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第8話 元婚約者様、来訪者名簿にご記入ください

 元婚約者が来た日、うちの門は、花で開かなかった。


 裏門の傷の届け出は、フリッツくんが騎士団まで走って、ライナルト・ブラント副団長に手渡してくれた。広場で「続けさせろ」と言った、あの人だ。塀の外の明かりのことも、お父様に話しておいた。明かりは、あれきり来ていない。


 六日目の昼すぎのことだった。

 門番が、呼びに来た。顔色は、青くなかった。困った顔だった。新しい困り方だ。

「お嬢様、門が……開きません」

 行ってみると、門の外に、花の桶がびっしり並んでいた。白と、赤。白と、赤。門に立てかけるように積まれて、格子のすきまから、薔薇がはみ出している。

「開けると、花が倒れます……」

 裏門は、騎士団が見に来るまで、誰も触らないようにしてある。表門までふさがったら、ふだん使える出口がない。いざとなれば、裏門でも開けるけど。人が先だ。

 通路に、物を置かない。いざというとき、逃げる人の邪魔になる。甲冑でも、花でも、同じだ。

 ライブ会場のロビーに、ファンから届いたお祝いの花が、ずらっと並ぶことがある。あれを一人で全部出した人を、私は初めて見た。


 花の向こうに、馬車が一台止まっていた。金の飾り。昼なのに、馬車の灯りが、内側から淡く光っている。

 首の後ろが、ちりっとした。

 ここにも、あの石。

 でも、よそのお屋敷には、どこにでもある石だ。持っているだけでは、手がかりにならない。覚えては、おく。

 花の桶をかき分けて、金髪の男の人が現れた。いい角度で立った。誰かに見られている前提の立ち方だった。

「迎えに来てやったよ、オディール」

 どちら様だろう。

 広場では、竜と、聖女様と、出口しか見ていなかった。記憶の引き出しを開けても、この人の紙が一枚も出てこない。

(どうでもいい方ですわ)

 知ってる。それ、前にも聞いた。

「どちら様でしょうか」

 男の人の巻き髪が、ぴたりと止まった。

「……僕だよ。レオポルトだ」

 あ。元婚約者だ。顔を覚える前に婚約を破棄されて、覚える前に、竜の前から逃げていった人。

「失礼しました。お花、通り道から寄せてもいいですか」

「もちろんだ。全部、君のためのものだからね」

 置いた人に断ってから、動かす。門を少しだけ開けると、桶が倒れかかってきた。片手で受けて、もう片手で次のを受けた。そのすきに、アンナが使用人を三人呼んで、門の外の塀ぎわへ、一つずつ並べ直してくれた。門の前に、通路が一本できた。


  ◇


 玄関の広間で、来訪者の受付をした。

 屋敷の中に通すなら、名前と用件は聞いておく。モールでも、通用口ではそうしていた。

 受付の卓には、角のそろった帳面が一冊、置いてあった。表紙に〔来訪者名簿〕。裏門の件のあと、お父様に頼んで作ってもらったものだ。

 柱の陰で、お父様の眼鏡がこくりとうなずいた。通してよい、の合図だ。

「ご用件と、お名前を、こちらにご記入ください」

「……僕に、名前を書かせるのか」

「はい。皆さまに、お願いしています」

 元婚約者は、ペンを取った。

 名前が、枠からはみ出した。上にも、下にも、はみ出した。字の最後が、くるんと巻いていた。髪と、同じ巻き方だった。

「レオ……ポルト様。ヴェルナー様ですね」

「そうだ」

「ご用件の欄が、『愛』になっていますが」

「フッ」

 ご用件は、なるべく具体的に。受付では、そうお願いしている。

「……ご面会、でよろしいですか」

「……まあ、そうだ」

 「愛」の横に、小さく「面会」と控えた。


「これだけは、手渡しで」

 ヴェルナー様は、白い薔薇を一本挿した陶器の花瓶を、胸に抱えていた。

 薄い。釉薬が、なめらか。陶芸教室二年の目で見ても、いい器だった。割れたら、泣くやつだ。

「門の前の花も、全部、君にだ。王都じゅうの白と赤を集めた。君の好きな色が、どちらか分からなかったからね」

 婚約者だった人の好きな色を、知らない人だった。

(わたくし、緑が好きですわ)

 気が合いますね。誘導灯の色だ。

(……一度も、聞かれませんでしたわ)

 好きな色も。たぶん、それ以外のことも。


「お花は、お預かりして、お帰りの際に、お返しします」

 自分の声が、思ったより平らだった。

「持ち主は、僕だ!」

「はい。ですので、お帰りの際に」

「……いや、違う。君にあげるんだ」

「はい。ですので、お帰りの際に」

 受け取るかどうかは、宛先の私が決める。警備員の私は、お帰りまで預かるだけ。

 ヴェルナー様は、少し黙った。それから、ふっと笑った。

「なるほど。簡単には受け取らない、か。……君らしい」

 何が私らしいのか、私には分からない。私は、着任して、まだ六日目だ。

「君の気持ちは、分かっているよ、オディール」

 さっきより、首の角度が五度深かった。たぶん、鏡の前で練習した角度だ。分度器の目が、勝手に測った。

「私の気持ちは、私もまだ、よく分かっていません」

 本当のことだ。自分の気持ちの点検までは、まだ手が回っていない。

「照れなくていい」

 照れていない。

(噛みませんわよ、こんな方)

