第10話 元婚約者様、そちらは出口ではありません
公爵家のお茶会で、私の椅子だけ、卓から五歩離れていた。
広間のまんなかに、大きな卓が一つ。主催のほかに、令嬢が八人。扇子を並べて座っている。そこから、きっちり五歩。庭へのガラス戸の横に、椅子が一脚、ぽつんと置いてあった。
あれが、私の席らしい。
招待状が届いたのは、二日前だった。
うちに夜盗が三人入った件は、もう王都じゅうの噂になっていた。屋敷の中では「賊を食べずに、騎士団へお返しになった」だったのが、門の外へ出たとたん「狂犬令嬢、夜盗三人を素手で」になっていた。素手なのは、合ってる。
あの夜の男の言葉が、まだ耳に残っている。『狂犬が、どんな顔で起きてくるか、見てきてください』。
お茶会なら、顔は見放題だ。見世物として。
それを面白がったのが、社交界の女王、公爵令嬢のヘルミーネ様だった。
招待状の最後に、一行あった。
〔ヴェルナー様も、お見えになりますわ〕
どちら様だっけ、と一秒考えて、思い出した。レオポルト・ヴェルナー様。元婚約者だ。
「行ってらっしゃいな」
お母様は、にこにこしていた。
お茶会。今度こそ、普通のお茶会でありますように。この家の「お茶の時間」は、カップが顔に飛んでくる時間なので。
支度の朝から、アンナがおかしかった。
鼻歌を歌っている。日傘を、三回磨いた。三回目は、もう磨くところが残っていなかった。
四日前の夜、先輩が、アンナの名前を呼んだ。「わたくしのアンナ」と。あれから、アンナはずっと、地面から三センチくらい浮いている。
公爵家の玄関で、出迎えの侍女に、アンナは胸を張って名乗った。
「オディール様の、アンナでございます」
侍女、が抜けている。
隣で、ミレイユさんの手のひらの光が、ちかちかとまたたいた。切れる前の電球みたいな、不穏なまたたき方だった。
廊下を歩きながら、ミレイユさんが、私の袖をつまんだ。
「オディール様。わたくしも、一度でいいので、あのお声で……『わたくしの』と」
あのお声。先輩の声だ。
(言いませんわよ)
即答だった。
「……あの声は、出そうと思って出せるものじゃ、ないので」
「では、出そうと思わずに、出してくださいませ。わたくし、刃物くらいでしたら、いつでも向けられてまいりますので」
「やめてください」
光が、もう一段、不穏になった。
広間の卓の奥で、扇子の閉じる音がした。
濃い赤の髪を高く結い上げた令嬢が、扇子の先で、まっすぐ私を指していた。
「ようこそ、アイゼンハルトの狂犬さん。コルネリアが、どうしても五歩、と申しますの」
この人が、ヘルミーネ様だ。声が、広間の端まで、よく通る。
卓の端で、扇子の陰の青い顔が、小さくなった。あの人が、コルネリア様らしい。
「お招きいただき、恐れ入ります」
敬語が、硬くなった。社交界の女王は、職場でいうと、本社のいちばん偉い人だ。
五歩の椅子に座った。
怒る気には、ならなかった。広間の出口は、庭へのガラス戸と、廊下への扉の二つ。廊下の先が、玄関と厨房らしい。ガラス戸のすぐ横のこの椅子は、いちばん出口に近い。
いい席だ。
卓の上には、三段のお菓子の台。ホテルのアフタヌーンティーと、同じだ。お茶会の自信が、ほんの少し戻ってきた。
ミレイユさんの席は、卓のほうだった。椅子を持ち上げて、五歩こちらへ運ぼうとして、公爵家の侍女に止められていた。
アンナは、私の椅子の真後ろに立った。
「背中は、わたしの持ち場です」
誰も、そこを取ろうとしていない。
お茶が注がれて少しすると、ヘルミーネ様が、扇子の先でまた私を指した。
「竜の前に立ったとき、どんなお気持ちでしたの?」
卓の令嬢たちが、いっせいにこちらを見た。見世物の時間が始まったらしい。
