第11話 王子様を、お客様と呼んでしまいました
始末書の書き出しを、三通り考えてきた。
一つ目は「このたびは」。二つ目は「竜の件につきましては」。三つ目は「あわせて、ベッドの柱の件も」。
王様からの呼び出しで、褒められると思う警備員はいない。
(書きませんわよ、そんなもの)
書くのは、私です。
宮殿へ向かう馬車の中で、お父様は、ずっと真っ青だった。眼鏡も、ずっとずれていた。息は、ちゃんとしている。三回、確かめた。
お母様は、にこにこしていた。
ミレイユさんは、聖女として、同じ謁見に呼ばれていた。私の隣で、手のひらを膝の上に重ねて、ときどき光らせていた。
アンナは、荷物を抱えて、向かいの席で背筋を伸ばしていた。
宮殿は、王都の北の丘の上にあった。
門をくぐって廊下に入ったとたん、首の後ろが、ざわざわした。
天井から、竜晶灯がずらりと下がっている。廊下の角ごとに一つ。広間の入口に、三つ。
(……この建物、あの石だらけですわ)
知ってる。
喉は、鳴らない。首の後ろだけが、ずっと遠くで、ざわついている。職場の空調の音だと思っておく。
ただ、建物の奥のほうに、ひときわ重いざわつきが一つあった。どこなのかは、分からない。
謁見の間の大きな扉の前で、アンナが足を止めた。侍女は、ここから先へは入れないらしい。
アンナは鞄から扇子を出して、私の腰に差した。
「淑女のたしなみですので」
鉄の扇子だ。誰にも止められずに、このまま玉座の前まで行けてしまう。この宮殿の持ち物の確かめ方は、あとで考えよう。
「扉の外も、わたしの持ち場です」
アンナは荷物を抱えて、扉の脇に立った。立ち方が、少しずつ様になってきている。
謁見の間は、広かった。映画館の、いちばん大きなスクリーンの部屋くらいある。
出口、扉が三つ。背中の大扉。玉座の左右の壁に、小扉が一つずつ。左の小扉の前には、衛兵。右の小扉の前には、誰もいない。取っ手の下に、大きな鍵穴だけ。つまみも、かんぬきもない。鍵がなければ、こちら側からは開かない。
使える出口は、二つ。
衛兵は、左右の壁に四人ずつ。両側に、宮廷の人たちがずらりと並んでいる。通路は、まんなかの一本だけ。
何か起きたら、詰まる。
扇子の陰で、ひそひそ声がした。
「狂犬よ」
「お茶会の火事で、元婚約者を抱いて煙から出てきたんですって」
「まあ。抱いて」
噂の向きが、少しずつ変わってきている。うれしくない向きに。
並んだ顔の中に、知っている顔がいくつかあった。
濃い赤の髪のヘルミーネ様が、扇子を小さく振った。味方の合図らしい。
顎に古い傷の、ブラント副団長。硬い顔で、一度だけ頭を下げた。
列の端で、巻いた金髪が、小さくなっていた。お茶会のあと、社交界でだいぶ笑われたらしい。
室内の敬礼は、相手が社長でも、十五度。王様の角度は、研修になかった。
玉座の前で、お母様が深く膝を折った。その背中を見たとたん、体が先に、同じ形で膝を折っていた。宮廷の礼は、この体のほうが知っている。
玉座の王様は、五十くらいの、がっしりした人だった。こちらを見る目が、帳簿の数字を読む人の目だった。
「アイゼンハルトの娘。竜を止め、ひとりの死者も出さなかったそうだな」
……あれ。
始末書の書き出しが、三通りとも、喉の奥へ引っこんだ。
叱られるんじゃ、なかった。
「どうやって、死者を出さなかった。短く申せ」
短く。それなら、得意だ。気がついたら、気をつけをしていた。
「人を二つの大通りに分けて、路地には入らないでいただきました。入口の脇には騎士の方に立っていただいて、倒れた方は、聖女様が来てくださるまで、騎士の方と交代で胸を押してつなぎました。以上です」
息を、一つ吸った。
「死者が出なかったのは、走らずに逃げてくださった皆さんと、立ってくださった騎士の方々と、戻してくださった聖女様のおかげです」
謁見の間が、どよめいた。
「狂犬が、手柄を人に」
「あんなに、短く」
王様の口もとが、ゆるんだ。
「短い。騎士団の報告書は、たいてい分厚い」
ブラント副団長が、列の中で、少し下を向いた。
「褒美を取らせよう」
「陛下」
列の前のほうから、大きな声がした。
白い髭の、大柄な男の人だった。胸に、騎士団の紋。ブラント副団長が、その人の一歩後ろに立っている。騎士団の、いちばん上の人だ。
