第9話 侵入者様、どうされましたか?
(……起きてくださいませ)
夜中に、自分の体に起こされた。
寝ぼけた手が、枕もとのスマホを探した。アラームを止めようとして、ベッドの柱の一センチ手前で、指が止まった。
柱は、もう折らない。
窓の外で、短い鐘が三つ、鳴り終わるところだった。夜中の三時だ。
こんな時間に起こされるのは、二十四時間勤務の仮眠以来だ。あのころは、無線だった。
(扉の下を、ご覧なさいませ)
扉の下に、光の筋が一本あった。
その光は、白い。ろうそくのようには、ゆらめかない。
首の後ろが、ちりっとした。
(……あの石ですわ)
足音が、三つ。ひそひそ声。
それから、錠前のあたりで、かり、かり、と音がした。
背中が、すうっと冷えた。
アンナが、裏門のほうに聞いた音だ。あの夜、裏門の錠をひっかいた誰かが、今夜は、私の部屋の錠をひっかいている。
隣の部屋には、ミレイユさんが寝ている。扉一枚なんて、道具があれば、すぐに開く。
この時間に起きているのは、表門の門番さんだけだ。
狙いは、たぶん、鏡台の引き出しのかけら。
入ってこられるより、こっちから出て、扉の前に立つ。声をかけて、追い払う。
ベッドを降りて、内側から錠を外して、扉を開けた。
まぶしかった。
扉の前に、男が二人。一人は錠前の前にしゃがんでいて、一人は鉄の棒を握っていた。ニュースでよく聞く、バールのようなもの、だ。扉から五歩ほど離れた階段の角に、三人目。手提げの明かりを持っているのはその男で、光がまともに私の顔に当たった。
しゃがんでいた男が、跳びのいて尻もちをついた。
白い寝間着。下ろしたままの、長い黒髪。
髪、まとめてない。寝てたから。
この体で目を覚ました朝、鏡の中にいた、琥珀色のきつい目。たぶん、あれが狂犬の顔だ。防犯カメラの映像なら、どう見ても、私のほうが不審者だ。
研修では、不審者と向き合う間合いを、昼は三歩、夜は六歩と教わった。暗いと、相手の手もとが見えにくいから。
でも、さがったら、ミレイユさんの扉が、向こう側になる。
廊下へ一歩出て、扉の前に立った。二人とのあいだは、一歩半。
教官、すみません。六歩も、あけてあげる気はないです。
「どうされましたか?」
尻もちの男が、そのまま床に両手をついた。
「た、食べないでください……!」
もう一人の手から、鉄の棒が落ちた。がらん。両手が、勝手に上がっていた。
つま先で、棒を私の足もとへ引き寄せた。
食べない。
婚約者に噛みついたとか、の噂。ここまで届いてたんだ。
隣の扉が、細く開いた。
「オディール様……?」
「ミレイユさん、中へ。閉めて、鍵を。私が呼ぶまで、開けないで。それから、窓から門番さんを呼んでください」
扉が閉まって、鍵の音がした。
扉の下の光が、ものすごく心配そうに明るくなった。
窓の外から、聖女様の、祈りよりよく通る声。門のほうで、呼び子の笛が鳴りはじめた。
三人目だけは、へたりこまなかった。
明かりを左手に下げたまま、右手を、上着の内側に入れている。噂ではなく、目の前の私を見ていた。それに、この男だけが、逃げ道の階段を背にして立っている。慣れた人だ。
私も、その右手から、目を離さなかった。
「お嬢様、廊下に、誰か——」
階段の下から、声が駆け上がってきた。
アンナだった。お出かけ道具の鞄を、胸に抱えている。笛の音で起きて、私を起こしに来てくれたのだ。次からは起こして、と言ったのは、私だ。
「アンナ、来ないで!」
遅かった。
明かりの男が、明かりを床に落とした。階段を上がりきったアンナの腕を、振り向きざまにつかんで、引き寄せた。上着から出てきた右手に、短い刃物が光った。
「近づくな!」
床の明かりが、下から二人を照らした。刃が、アンナの頬のそばで止まった。
