下ろす。一条の方に回されていた腕はすでに解かれ、いかにも傲慢に組まれていた。レンズが反射して、表情は捉えられない。
「僕はついこう考えてしまいます。三雲統は、弟を亡くして非常に錯乱している。家族を突然亡くしたんですからね。そこで、三雲篤史のすぐ近くにいた一条さんを不当に責めているのではないですか? 彼女なら救えたはずだ、と逆恨みしているんでしょう? 自分が何もできなかったことを棚に上げて、筋違いも甚だしいことを考えているんです。それで、一条さんに恨みの念をぶつけてしまう――。
そう考えると、ここ最近のあなたの行動も腑に落ちますよ。選挙を妨害したり、五月会への出入りに口を出したり……そして、靴箱にゴミを入れたり」
四瀬の話を聞いている間中強張っていた統の表情が、突然崩れた。白い左手で口元を覆い、堪えきれないというふうに肩を震わせる。そのまま顔を伏せてしまった統に、四瀬は勝ち誇ったように声を張り上げた。
「僕はね、あなたには少しだけ同情しますよ。きっと家族を奪われて、自分が何をしているのかよく把握できていないんでしょう。一度この学園を離れて、親元でゆっくり静養なさったらいかがですか?」
「それはこちらの台詞よ、四瀬透」
すっと面を上げた統が、冷淡に言い放った。努めて無表情でいようと四瀬を睨みつけているが、頬の辺りがぴくぴくと引きつっている。笑いを堪えているのだろう。
「あなたの眼窩には一体何が入っているのかしら。本当に同情するわ。一度入れ替えてみたらいかが?」
何やら物騒なことを呟く彼女は、真っ直ぐに一条と四瀬の方へ歩いていくと、床に散らばったゴミの中から、ハンカチで手をくるんで、何かを摘み上げた。
透明のカップだ。オレンジ色の、どろりとしたものが付着している。どこかで見た覚えがあった。
「これは、私がかれこれ一週間ほど前に五月川綾治に与えたゼリーの容器よ。彼はこれを、どこで食べたのでしょうね?」
「さあ……教室じゃないですか?」
「却下ね。何度も言うけれど、一週間前なの。普通だったらもうゴミは回収されて焼却されているはずだわ」
「……何が言いたいんだ!」
四瀬が感情を爆発させて敬語をかなぐり捨てる。落ち着いているように見えて意外と気が短い。ちょっとした皮肉ですぐに爆発する。幼少から変わらない習性だ。
一方の統は表情を変えずにカップを掲げながら、
「このゼリーは、しばらくどこかで保管されていたということ。食べられた形跡があるから、時間が経っていても傷んでいなかった。つまり、きちんと冷蔵庫に入れられていたのよ。この学園で、冷蔵庫があるのは三か所」
容器を持っていない方の手の指を、三本立ててみせる。
「一つ目、寮の台所。これはダメね。生徒は原則として使えないわ。疑うのなら聞いてみてもいいけれど?」
「いや、そこまでしなくてもいい」
四瀬は首を振る。一条は先ほどから怪訝な顔つきで、四瀬の後ろに隠れるようにしている。
統の指が一本畳まれた。
「二つ目、家庭科調理室。これもダメね。鍵がかかっているから、気楽に使おうとは思わない。もちろん疑うのなら」
「鍵の管理を糺す必要はない」
「話が早くて助かるわ」
統はにっこり笑い、最後に残った一本の指を振った。
「三つ目、五月会室。生徒の中であの部屋に入ったことがある人は分かるでしょうけれど、あそこには小型の冷蔵庫が置かれているのよね。何のためかは追及しないわ。お忙しい皆さんのことですもの、たまには一服したいこともあるわよね。
もちろん五月川綾治も同じ。彼は五月会書記で、自由に部屋に出入りできた。普通、五月会室の冷蔵庫で保管しようと思うわ。
もうお分かりでしょうけれど、このゼリーの容器は五月会室の冷蔵庫にあった。それなら食べ終えた後、捨てるのも五月会室のゴミ箱じゃない? 不幸な一条さんの靴箱に入れられたゴミは、五月会室のものなのよ。そして五月会室には、一般生徒は出入りできない」
「こじつけだ!」
四瀬が叫んだ。
「そんなものは推理とも呼べない! ただの妄想だ! 五月会の人間がやったとでも言いたいのか!? 証拠はどこにある!」
四瀬は肩で息をしている。顔は青ざめ、目玉が血走っていた。不気味だ。今にも口が裂けて血が滴りそうだ。
「そうね、私はあくまでも可能性の一つを示してみせただけ。こんなことに証拠を見つけるのは不可能よ。妄想と呼んでいただいても結構。――ただ」
統は肩をすくめて、
「そんなに挙動不審で、叫び散らして。いつもの冷静さはどこへ行ったの? 心当たりがないのなら、もっと堂々としなさいな。五月会役員だって、何人もいるのだから」
「謂れもない言いがかりをつけられたんだ。不愉快にもなる」
眼鏡を中指で押し上げて、四瀬は苦々しげに言う。相対する統は、軽やかな笑い声を上げた。
「あら? 私はあなたに謂れもない言いがかりをつけられたけれど、そんなに取り乱さなかったわ。なぜなら、私は一条さんの靴箱にゴミなんていれていないんだもの」
悔しげに唇を噛む四瀬に、統はそっと囁いた。
「――あなたの短気は、いずれ身を滅ぼすわよ。今度もあなたの思い通りになると思ったら、大間違いだわ」
そして、カップを昇降口に設置されているゴミ箱に放り投げると、踵を返した。
その背中に、ふと、過去の記憶が蘇った。




