第12話 宮殿の非常口を数えたら、ゼロだった
「この広間には、扉が十二ある」
騎士団長が、王国一の大広間の真ん中で、胸を張った。
なので、数えた。非常口は、ゼロだった。
夜会の下見だった。
謁見の日に殿下から頼まれた、夜会の警備。宮殿の案内には、騎士団長がついた。殿下の頼みなので、断れなかったらしい。顔に、そう書いてあった。
騎士団長の後ろに、騎士が四人と、ブラント副団長。私の後ろには、帳面を抱えたアンナ。見たものを書く係だ。本人の希望で、隊員の仕事になった。
ミレイユさんは、聖堂のお務めで来られなかった。来られないと分かってから、朝ごはんのあいだじゅう、手のひらが不穏にまたたいていた。
中庭の向こうの見張りの塔から、見覚えのある寝ぐせが手を振った。
「師匠ーっ!」
塔のてっぺんから降ってきても、音量のつまみは壊れたままだった。
祝福式の竜のあと、宮殿の塔に見張りが置かれた。竜を見たら、休まず打ち続ける早鐘で知らせる。今日は、あの子の番らしい。
手を振らないで。見張りは、空を見ていて。
騎士団長は、塔を一度にらんでから、私を見下ろした。
「狂犬に、宮殿の警備が分かるか」
分かるかどうかは、まだ分からない。でも、出口なら数えられる。
大広間は、モールの催事場がまるごと入りそうな広さだった。
片側の壁は、一面の鏡。反対側には、背の高いガラス戸がずらりと並んで、その向こうにテラスと庭。
夜会まで、ひと月足らず。広間には、働く人が百人近くいた。楽師が同じ曲を何度もさらい、給仕の稽古の人たちが盆を持って歩き方を習い、大工が脚立の上で金具を打ち、侍女たちが床を磨いている。
天井の真ん中に、大きな灯りが吊ってあった。
光る石を、何十も抱いている。昼なのに、内側から光っていた。
首の後ろが、ぜんぶ逆立った。喉の奥が、鳴りかける。
(……近くで見ると、もっと嫌いですわ)
知ってる。今日は、我慢して。
腰の扇子を抜いて、ぱちんと開いた。鉄の音が、喉の音をかき消した。灯火卿の前で覚えた手だ。
騎士団長が、音のほうへ振り向いた。
「……その扇子。鉄か」
「はい」
「門の騎士は、調べなかったのか」
「はい。おとといは侍女の鞄の中で、今日はここに下げて。どちらも、どなたにも止められませんでした」
少し考えて、閉じた日傘を持ち上げて見せた。
「それから、日傘も、骨は鉄です」
騎士団長の顔が、髭の上まで赤くなった。後ろの騎士に、低い声で言った。
「門の者に、伝えておけ」
宮殿の門は、明日から少し通りにくくなる。
騎士団長が、扉を一つずつ指していった。
「正面の大扉。テラスのガラス戸が六枚。鏡の扉が二枚。給仕の扉が二枚。奥の扉が一枚。しめて十二。この広間が、十二の扉の間と呼ばれるゆえんよ」
指の差し方が、指差し確認より、ずっと偉そうだった。
一枚ずつ、確かめた。
正面の大扉は、私たちが入ったあと、外の衛兵が閉めた。開けたままにしない決まりらしい。開く向きを見た。内開きだ。部屋の内側へ引いて開ける扉は、人が押し寄せると、前の人の体で押さえられて、誰にも引けなくなる。
テラスのガラス戸の前で、騎士団長が言った。
「夜会の夜は、外から錠をおろす。賊は、一人も入れん」
中からも、一人も出られない。
鏡の扉は、扉の形をした鏡だった。左右をそろえるための飾りだ。開けようとして、鏡の中の私と目が合った。会釈しかけた。扉の形の鏡は、ないより悪い。逃げる人は、扉の形のほうへ走る。
給仕の扉は、二枚とも、配膳室から細い廊下一本で厨房へ続いていた。火が出るなら、たいてい厨房だ。公爵家のお茶会でも、そうだった。火のほうへ逃げる非常口は、ない。
奥の扉は、錆びたかんぬきで閉じてあった。
「わしが団長になってから、開けたことはない」