 噛まなくていいです。


 階段の上で、衣ずれの音がした。

 ミレイユさんが、手すりに手をかけて、静かに下りてくるところだった。

「ミ、ミレイユ嬢……! なぜ、君がここに」

「オディール様の、おそばにおりますので」

 穏やかな声だった。それ以上は、何も言わなかった。元婚約者のほうを、ほとんど見てもいなかった。

 本人を前にして、この温度。強い。

 ヴェルナー様の目が、私とミレイユさんのあいだを、二往復した。

「……そうか。僕を巡って、二人が」

 巡っていない。

 アンナが、お出かけ道具の鞄を抱えて、私の斜め後ろに立った。隊員の位置だった。教えていないのに。


 花瓶を受け取ろうと、手を出した。

 その手首を、つかまれた。

「あの夜会で君が暴れたのは、僕がミレイユ嬢との婚約を告げたからだろう? 嫉妬だ。分かっているよ。……許してあげよう。だから、戻っておいで」

 振りほどいたら、この体だと、相手の指が折れる。抜くなら、相手の親指のほうへ——

 喉は、鳴らなかった。首の後ろも、静かだった。

 かわりに、体の奥から、何かが上がってきた。

 口が、勝手に開いた。

「お引き取りくださいませ。わたくし、もう、あなたに吠える理由がございませんの」

 私の声じゃなかった。

 この体の声で、私より低くて、きれいで、静かだった。怒ってはいなかった。お別れを言う声だった。

 手首の指が、ゆっくりほどけた。

 ……今の、私の口だった。

 ヴェルナー様の顔から、得意そうな色が、すっと抜けていった。

「……その声だ」

 かすれた声だった。

「あの夜。シャンデリアの下で、君は、その声で何か言いかけた」

 ヴェルナー様は、自分の手を見た。

「……僕は、聞かなかった」

 一歩、後ずさった。

 胸に抱えていた花瓶が、腕からすべった。

 いつもなら、受けられた。体が、まだ固まっていた。

 床で、割れた。

 白い薔薇が、かけらの上に倒れた。ヴェルナー様は、とっさに膝をついて、素手でかけらを拾おうとした。

「触らないで——」

 間に合わなかった。手のひらに、血がにじんだ。

 先輩の声のことは、あとで考える。けが人が先。

「そのまま、動かないでください。アンナ、布で、足もとのかけらを寄せて」

 アンナが、床のかけらを手早く集めた。片づいた床に、しゃがんだ。

「手を、見せてください」

 切り傷が一本。かけらは、刺さっていない。

 花瓶の水は、きれいじゃない。アンナが厨房から運んできた水差しの水で傷を流して、たたんだ布を当てた。血に、素手では触らない。

「ご自分で、強く押さえていてください。血がにじんでも、布は替えないで、上に重ねます。ほかに、痛いところは」

「……ない」

 ヴェルナー様は、言われたとおりに押さえた。それから、小さな声で言った。

「……どうして、僕なんかを」

「けが人なので」


 ミレイユさんが、そっと膝をついた。

「わたくしが」

 布の上から、白い手のひらを重ねた。淡い光が、にじんだ。私のことを考えて光るときとは、少し色が違った。こっちが、本職の光だ。

 十を数えるくらいのあいだ、光はそこにとどまっていた。

 布をめくると、傷は、ふさがっていた。

「……君は。僕を」

 ヴェルナー様は、そこで言葉を切った。竜の前で、ミレイユさんを置いていったのは、この人だ。

「癒やす相手を、選びませんので」

 ミレイユさんは、それだけ言って、立ち上がった。

 ヴェルナー様に手の血を流してもらってから、私も手を洗った。血に触っていなくても、手当てのあとは洗う。


 ヴェルナー様は、来訪者名簿の、自分の大きな名前を一度だけ見た。

 それから、何も言わずに帰っていった。「フッ」も、言わなかった。

 名簿に、帰った時刻を控えた。

 花は、持って帰るのを忘れていった。

 門まで追いかけて、「お花を」と声をかけると、馬車の窓の向こうで、小さな声がした。

「……飾っておいてくれ」

 窓のふちを、さっき手当てした手が、白くなるほどつかんでいた。

 この人の小さな声を、初めて聞いた。

 受け取るかどうかは、宛先の私が決める。花に、罪はない。

 振り返ると、アンナが門の内側に立っていた。目が、まんまるだった。

「……お嬢様が、ご自分のお気持ちを、あんなふうにお声にされるの」アンナは、ほとんど息だけで言った。「わたし、六年お仕えして、初めて聞きました。この何年も、お嬢様は、唸るか、黙っておられるか、どちらかでしたから」

 アンナは、前掛けで目を押さえた。声は、出なかった。いつもの泣き方じゃなかった。

 何も、答えられなかった。


  ◇


 夕方、部屋で一人になった。

 屋敷じゅうの花瓶が、白と赤で埋まっていた。廊下まで、花の匂いがした。

 緑は、一本もなかった。

 白い薔薇から、葉を一枚だけ取った。枕もとの小さな器に水を張って、挿した。

「先輩」

 呼んでみた。

「今の、先輩ですよね」

 答えは、なかった。

 頭の中では、短いけれど、よくしゃべる人だ。それなのに、外に向かっては、何年も黙っていたらしい。

 あの夜会で何があったのか、私は知らない。

 でも、今日、ひとつだけ分かった。

 この体の持ち主は、ずっと、話を聞いてもらえなかった。好きな色も。あの夜、何を言いかけたのかも。

 目の奥が、熱くなった。

 頬を、涙が一つ、落ちていった。

 泣いているのは、私じゃなかった。

(……見ないでくださいませ)

 目を閉じた。

「……見てません。異常なし、です」

 目を閉じたまま、言った。

「話したくなったら、聞きます。いつでも」

 しばらくして、喉の奥で、ふん、と小さな音がした。

(……考えておきますわ)


 翌日の夜、先輩は、私より先に目を覚ました。

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