喉の奥から、音が出た。
ぐる、なんてものじゃなかった。低い唸りが、廊下の端から端まで響いた。首の後ろが、全部逆立った。足が、勝手に前へ出かかった。
心の中の声じゃない。体の音だ。廊下の全員に、聞こえている。
床に両手をついていた男が、声もなく、横倒しになった。廊下の反対の端で、いくつもの手燭が、ぴたりと止まった。笛と唸りで起きた、使用人たちだ。
アンナの顔から、血の気が引いた。
知っている顔だった。初めて会った朝、盆の上でカップを鳴らしていた顔。この音を、六年、怖がってきた顔。
男の手が、震えた。震えた刃が、アンナの頬に近づいた。
(噛みますわ)
待て。
(噛みますわ)
今噛んだら、刃が先に、アンナに届く。
(……っ)
待て。
唸りが、止まった。
先輩が、止まってくれた。
廊下が、しんとした。
私は、扉の前から動かなかった。刃物を持った人に、こちらから詰めない。追いつめられた人の刃が、いちばん危ない。
「刃物を、下ろしてください」
どうされましたか、と聞いたときと、同じ声で言った。
「下ろせば、誰もけがをしません。あなたにも、けがはさせません」
「動くな!」
動かない。
アンナと、目が合った。
アンナは、泣いていなかった。唇を噛んで、私を見ていた。それから、抱えていた鞄から、そっと手を離した。
替えの日傘と、鉄の扇子の入った鞄が、男の足もとに落ちた。
鍋の蓋を落としたみたいな音がした。
男の目が、一瞬、下を向いた。
(今ですわ)
よし。
寝間着の裾を、指先でつまんだ。膝を沈めた。カーテシー。
床の明かりが、私の影を、天井まで伸ばした。
床の男と、手を上げた男のあいだを、白い裾が抜けた。
五歩が、一歩で消えた。
(お手を)
手が、上がった。殿方に、手の甲を差し出すときの形。
差し出したはずの手が、男の手首を取っていた。
刃が、アンナから離れる向きへ。手首が、くるりと返った。折れない角度で。指がほどけて、刃が落ちた。
落ちてくる包丁は、つかまない。台所の常識だ。
体は、柄をつかんでいた。空中で。見もしないで。
お母様の投げるカップより、ずっと遅かった。
手首を離した手で、アンナの腕を男の指からほどいて、私の背中へ回した。
男は、それでも止まらなかった。
空いた左手が、ブーツの中へ潜った。
凶器は、一つとは限らない。研修で、何度も言われた。
(もう一本、ですわ)
知ってる。
二本目の刃が、下から私の顔へ来た。
さがらない。後ろに、アンナがいる。
右手の刃は、下へ、体の外へ。投げるのは、左手だけ。
左手を、もう一度差し出した。今度は、手のひらを下に。踊りに誘われた淑女が、殿方の手に、自分の手を預けるときの形。
預けたはずの手が、刃の手首を、上からふわりと包んだ。
くるり。
二本目の刃が男の指を離れて、床を滑った。つま先で、止めた。
男の体が、私の手を軸に、半分回った。自分の勢いで回って、背中から床へ下りた。手首は、最後まで離さなかった。
どすん、ではなかった。とん、だった。
床まで、エスコートした。
天井を見ている男を、見下ろした。
「わたくしのアンナに、二度と、刃を向けないでくださいませ」
男の喉が、ごくりと鳴った。背中を床につけたまま、もう、指一本動かさなかった。
廊下の端で、手燭の火が、いっせいに揺れた。
二本目の刃をつま先で引き寄せながら、一歩半、さがった。
しゅる。
目の前で、糸の音がした。仰向けの男の手首に、白い糸が巻きついた。
しゅる。しゅる。
背中のほうで、二つ。
振り返ると、お母様が立っていた。足音は、しなかった。お母様の目は、まずアンナの頬を見て、傷がないのを確かめてから、細くなった。
三人とも、手首と足首を縛られて、廊下にきれいに並べられていた。