非常口。入ってきた扉が使えなくなったときの、もう一つの逃げ道だ。
十二枚のうち、それに数えられる扉は、一枚もなかった。
脱出ゲームなら、誰も出られない部屋だ。
「非常口など、要らん」
騎士団長は、鼻で笑った。
「何か起これば、騎士が駆けつける。塔の見張りが早鐘を打てば、宮殿の騎士は、この広間に集まる手はずだ。宮殿でいちばん広い。陣が組める」
戦う人の理屈としては、筋が通っている。
「集まる騎士の方は、どの扉から入られますか」
「正面からに決まっておる」
「出ていく人も、正面からです」
「出ていく者など、おらん。騎士が守る」
広間の百人は、その「守る」の中に、入っているんだろうか。
◇
奥の扉の前に立った。
古い木の扉に、鉄のかんぬきが一本。金具ごと、錆で赤茶けて固まっている。
「賊の通り道になる扉は、少ないほどいい」
騎士団長が、後ろから言った。
「そのかんぬきは、そこの四人がかりでも動かなんだ。開けられるものなら、開けてみろ」
見張る扉は、少ないほうが楽だ。ただ、出口も一つ減る。
「開けても、よろしいですか」
「……やってみろ」
(わたくしの腕ですわよ)
はい。お借りします。
かんぬきを、右手で握った。モールの防火扉より、重い。
手首に、少しだけ力を入れた。
錆が、ぎい、と鳴いた。かんぬきが、金具の中をすべった。
扉を押すと、ちょうつがいが長い悲鳴をあげて、向こう側へ開いた。
外開きだった。
人が押し寄せても、その力で開く扉。押せば、開く。この広間で、初めて会えた。ちょっと、推せる。
扉の先は、ほこりをかぶった細い通路だった。古い使用人の通り道だ。奥のほうに、宮殿の回廊の明かりが見える。
振り返ると、後ろの騎士たちが、四人そろって、自分の手を見ていた。
騎士団長は、しばらく黙っていた。それから、低く言った。
「……賊の入り口も、一つ増えたな」
「はい。なので——」
鐘が鳴った。
時を打つ鐘じゃなかった。せわしなく、途切れずに、上から叩きつけるような鳴り方だった。早鐘だ。
「竜だ!」
誰かが叫んだ。
広間が、いっせいに動いた。
楽師が楽器を抱え、侍女が雑巾を放り出し、給仕の盆が床に跳ねた。百人近くが、正面の大扉へ走った。外の衛兵が閉めた、内開きの扉へ。
テラスへ走る人は、いなかった。竜は、空から来る。それに、人は逃げるとき、入ってきた扉へ戻ろうとする。
騎士団長が、四人を連れて、広間の真ん中へ駆けていった。廊下からも、鎧の足音。手はずどおり、騎士がこの広間に集まってくる。
出ていく人と、入ってくる人。扉は、一つ。
先輩は、唸っていない。でも、竜が遠いだけかもしれない。だから、本物として動く。
それより、今いちばん危ないのは、竜じゃない。あの扉の前だ。
竜なら、窓から離れて、厚い壁の内側へ。
私は、奥の扉の前にいた。いちばん後ろの人たちの、いちばん近く。
息を、お腹の底まで吸った。
「止まって! 押さないで!」
声が、広間の端まで届いた。
「後ろの方は、落ち着いて、こちらへ! 走らないでください! ここからも、出られます!」
いちばん後ろの何人かが振り向いて、開いたばかりの扉を見た。早足で、こちらへ来た。
通路の奥に、回廊の明かりが見えている。行き止まりじゃない。
「ブラント副団長、この通路の先を、お願いします! 回廊に出たら、窓から離れて!」
「承知した」
副団長が、先に通路へ入った。
「アンナ、扉の脇に。出た人を、戻らせないで」
「はいっ」
後ろの流れが、向きを変えた。
その流れの中で、先輩が言った。
(……あの方だけ、怯えた匂いがいたしませんわ)
給仕の稽古の服を着た、男の人だった。
体は、ほかの人と一緒に急いでいる。でも、目だけは、少しも急いでいなかった。正面の大扉。テラスのガラス戸。それから、この扉。順番に、一枚ずつ。
