第6話 聖女様が、帰ってくれない
「ご用件と、お名前を、うかがえますか」
門の前の来訪者に、三年ぶんの口ぐせで聞いていた。
「お守りにまいりました」聖女様は、頭を下げた。「帰る予定は、ございません」
聞いていない帰りの予定まで、答えてくれた。
足もとに、旅の鞄が三つ。
乗ってきた辻馬車は、もう角を曲がって、帰っていくところだった。帰りの足まで、先に帰している。
本当に、ないらしい。
「……聖女様が、私を、守るんですか?」
警備員が、警護される側に回った。
「竜を退けた方の御身でございますもの」聖女様は、穏やかに言った。「竜は、また来るかもしれません。そのとき、オディール様がお怪我をなさったら、癒やせる者が、おそばにいなくてはなりません。聖堂のお許しも、いただいてまいりました」
聖女様が、二つ目の鞄を開けた。
包帯。薬草。洗ってたたんだ、清潔な布。隙間なく、きっちり詰まっていた。
救護の鞄として、ほぼ満点だ。手袋があれば、満点だった。血に、素手で触れずに済む。薬草のことは、私には分からない。
理屈も、合っている。けが人が出そうな現場には、手当てのできる人を先に置いておく。モールなら、AEDは防災センターの前の壁にあった。
うちには、聖女様が来た。
「それから」聖女様は、用件のついでのように言った。「レオポルト様との婚約は、解消してまいりました」
婚約の解消が、ついでだった。
理由は言わなかった。聞かなくても、だいたい分かる。竜の前で、置いていかれたのだから。
つまり、こうだ。私を婚約破棄した人の、新しい婚約者が、その人との婚約を解消して、破棄された私の家に来た。
……相関図が、渋滞している。
その真ん中にいる人の顔を、私はまだ覚えていない。
門番が三つ目の鞄を持ち上げて、首をかしげた。片手で、軽々と。
「三つ目には、何が?」と、私は聞いた。
「空でございます」聖女様は、にこりとした。「これから、入れますので」
「……何を?」
答えはなかった。にこにこしているだけだった。
ドレスの裾の端が、くいと引かれた。小さな手が、そこをつまんでいた。広場で握られたのと、同じ場所だった。
助けられたばかりの人は、助けた人から離れたがらない。モールで保護した迷子の女の子も、迎えに来たお母さんに片手でしがみついて、もう片手で、私の制服の袖を離さなかった。
何日かすれば、落ち着く。そうしたら、帰る。
(……帰りませんわよ、あの子)
先輩の予報、当たるから、やめて。
泊まりの来訪者があるなら、戸締まりも確かめておく。門を閉める門番に、聞いた。
「夜は、表も裏も、錠をおろしますか」
「は、はいっ。表も、裏も。……あ、あの、何か不手際が」
「いえ、確認です。怒ってないです」
狂犬に戸締まりを聞かれると、人は青くなるらしい。
玄関から、お母様が門まで出てきた。
「まあ、聖女様。ようこそ、おいでくださいました」
「お世話になります」聖女様は、膝を折って礼をした。「オディール様のお部屋の、お隣は、空いておりますか」
「空いておりますわ」
即答だった。
お母様は目を細めて、私と聖女様を見比べた。
「オディールに、泊まりに来てくださる方ができるなんて」
声が、いつもより少しだけ、やわらかかった。
私の部屋の隣は、すぐに客間に整った。たたんだタオルの角が、きっちりそろっていた。〔修繕済み〕の札と、同じ几帳面さだ。総務の仕事は、早い。
廊下では、甲冑がかたかた鳴っていた。兜の隙間で、眼鏡が光った。
鞄を抱えた門番が、その前で立ち往生した。甲冑が、廊下の真ん中までせり出している。中から、聖女様をのぞくために。
通路に、物を置かない。いざというとき、逃げる人の邪魔になるから。中に人が入っていても、同じだ。
「お父様、少し壁ぎわへ」
甲冑は、かたかた鳴るだけで、動かなかった。重くて動けないのか、怖くて動けないのか。たぶん、両方だ。
「失礼します」
甲冑を、中身ごと持ち上げて、壁ぎわに戻した。中から、「ひっ」と声がした。
門番が、甲冑と私を、黙って見比べた。
見た目より、軽い甲冑だった。飾り用の薄い鉄なんだろう。
廊下の向こうでは、使用人たちがささやき合っていた。
「聖女様が、お嬢様を鎮めにいらしたんですって」
「なんて、お気の毒に……」
(鎮まりませんわよ)
そこ、張り合わなくていいから。
◇
昼すぎ、聖女様の客間で、向かい合った。
アンナがお茶を運んできた。カップが卓に置かれた瞬間、私の手が、受け皿を構えかけた。
(今日は、来ませんわ)
分かってる。
昨日のお茶の時間のせいで、カップを見ると体が身構える。淑女の職業病が、一つ増えた。
事故のあと、体の手当てが済んでも、怖さはあとから来る。
モールで、エスカレーターで転んだおばあさんがいた。けがは、膝のすり傷だけだった。次の週、同じおばあさんが、エスカレーターの前で足を止めていた。乗れなくなっていた。
だから、助けた人には、もう一度声をかける。研修で習ったわけじゃない。あのおばあさんに、教わった。
仕事の顔で、聞いた。
「ゆうべは、眠れましたか」
「いいえ。一睡も」
やっぱり。事故のあとは、よくあることだ。
「書庫におりましたので」
……ん?