でも、聞かれたことには、ちゃんと答える。
「広場に、人がたくさんいたので。まず、逃がさなきゃ、と思いました。竜のことは、そのあとで」
令嬢たちが、顔を見合わせた。
ちょうどいい。ほかの家の方に、ずっと聞いてみたいことがあった。
お母様のお茶の時間で、私は結論を出していた。お母様は、たぶん一級。この国の令嬢は、二級くらいなら、みんな淑女のたしなみを持っている。
「皆さんは、日傘で竜の炎って、何秒くらい受けられます? 私、たぶん、十秒は」
同業の人の集まりで、装備の話をするときの口調で聞いた。
卓が、静かになった。
カップを持つ手が、八つ、宙で止まった。
コルネリア様の扇子が、ぱたりと落ちた。
そこへ、紅茶を注いだカップを運んできた若い侍女が、絨毯の端につまずいた。
盆が傾いた。カップが四つ、宙に浮いた。
(来ますわ)
知ってる。
五歩を、一歩で詰めた。
傾いた盆を、左手で水平に戻した。落ちてくるカップを、右手で一つずつ受け皿へ。一つ、二つ、三つ。四つ目は、盆の上に。
紅茶の作法。一滴も、こぼれていない。誰にも、かかっていない。お母様のカップを受けたときと、同じ手つきだった。
盆を卓に置いてから、侍女の手を見た。
「熱いの、かかってませんか。足首、回してみてください」
侍女は、口を開けたまま足首を回した。痛くない、と言った。手の甲も、袖も、濡れていない。よし。
それから、振り返った。
卓の令嬢たちは、誰一人、動いていなかった。椅子の上で、扇子を持ったまま、固まっていた。
「……皆さんは、受けないんですか?」
「う、受けませんわ!」
コルネリア様が、裏返った声で言った。
「でも、お茶の時間に、カップが飛んできたら——」
「飛んできませんわ!」
八人の声が、そろった。
……え、うちだけ?
ヘルミーネ様が、扇子の陰で、ぷっと吹き出した。
椅子に戻ると、廊下の扉が開いた。
金髪をきれいに巻いた男の人が、いい角度で立っていた。
「やあ、オディール。先日は、楽しかったね」
ヴェルナー様だった。
楽しかった? うちの玄関で花瓶が割れて、この人が手を切った日だ。
ヴェルナー様の目は、私ではなく、令嬢たちのほうを見ていた。
「おや、オディールの席は、あちらか。……ああ、僕が言っておいたんだ。狂犬は、少し離しておくほうが、皆さんも安心だろうとね」
「わ、わたくしが、お願いしたのですけれど……」
コルネリア様の小さな声は、聞こえなかったらしい。
「和解したのでね。オディールのことは、僕がいちばんよく分かっている。皆さんに、ご心配をかけた」
和解。何か、争ってたっけ。
「どなたの言いつけでもありません。出口に近いので、いい席です」
令嬢たちが、扇子の陰で、くすりと笑った。
ヴェルナー様の笑顔は崩れなかった。カップを取った手だけが、細かく震えていた。
この人は、仲直りしたところを、見せに来たらしい。家の名前のために。
先輩は、何も言わなかった。もう、吠える理由のない人だ。
鼻の奥に、焦げくさい匂いが届いた。
廊下の扉の上のすきまから、灰色のものが、ゆっくり這い出してきた。
煙だ。
廊下の向こうで、誰かが叫んだ。厨房のほうだ。
立ち上がった。煙は、天井のほうを伝って流れこんでくる。低いところは、まだ見える。
「火事です。厨房から、煙が来ています」
お腹の底から、短く言った。
「落ち着いて、こちらへ。走らないでください」
令嬢たちが、いっせいに私を見た。今度は、見世物を見る顔ではなかった。
「廊下は使いません。このガラス戸から、庭の奥の噴水まで」
ガラス戸を、全部開け放った。
「アンナ、戸の外の脇に立って。出た方を、戻らせないで」
「はいっ」
「ミレイユさんは、噴水のところで、煙を吸った方を診てください」