開いたばかりの扉のところで、その目が、止まった。
男の人は、そのまま通路へ入っていった。
あとで。今は、人が先。
壁ぎわを、走った。
正面の大扉の前に、人が固まっていた。前の人が、扉に押しつけられている。後ろからは、まだ押されている。
扉と人のあいだに、若い侍女がいた。頬が扉の板に押しつけられて、顔が赤黒い。口は開いているのに、声が出ていない。
胸を押されると、人は息が吸えない。
(扉の前の子、息が)
分かってる。
扉に背中をつけて、侍女の横に体を入れた。
閉じた日傘の真ん中を右手で握って、横にした。侍女のすぐ後ろの、二人の肩に当てた。胸には当てない。
押し戻さない。これ以上、押させない。
「後ろの方から、一歩ずつ、さがってください」
何十人ぶんの重さが、日傘一本に来た。腕は、下がらなかった。
日傘の向こうの二人の顔を見た。息は、できている。
後ろから、少しずつ重さが抜けていった。扉と侍女のあいだに、隙間ができた。侍女が、大きく息を吸った。
そのとき、背中の扉が、外から押された。
集まってきた騎士たちだ。内開きの扉が、侍女のほうへ開きかけた。
かかとで、扉を止めた。
片手に日傘。かかとに扉。
入ってくる騎士を止められるのは、騎士団長だけだ。広間の真ん中で、騎士団長が「騎士を通せ、道を開けろ」と叫んでいた。そちらへ、声を張った。
「騎士団長! 外の騎士の方を、止めてください! 騎士団長のお声でしか、止まりません!」
騎士団長が、こちらを見た。
私を見て、扉に押しつけられていた侍女の顔を見た。
一拍。
「止まれぇっ! 入るなっ!」
広間じゅうのガラス戸が鳴るような声だった。背中の扉の向こうで、足音が、ぴたりと止まった。
「扉を開けます。外の方は、脇へ。中の方は、順番に。前の人の背中を、押さないで」
侍女の肩を抱いて扉の脇へよけ、扉の幅ぶん前を空けてから、内側へ引いた。板の下のほうに、かかとの形のへこみが一つ、できていた。
駆け寄ってきた四人の騎士が、開け切った扉を内側から押さえながら、それを見た。それから、もう一度、自分の手を見た。
人が、回廊へ流れていく。順番に。誰も、転ばなかった。
……宮殿の扉。始末書、何枚分だろう。
回廊で、働く人たちがささやいていた。
「狂犬様、鐘の鳴る前に、開かずの扉を開けておられたわ」
「竜が来るのが、お分かりだったのよ」
点検の順番が、たまたま最後だっただけです。
侍女は、回廊の壁ぎわに座らせた。そばに、仲間の侍女を一人。
最後に、広間の中を見て回った。楽師のいた隅。脚立の裏。カーテンの中。誰も、いない。
回廊に戻って、侍女の前にしゃがんだ。
「まだ、立たないでください。息を吸うと、胸が痛みますか」
侍女は、首を横に振った。
「頭は、ぼんやりしませんか」
「……だ、大丈夫です」
頬に、扉の板の跡が赤く残っていた。侍女の指が、私の袖をつかんで、離れなかった。
その指を見ていて、気づいた。手が震えていた。私の手だった。
怖かった。竜の前より、ずっと。
人は、押されて死ぬ。竜も、火も、なくても。
◇
鐘が、止まった。
回廊の向こうから、騎士が一人、走ってきた。
「誤報だ! 竜ではない! 裏の森の大鷲が、塔のすぐ上をかすめた!」
回廊に集まった人たちから、長い息がもれた。奥の通路を抜けた人たちも、副団長に連れられて、回廊を回ってきた。
侍女は、まだ私の袖をつかんでいた。本人が大丈夫と言っても、治癒術士に診てもらう。指を一本ずつほどいて、侍従の人に頼んだ。
入れ違いに、寝ぐせの頭が駆けこんできた。顔が、真っ青だった。
「じ、自分が、鳴らしましたっ!」
フリッツくんだった。