「お手の作法は、忘れていないようですね」
「お母様。それ、刺繍糸ですよね」
「絹ですもの。切れませんわ」
しゅる、が三回で、三人。
刃を二本とも窓ぎわに置き、横倒しの男の胸が上下しているのを目の端で見てから、アンナに向き直った。
アンナは、鞄を落とした手のまま、震えていた。
「アンナ。……ごめん。今の音、怖かったよね」
アンナは、首を横に振った。
「六年、あの喉の音が、怖かったんです」
かすれた声だった。
「でも、今のは」
アンナは、前掛けを握りしめた。
「今のは、わたしの前に、立ってくださる音でした」
それから、もっと小さな声で言った。
「それに……わたしの名前を。あのお声で」
アンナは、笑った。笑いながら、泣いた。
先輩。聞こえてますよね。
(……当たり前のことを、申しただけですわ)
……よし。
気を失った男の肩を叩いて、呼びかけた。答えない。胸とお腹を、十を数えるあいだ見た。いつもどおりの息だ。縛られたまま横向きにして、両膝を曲げ、あごを少し前に出した。頭に、こぶはない。
「ミレイユさん。もう、開けてください。灯りを」
ミレイユさんの手のひらに照らされて、男がうっすら目を開けた。私の顔を見て、ひっ、と言った。
「痛いところは、ありませんか」
三人に聞いた。三人とも、首を横に振った。
「もう、大丈夫です。私には、あなた方を調べる権限がありません。騎士団に知らせます。騎士団の方が来られたら、お渡しします」
明かりの男が、床から私を見上げた。
「……食わ、ないのか」
「食べません」
廊下の端の手燭が、ざわざわ揺れていた。
「……お嬢様が」
誰かが言った。巡回する私たちを、扉の向こうで「生贄の行列」と怖がっていたのと、同じ声だった。
「アンナを、かばった……」
お父様が、寝間着のまま、帳面を抱えて走ってきた。走ると、速い人だった。
「こ、刻限は」
「三の鐘のすぐあとです」
お父様はその場で刻限を書きつけて、笛で起きてきた下男を一人、騎士団へ走らせた。門番さんは、門に残った。持ち場を空けない人だ。
鉄の棒と、布をかぶせた明かりも、窓ぎわへ。首の後ろが、静かになった。
三人を広間へ下ろして、騎士団が来るまで、お父様と交代で見張った。お父様は帳面を盾みたいに抱えて震えながら、交代の番が来ても、部屋に戻らなかった。
◇
朝いちばんのお茶は、若い侍女が運んできた。ゆうべ廊下の端で「アンナを、かばった」と言った人だ。アンナは、昼まで休むように、お母様に言われている。
盆が近づいてくる。少しだけ、身構えた。初めての朝のアンナみたいに、カップが鳴るかもしれない。
鳴らなかった。
注ぐ手が、落ち着いていた。ホテルのアフタヌーンティーで見てきた、いちばんいい給仕さんの手と、同じだった。
侍女が頭を下げて出ていくと、廊下で、ひそひそ声がした。
「お嬢様、賊を食べずに、騎士団へお返しになるんですって」
「なんて、お優しい……」
褒められる基準が、おかしい。
お茶が冷めないうちに、騎士団が来た。ライナルト・ブラント副団長。顎に古い傷のある、広場のあの人だ。後ろに、騎士が二人。
副団長は、玄関の広間に入るなり、私に頭を下げた。
「裏門の届け出を受けておきながら、見に来るのが遅れた。すまない」
言いわけは、竜のあとの見回りで手が足りなかった、の一言だけ。言いわけを一言で済ませる人は、信用できる。
広間の床には、ゆうべの三人が並んでいた。見張りの番は、お父様だった。三人とも、手首と足首を絹の糸で縛られて、結び目は、全部、薔薇の形をしていた。
騎士の一人が、ぽかんと口を開けた。
「これを、令嬢が、お一人で?」
「いえ。止めたのは私ですが、人を呼んでくれたのは聖女様で、隙を作ってくれたのは侍女で、縛ったのは母です」