「はい、オディール様」
さっきつまずいた侍女に、言った。
「庭から回って、鐘を鳴らして、人を呼んでください。厨房の方たちの数は、使用人をまとめる家令の方に」
侍女は、早足で庭を回っていった。
「ヘルミーネ様。お客様の数を、数えてください。主催の方が、いちばん正確です」
ヘルミーネ様は、一瞬だけ私を見て、扇子を閉じた。
「よろしくてよ」
令嬢たちが、ガラス戸へ流れていく。
その流れに、一人だけ逆らう背中があった。
ガラス戸の脇の私から、いちばん遠い、奥の扉。ヴェルナー様が、廊下の扉に手をかけていた。
「ヴェルナー家の嫡男が、庭から逃げられるか。僕は、正面から出る」
「ヴェルナー様、そちらは出口ではありません!」
聞こえていない顔だった。扉が開いて、巻いた金髪が、立ったまま煙の中へ歩いていった。
煙は、上にたまる。立ったまま入れば、顔から先に、煙の中だ。
開いたままの扉から、煙が広間へ流れこんできた。広間を横切って、扉を閉めた。
追いたい。でも、広間には、まだ令嬢たちが残っている。一人を追って、みんなを置いていく順番は、ない。
卓の下まで見て、誰もいないのを確かめてから、最後に私が出た。
噴水の前で、ヘルミーネ様が、扇子の先で一人ずつ指していた。
「九、十。お客様は、十一人のはずですわ。十人しか、おりません」
「ヴェルナー様です」
煙の中へ探しに入るのは、本当は消防の仕事だ。この世界に、消防はいない。だから、入れるかを先に見る。
「アンナ。廊下から、ヴェルナー様を連れて戻ってくる」
アンナの顔が、白くなった。
「私が戻らなくても、誰も中へ入れないで」
「かしこまりました」
アンナは、唇を噛んで、ガラス戸の脇に立った。
「戻っていらっしゃるまで、わたし、ここを動きません」
知ってる。そういう人だ。
噴水から、ミレイユさんが走ってきた。ガラス戸の外で止まって、手のひらを胸の前に掲げた。
廊下の扉の前で、足が止まった。
煙の匂いがした。
あの夜と、同じ匂いだった。
閉館したモール。非常階段。上から下りてくる煙。一つずつ数えた、踊り場の非常灯。
足が、前に出ない。
(……参りますわよ)
先輩の声が、すぐそばで言った。
いつもは、私が「待て」をかける側なのに。
……うん。
手の甲で、扉の上のほうに触れた。熱くない。細く開けた。煙は、天井の近く。床は、見える。
姿勢を、低くした。袖で、口と鼻を覆った。あの夜は、ハンカチをあの子に当てて、私は袖だった。今日も、袖だ。
中へ入って、後ろ手に扉を閉めた。左手を、壁に。歩数を、数える。帰り道を、体に入れておく。
廊下の右の奥、厨房の戸口で、料理人たちが水桶の水を、煙に向かってかけていた。かまどの火の粉が、薪と布巾に移ったらしい。
「煙じゃなくて、燃えている物に! 逃げ道を背にして! 天井に届いたら、逃げて!」
料理人たちに叫んで、私は左へ。玄関のほうへ、五歩。脇の通路の角を曲がって、三歩。
咳が聞こえた。
食料庫の前の、行き止まりだった。曲がる角を、一つ間違えたらしい。
ヴェルナー様が、しゃがみこんで、咳きこんでいた。
「ヴェルナー様。どうされましたか?」
「……出口が、ない」
「迎えに来ました」
ヴェルナー様は、立てなかった。膝が、言うことを聞かないらしい。
「袖で、口を押さえていてください」
後ろから脇の下に腕を入れて、片腕を両手でつかんだ。締めつけない。この腕で締めたら、肋骨が折れる。私の息は、浅く。低いまま、後ろへ引いた。壁を、肩でたどった。
数えた歩数を、逆に。三歩。角。五歩。
廊下の扉を開けると、広間の煙は、開け放ったガラス戸から抜けていた。
その向こうで、光が一つ、どんどん明るくなっていた。
ミレイユさんの手のひらだ。