「お言葉ですが、その娘は、婚約者の夜会でシャンデリアを落とした狂犬ですぞ。狂犬に褒美など、騎士団の面目が立ちませぬ」
竜を退けたのが、騎士団ではなく狂犬だった。騎士の長としては、飲みこめないのだろう。
ひそひそ声が、大きくなった。
言い返すことは、なかった。シャンデリアのことは、私も知らない。
後ろで、衣ずれの音がした。
お父様が、一歩、前に出ていた。
柱の陰じゃない。王様の前に。
眼鏡が、ずれていた。膝が、震えていた。顔が白い。額に、汗。
倒れる人の顔だ。私は、そっとお父様の斜め後ろへ寄った。
「お、お言葉ですが」
声も、震えていた。
「む、娘は……狂犬では、ございません」
謁見の間が、しんとした。
私の喉の奥で、小さな音がした。くう、と。唸りじゃない音だった。
この人は、私が来る前の娘のことも、そう思っていたんだろうか。
「わ、わたしの娘は、あの広場で人を逃がしたのです。竜の前で、ひとりも置いていかずに」
途中から、声が速くなった。書類の話をするときと、同じ速さだった。
お父様は、言い終えて、眼鏡を押し上げた。
そして、そのまま、後ろへ倒れた。
受け止めた。軽かった。書類しか持たない人の、軽さだった。
頭を腕で守りながら、床に寝かせた。肩を叩いた。
「お父様、聞こえますか」
答えは、ない。
「ミレイユさん、来てください」
胸と、お腹を見た。十を数えるあいだ、ちゃんと上下している。普段どおりの息だ。
ミレイユさんが、すぐ横に膝をついた。
「今、立ったまま気を失いました。息は普段どおり。受け止めたので、頭は打っていません」
張りつめていたものが、切れたのかもしれない。
胸の上下から、目を離さなかった。
お母様が、扇子の陰で、目を細めた。
「あの方の、ああいう顔も、昔から好きですのよ」
柱の陰で怯えていた顔じゃない。王様の前に立った顔だ。
お父様の目が、うっすら開いた。
「まだ、起きないでください。そのまま」
王様が、ゆっくり言った。
「狂犬かどうかは、わしが結果で決める。騎士団長。そなたの騎士も、入口に立ったそうではないか」
騎士団長は、髭を一度なでて、口を閉じた。
「改めて申せ、アイゼンハルトの娘。望みは何だ。宝石か、領地か」
宝石。領地。
持ち場の外の話だ。
お父様の横に膝をついたまま、答えた。
「では、あちらの右の扉の鍵を、開けておいていただけますか。扉の前には、左と同じように、衛兵の方を」
両側の列で、扇子が止まった。
「何か起きたとき、この部屋は、出口が足りません」
「宝石より、扉を?」
「狂犬が、出口を」
王様が、右の扉を見た。それから、私を見た。
「褒美に、扉か」
「はい。扉です」
王様が、声を出して笑った。
「よかろう。今日から、開けておけ」
「陛下。宮殿の扉は、騎士団がお預かりしております」
「ならば、ゴットハルト。右の扉には、そなたの騎士を立てよ」
騎士団長は、長い息を吐いて、頭を下げた。
「……御意」
列の中で、ヘルミーネ様が、扇子の陰で笑いをこらえていた。
お父様が、ミレイユさんに支えられて、床に身を起こした。
玉座の脇から、若い男の人が降りてきた。栗色の髪に、灰色の目。口もとが、半分だけ笑っている。
「第二王子の、フロリアン殿下ですわ」
お母様が、扇子の陰で教えてくれた。
殿下は、まずお父様の前に膝をついた。
「伯爵。見事な一言だった」
お父様の眼鏡が、またずれた。
それから殿下は、私のほうを向いた。
「やあ、狂犬殿。噂よりずっと美しい」
口が、勝手に動いた。三年ぶんの、お客様への言葉づかいの研修が、動かした。
「恐れ入ります、お客様」
謁見の間が、凍った。
……今、王子様を、お客様って言った。
殿下は、灰色の目を丸くした。それから、肩を震わせて、吹き出した。
「お客様、か。……いいね。初めて呼ばれた」
「し、失礼いたしました、殿下。身に余る……いえ、恐縮でございます」
敬語が、どんどん硬くなる。大学生くらいの、育ちのいいお客様。私の中で、もう、そういう札がついてしまった。
隣で、ミレイユさんが小さく言った。
「……わたくしは、まだ一度も、お客様と呼ばれておりません」
そこは、うらやましがるところじゃない。
お父様が、小さな声で聞いた。
「わ、わたしは……何か、言ったかね」
お母様が、にこにこと答えた。
「ええ。とても、よいことを」
◇
謁見が終わって、回廊に出た。