「古い祈りの書を、一晩かけて、端から読みました。しょうぼう、というお祈りは、どこにもございませんでした」
聖女様は、少しくやしそうに目を伏せた。
一晩で、端から。真面目な人だ。そして、たぶん、とても重い。
「しょうぼう、とは、どちらの祈りの言葉でございますか」
祈りじゃない。
「……火を消したり、けが人を運んだりする、仕事の人たちです」
「火を消し、傷ついた方を運び、止まった胸を押して、命をつなぐ……」聖女様の青い目が、潤んだ。「その、しょうぼうの方々は、聖人でいらっしゃいますのね」
「いえ。公務員です」
「こうむいん」
聖女様は、その言葉を、大事そうに口の中でくり返した。
「……覚えましたわ」
訂正したら、遠くなった。
ちなみに私は、公務員じゃない。民間の警備員で、消防の講習を受けに行っただけだ。これを言うと、たぶん、もっと遠くなる。
「食事は、取れていますか」
聖女様は、胸の前で両手を重ねた。息が、少し浅い。
「胸がいっぱいで。今朝は、パンが喉を通りませんでしたの」
「どきどきしますか」
「はい。とても」
「失礼します」
手首を取った。手のひら側の、親指寄り。指を三本そろえて、軽く当てる。
秒の分かる時計が手もとにないので、一昨日オットーさんの胸を押した拍子で数えた。一分に、百から百二十。それに、近い。
速い。
数えているうちに、もっと速くなった。
聖女様の手のひらに、淡い光がにじんでいた。
「光ってます」
「お気になさらず」聖女様は、目を伏せた。「祈りが、少しこぼれただけでございます」
こぼれるものなんだ、祈り。
脈は、まだ上がっていく。
測られると、脈も血圧も上がる人はいる。健康診断のたびに、私も上がった。
そっと手を離した。聖女様は、少しだけ眉を下げた。手のひらの光が、すうっと弱くなった。
(……そういうことに、しておきますわ)
どういうこと?
先輩は、それきり黙った。
「最後に。怖い夢は、見ますか」
聖女様の手が、膝の上で止まった。
「一昨日の夜、少しだけ眠ったときに」
声が、はじめて小さくなった。
「竜の夢では、ございません。誰もいない広場に、わたくし一人が座っている夢でございます。皆さま、振り返らずに、行ってしまわれて」
竜より、置いていかれたほうが、怖かったんだ。
椅子を立って、聖女様の前にしゃがんだ。目の高さを、合わせる。
「あの広場で、人を逃がしているあいだも、私はずっと、聖女様を見ていました」
青い目が、見開かれた。
「目は、離していません」
聖女様の唇が、小さく震えた。
「うちにいるあいだも、離しません。ここも、私の持ち場なので」
聖女様の手のひらに、光が灯った。さっきより、ずっと強く。指のすきまから、こぼれるくらいに。
聖女様は何も言わずに、その手を胸に抱いた。
あれ。
今、帰らない理由を、一つ足した?
(足しましたわね)
……やっぱり?