出口の、誘導灯みたいだった。
扉を閉めてから、広間で、ヴェルナー様を横抱きにした。あの光のほうへ、歩いた。
昼の日ざしが、目に刺さった。
戸の脇で、アンナが、長い息を吐いた。
腕の中に、元婚約者。そのまま、噴水まで歩いた。扇子が、何本も芝に落ちた。
「と、殿方を、抱いて……信じられまして?」
コルネリア様の声が、裏返っていた。
この持ち方には、名前がある。お姫様抱っこ。言わないでほしい。
噴水の前の芝に、そっと下ろした。
「逃げ遅れ、一名。保護しました。食料庫の前で。意識、あります」
口が、勝手に言った。無線のくせだ。
あの夜の最後の無線と、同じ形だった。
でも今度は、自分の足で、外に出ている。膝も、床についていない。
「ミレイユさん、この方を、先に。煙を吸っています。足に力が入らないのも、煙のせいかもしれません」
ミレイユさんが、芝に膝をついて、ヴェルナー様の胸に手を当てた。癒やす相手を、選ばない人だ。
鼻の穴にも口もとにも、煤はついていない。声も、かすれていない。のどの奥までは、焼けていないらしい。
「頭は、痛みませんか」
「いや」
ヴェルナー家の従者に、今夜は一人にしないでください、と頼んだ。のどの腫れは、あとから来ることがある。
ヘルミーネ様が、もう一度、扇子で数えた。
「十一人。おりますわ」
厨房の火は、天井に届く前に、料理人たちが消し止めた。家令の人が、使用人も全員いる、と言いに来た。
ヴェルナー様が、咳の合間につぶやいた。
「……迎えに来るのは、僕のほうだったはずなんだが」
「はい? 逃げ遅れた方は、迎えに行くので」
ヴェルナー様は、何も言わなくなった。
手当てを終えたミレイユさんが、誰にともなく言った。
「……あの方は、本当に、誰も置いていかないのですね」
小さな声だった。誰もいない広場に一人で座っている夢を、見ていた人の声だった。
「ミレイユさん。光、見えてました。非常口みたいで、助かりました」
ミレイユさんの手のひらが、光った。診る光じゃないほうの色で、振り切れるくらいに。
「け、煙の中に、光の道が……奇跡……」
令嬢の誰かが、芝に膝をついた。
違います。たぶん、電源が私なだけです。
私も、煙を吸ったので、診てもらった。ミレイユさんの診察は、ヴェルナー様の三倍、長かった。
ヴェルナー様の息が落ち着くのを待ってから、ヘルミーネ様が、扇子の先を彼に向けた。
「ヴェルナー様。次にわたくしのお茶会においでになるときは、出口を、お一人で探せるようになってからにしてくださいませ」
令嬢たちの扇子が、いっせいに口もとへ上がった。
芝をつかむヴェルナー様の手が、白くなっていた。
ヘルミーネ様は、私に向き直った。
「あなた。わたくしのお客様を、一人も欠かさずに返しましたわね」
「皆さんが、走らずに動いてくださったので」
「次のお茶会も、いらっしゃい。席は、わたくしの隣に」
五歩が、ゼロになった。
戸の脇から背中の持ち場へ戻ってきたアンナが、小さな声で言った。
「お隣も、わたしの持ち場です」
ミレイユさんの光が、不穏にまたたいた。
同担が、また増えた。
◇
翌朝、王家の紋章の封蝋を押した封書が届いた。
お父様は、封蝋を見ただけで、カーテンの陰で固まった。お母様が封を切って、にこにこと言った。
「あさって、宮殿へ、ですって」
王様からの、呼び出し。……始末書、何枚分だろう。
受け取った封書の最後に、もう一行あった。
〔なお、灯火卿クレメンス・オーベルト侯爵も、ぜひ、お目にかかりたいと〕
灯火卿。広場の、あの光る石を贈った人だ。
喉の奥が、かすかに鳴りかけた。
(……この紙、あの石の匂いがいたしますわ)
王様の手紙なのに、最後の一行だけ、別の人の手紙みたいだった。