扉の外で待っていたアンナに、ミレイユさんが小声で何か言った。アンナの顔が、すっと冷えた。
「……殿下も、ですか」
何が「も」なのかは、聞かないことにする。
お父様は、お母様の腕につかまって、自分の足で歩いていた。
「お父様。さっきは、ありがとうございました」
二人分のつもりで、言った。
お父様の眼鏡が、ずれた。
「あ、あ、ありが……」
そこで、止まった。
「最後まで言えるのは、寝ているときだけですのよ」
お母様が、楽しそうに言った。書庫で聞いた寝言を、お母様も知っているらしい。お父様は、耳まで赤くなった。
二人を壁ぎわにして、私は回廊の通路側を歩いた。
向こうから、白い髭の大きな体が、騎士を二人連れて歩いてきた。騎士団長だ。広い回廊なのに、道をゆずらずに、まっすぐ歩いてくる。狂犬に道をゆずる騎士はいない、という歩き方だった。よければ、お父様に当たる。すれ違いざま、鎧の肩と、私の肩が当たった。
私は、揺れなかった。
騎士団長のほうが、半歩、よろけた。
「失礼しました。お怪我は、ありませんか」
よろけた足もとを見た。ひねってはいない。
後ろの騎士たちが、固まった。騎士団長は、私の顔をにらんで、髭の奥で「……狂犬め」とつぶやいて、行ってしまった。
ぶつかられた側が、怪我を聞く。たぶん、いちばん腹の立つ返し方をしてしまった。
「アイゼンハルト嬢」
柔らかい声に、呼び止められた。
銀の混じった髪の、穏やかな顔の男の人だった。
「クレメンス・オーベルトと申します。お目にかかりたかった」
灯火卿だ。広場の光る石を贈った人。灯火商会の、いちばん上の人だろう。
その人は、手を差し出した。淑女の手を取って礼をする、宮廷の作法らしい。その指に、小さな指輪。淡く光る石が、はまっていた。
喉が、鳴りかけた。
宮殿じゅうの、遠いざわつきとは違った。すぐそこだ。首の後ろが、粟立った。
(……その指ですわ)
封書から匂ったのも、たぶん、この指だ。
分かってる。ここで鳴ったら、狂犬の噂が、一つ増える。
それに、この手に手を預けたら、たぶん、この体はお手の作法をやる。侯爵の手首を、返してしまう。
手を出すかわりに、腰の扇子を抜いて、ぱちんと開いた。鍋の蓋みたいな、鉄の音がした。その音が、喉の奥の音を、一瞬かき消した。扇子の陰で、喉を押さえた。
扇子で口もとを隠すのは、淑女のたしなみらしい。こういうときのためにあるとは、知らなかった。
隣で、お母様の扇子が、ほんの少しだけ閉じた。
灯火卿は、私の扇子に、目を細めた。
「お母上に、よく似ておいでだ」
「恐れ入ります」
扇子を下ろさずに言った。
灯火卿は、穏やかに笑った。
「夜は、よく眠れておいでですか。物騒な夜があったと、伺いました」
喉が、もう一度鳴りかけた。
「おかげさまで。……どなたから、お聞きに?」
「王都の噂は、灯りより早く広まりますので」
柔らかく、かわされた。
丁寧な声だった。
どこかで、聞いた気がした。
聞いたことは、ない。私が聞いたのは、あの夜の男が、真似をした声だ。
『狂犬が、どんな顔で起きてくるか、見てきてください』
似ている。
腕に、鳥肌が立った。先輩のしるしじゃない。私のだ。
でも、似ている、だけだ。それだけでは、何も報告できない。
灯火卿は、もう一度礼をして、回廊を歩いていった。指輪の光が角を曲がると、喉が、静かになった。
「さっきの続きだ、お客様」
後ろから、軽い声がした。殿下だった。
「いや、アイゼンハルト嬢。頼みがある」
殿下の口もとから、半分の笑いが消えていた。
「ひと月後に、夜会がある。竜晶灯の大シャンデリアの完成を祝う夜会だ。灯火卿の寄進でね。その夜会の警備を、君に手伝ってほしい。陛下と、客を守ってほしいんだ。父上には、話を通してある」
「……専門外なんですけど」
建物なら、私の持ち場だ。でも、王様のそばについて守る警護は、区分が違う。
「知ってる」
殿下は、また半分だけ笑った。
「だから、頼むんだ。褒美に扉を選んだ人に、夜会の扉を任せたい」
持ち場が、宮殿まで広がろうとしている。定時は、あるんだろうか。
建物の奥の、あの重いざわつきが、少し近くなった気がした。たぶん、あれが大シャンデリアだ。
(……あれは、嫌いですわ)
先輩が、はっきり言った。
ひと月後、私が立つのは、あの真下だ。
……異常なし、とは、まだ言えない。