騎士たちの目が、にこにこしているお母様に向いた。
「殿方には、お花を、と申しますでしょう」
騎士の一人が、そっと一歩さがった。
副団長は、床に並んだ明かりの男の顔を見て、眉を寄せた。
「人相書きで見た顔だ。騎士団が何年も追っている。押し込みで、一度も捕まったことがない男だ」
明かりの男が、ぼそりと言った。
「……その娘、俺の刃を、落ちる前につかんだぞ。二本目のときは、気づいたら、床で天井を見てた」
騎士たちの目が、今度は私に向いた。
「たまたま、手の届くところに落ちてきたので」
「たまたまで、刃物の柄は取れない」
「あら。うちでは、よくあることですわ」
お母様が言った。さっきの騎士が、もう一歩さがって、柱の陰のお父様にぶつかった。
「報告を」
副団長が言った。気がついたら、気をつけをしていた。
「ゆうべ、三の鐘のすぐあと、私の部屋の前で、男の人が三人。部屋の錠を、開けようとしていました。一人が、侍女に刃物を向けました。刃物は二本。取り上げて、ここに」
布に包んだ刃物を、二本、卓に置いた。
「一人が途中で気を失いましたが、横向きにして、少しして目を覚ましました。けが人は、いません。三人とも、です」
「三人とも、とは」
「この方たちも、けがはしていません。刻限と、動かした物の元の場所は、父が書きとめています」
ぶつかられたお父様が、柱の陰から出てきて、帳面を副団長に差し出した。手は震えていたけど、柱の陰には戻らなかった。
帳面を受け取った副団長が、私に言った。
「騎士団の誰より、報告が短い」
後ろの騎士が、ちらっと副団長を見た。たぶん、報告書の長い人なんだと思う。
「私が来たのは、もう一つ、わけがある。ゆうべ、王都で、ほかに二軒、押し込みがあった。どちらも、広場で光るかけらを拾った家だ。押し入ったのは、どちらも一人ずつ。かけらは、二軒とも持ち去られた」
「けがをした方は」
口が、先に聞いていた。
「一軒で、止めようとした下男が殴られた。命に別状はない」
息を、吐いた。
「無事だったのは、この家だけだ。狙われたのは、何だ」
部屋へ上がって、鏡台の引き出しを開けた。喉の奥が、小さく鳴った。広間でハンカチをほどくと、指の先ほどのかけらが、淡く光っていた。今朝も、ほんのり温かい。
「たぶん、これです。祝福式の日の昼すぎに、広場で拾いました」
「なぜ、すぐ騎士団に届けなかった」
確かめる声だった。
「広場で、灯火商会の方たちがかけらを袋に拾っていくのを、騎士の方々は、止めませんでした」
副団長の顎の傷が、ぴくりと動いた。
「あのとき止めなかったのは、私の落ち度だ」
「でも、あのとき『続けさせろ』と言ってくださったのも、副団長です」
かけらを、両手で差し出した。
「なので、騎士団に、ではなく、ブラント副団長に、お渡ししたいんです。届けるのが、遅くなりました」
副団長は、両手で受け取った。
「……承知した。私が、預かる」
声が、さっきより硬かった。
受け取りの書きつけを、その場で書いてくれた。一行で足りるはずなのに、三行になっていた。
足首の薔薇は、騎士の指ではほどけなくて、お母様がひと引きでほどいた。騎士たちが、三人を立たせて、連れていった。
明かりの男が、広間の出口で足を止めて、振り返った。
「……あんた。俺に、けが一つ、させなかったな」
少し迷ってから、言った。
「頼んできた奴は、石のほかに、もう一つ言ってた。やけに丁寧な声でな」
男は、その声をまねた。
「『狂犬が、どんな顔で起きてくるか、見てきてください』」
扉が、閉まった。
この家にだけ、三人。いちばん慣れた男がいた。
三人目は、石の係じゃなかった。私の係だった。