「北の空から、大きな翼の影が来て……竜だと、思って……」
騎士団長が、ゆっくり振り向いた。
「見習いが、宮殿じゅうを騒がせおって。厩の掃除、ひと月だ!」
フリッツくんの肩が、すとんと落ちた。
祝福式の広場で、竜の尾に剣ごと飛ばされた子だ。北から大きな翼の影が来たら、鳴らさないほうが難しい。
ここは、引けない。
騎士団長とフリッツくんのあいだに、立った。
「フリッツくん。鳴らしてくれて、ありがとう」
フリッツくんが、顔を上げた。
一年目の夏、私も空振りをした。
フードコートの換気口から白いものが出ているのを見て、防災センターに無線を入れた。白い煙のようなもの。火災の疑い。確認に向かいます。
湯気だった。厨房の感知器は、湯気で鳴らないように、熱で鳴る型だ。鳴ったのは、私だった。
防災センターに戻る途中、顔から湯気が出そうだった。
定年まぎわの隊長は、お茶をいれながら言った。
「よく知らせた。外れて、よかったな」
疑いがあれば、知らせる。外れていても、知らせる。隊長は、知らせた人を、ちゃんと褒める人だった。
「空振りは、怒らないでください」
騎士団長に、言った。
「怒られた人は、次に影を見たとき、鳴らすか迷います。迷ったぶんだけ、遅れます」
「誤報だぞ」
「はい。誤報で、よかったです」
開いたままの大扉の向こうの、からっぽの広間を見た。
「それに、人が押されたのは、鐘のせいじゃありません。あの広間に、みんなが知っている出口が、一つしかなかったからです」
回廊が、静かになった。
騎士団長は、何も言わなかった。からっぽの広間を、長いこと見ていた。
「……鐘のことは、不問とする」
フリッツくんが、息をのんだ。
「だが、見張りの最中に、塔の上から大声を出して手を振ったぶん、厩の掃除、三日だ」
……それは、怒られていいやつだ。
フリッツくんの目に、みるみる涙がたまった。
「し、師匠……!」
「師匠じゃないです」
(……あの子、よく吠えましたわね)
先輩が、あの子を褒めた。邪魔って、言ってたのに。
騎士団長が、私を見下ろした。
「狂犬。夜会の当日、お前は壁ぎわに立っていろ。騎士の前には、出るな」
「承知しました」
壁ぎわ。扉も、窓も、人の流れも、全部が見える場所だ。
顔に出たらしい。騎士団長の髭が、ひくりと動いた。
「……なぜ、うれしそうな顔をする」
「壁ぎわは、広間がいちばんよく見えるので」
「……狂犬め」
背中を向けて、去りぎわに、後ろの騎士へ言った。
「奥の扉のかんぬきに、油を差しておけ。侍女の細腕でも、片手で外せるようにな。扉の脇に、騎士を一人立てる」
……言おうとしたこと、だいたい、言われた。
言われなかったのは、一つだけ。あの扉があることを、みんなに知らせること。
アンナが、帳面を胸に抱いて、横に来た。
「お嬢様に、扉を任されました」
目が、きらきらしていた。
「帰ったら、いちばんに、ミレイユ様にお話しいたします」
張り合わないで。
回廊の端で、宮殿の侍従が、働く人たちの数を数えていた。数は、合っていた。
給仕の稽古の列の中に、あの男の人がいた。
ほかの人と同じように、青い顔をしていた。さっきの目は、もう、どこにもなかった。
「ブラント副団長」
小さな声で呼んだ。
「さっき、急ぎながら、扉を順番に見ていた方がいました。今、給仕の列の、前から三番目です」
見たことだけを、言った。
副団長は、列のほうを見ないまま、うなずいた。
「……名を、確かめておく」
列の三番目の男の人が、こちらに気づいた。
頭を、下げた。
十五度。
分度器の目が、勝手に測った。お客様に下げるお辞儀じゃない。同じ職場の人と、廊下ですれ違うときの角度だ。
あの広間で、扉を数えていたのは、私だけじゃなかった。