◇
夕方、アンナが私の部屋に来た。顔が、こわばっていた。
「お嬢様。お昼のカップが、一客、足りません」
アンナは、屋敷の器の数を、全部覚えているらしい。
客間をたずねると、三つ目の鞄が、開いたままになっていた。真ん中に、白い絹の包みが一つ。
「中を、見せていただいてもいいですか」
「どうぞ、ご覧くださいませ」
聖女様は、うれしそうに絹をほどいた。お昼に私が飲んだカップが、出てきた。
空の鞄の、最初の中身だった。
「オディール様が、お口をおつけになった器でございますので」聖女様は、少しも悪びれなかった。「奥様には、のちほどお願い申し上げるつもりでございました。聖堂では、聖人がお使いになった器を、聖遺物としてお祀りいたします」
「聖遺物って、亡くなった聖人の物じゃ……私、生きてますけど」
「存じております」聖女様は、にっこりした。「ですから、生きておいでの方の、聖遺物でございます」
聖遺物の決まりが、私一人のために、書き換わった。
うちの備品なので、お母様に聞いた。お母様は扇子の陰で、にこにこしていた。
「差し上げなさいな」
許可は、すぐに下りた。モールの搬出の手続きより、ずっと早かった。
アンナは、泣かなかった。
黙って新しいカップを持ってきて、私の前に置いた。それから、小声で言った。
「……今夜から、お嬢様のカップは、わたしが毎晩数えます」
目が、本気だった。
夜、寝る前に、鏡台の引き出しを開けた。
ハンカチに包んだかけらは、三日目の夜になっても、まだほんのり温かい。喉の奥が、小さく鳴った。引き出しを閉めると、静かになった。
ベッドに入ろうとして、扉の下に気づいた。
ごく淡い光の筋が、一本。
(扉の外に、おりますわ)
喉は、鳴らない。首の後ろも、静かだ。少なくとも、殺気はない。
扉の内側から、声をかけた。
「どうされましたか?」
「お守りしております」
聖女様の声だった。
扉を開けた。
暗い廊下に、手のひらの形の明かりが一つ。照らしているのは、聖女様の顔と、手もとだけだった。ろうそくは、持っていない。
ホラー映画なら、ここで悲鳴が入る場面だ。
「朝まで、ここに立っております」
「それには、名前があります。立哨」
決まった場所に立って、見張ること。モールの正面入口で、私が勤務のたびにやっていたことだ。
「ゆうべも寝ていなくて、ろくに食べてもいない人は、立っているだけで倒れることがあります。お部屋で、休んでください」
「竜の前で、オディール様は、ずっとわたくしの前に立っていてくださいました」聖女様は、静かに言った。「今夜は、わたくしの番でございます」
言い返せなかった。理屈が、通っている。
部屋の椅子を一脚、扉の脇に出した。
「じゃあ、この椅子に座っていてください。立たないで。それから、次の鐘が鳴ったら、お部屋に戻ること」
「はい」聖女様は、素直にうなずいた。「それと、わたくしのことは、ミレイユ、と」
「……ミレイユさん。約束ですよ」
さん、は外さなかった。ミレイユさんは、少しだけ残念そうに、それでもうれしそうに、もう一度うなずいた。
扉を閉めた。
扉の下の淡い光は、消えなかった。暗い部屋の中で、そこだけが光っている。
誘導灯みたいで、少し落ち着いた。悔しいことに。
次の鐘で、扉を開けて確かめるつもりだった。
目を開けたら、窓が白んでいた。
扉を開けた。
ミレイユさんとアンナが、並んで立っていた。向かいの壁にもたれて、肩を寄せ合って、立ったまま眠っていた。アンナは、お出かけ道具の重い鞄を、胸に抱えていた。夜のうちに、張り合いに来たらしい。
二人とも、顔色は悪くない。息も、ふつうだ。
扉の脇の椅子は、ゆうべ出したときの位置のまま、少しも動いていなかった。次の鐘は、何回も鳴ったはずだった。
私の部屋の前に、立哨が、二人。
(帰らないうえに、増えましたわね)
増員の依頼は、受けていないんだけど。
ミレイユさんが、目を開けた。
「おはようございます、オディール様。何事も、ございませんでした」
「わ、わたしもっ」アンナが、びくっと背筋を伸ばした。「何事も、ございませんでしたっ」
寝ていた人の「何事もございませんでした」は、報告にならない。
「あ、でも」アンナが、目をこすった。「まだ起きていたとき、一度だけ。廊下の窓の外、裏門のほうで、かり、かり、って。何かを引っかくような音が。……お嬢様を起こすわけにも、お部屋の前を離れるわけにも、いかなくて」
「知らせてくれて、ありがとう。次からは、起こして」
アンナが、こくこくとうなずいた。
「裏門を見てきます。二人は、ここにいて。今度こそ、交代で、座って」
上着を一枚はおって、裏門へ下りた。
足もとを見てから、近づいた。錠は、おりたままだった。
錆の色の中に、一本だけ、削れたばかりの銀色の引っかき傷。鍵穴のまわりだ。
触らずに、見た。
喉の奥が、かすかに鳴りかけた。
(……あの石の匂いが、いたしますわ。少しだけ)
かけらは、部屋の引き出しの中だ。ここには、ない。
……異常あり。




