第5話 淑女のたしなみは、全部ドラゴンの倒し方でした
朝いちばんに、筋肉痛を探した。
昨日は日傘で竜の顎を打ち上げて、そのあと聖女様の合図まで、胸骨圧迫を続けた。講習では、一、二分で交代しなさいと教わる。それくらい、腕にくる。
二十五歳の私の腕なら、今朝は歯ブラシも持ち上がらないはずだった。
腕を回して、肩を押して、ふくらはぎをつまんだ。
どこも、何も言ってこない。
(何を探していますの)
筋肉痛。
(あれしきで?)
……竜一頭と胸骨圧迫が、あれしき。
鏡をのぞくと、十代の肌が、朝の光をはね返していた。くまが、ない。夜勤明けの私が洗面所で見ていた顔とは、別の生き物だ。
若いって、こういうことか。
ベッドの柱は、昨日帰ったときには、もう四本に戻っていた。
今朝、新しい一本に、小さな札が下がっているのに気づいた。〔修繕済み〕。角ばった、几帳面な字だった。
報告する前に、直っていた。
ゆうべ、オットーさんが治癒術士の詰所で目を覚ました、と知らせが来た。竜は北へ去ったまま。死んだ人は、いない。
ポケットのハンカチの中で、かけらはまだ、ほんのり温かい。届け先は、まだ決めていない。騎士団か、王宮か。灰色の上着の人たちでないことだけは、決めている。
それから、昨日の日報を書いていない。
一日の終わりに、起きたことを短く残す。警備員の日報だ。この世界でも、書くことにした。
アンナに「おはよう」と言って紙を頼んだら、また泣かれた。昨日から数えて、三回目。
もらった紙は、花の透かしの入った、いい匂いのする便箋だった。日報を書く紙じゃない。書いたけど。
〔昼すぎ、中央広場。竜、一件。退去済み。負傷者一名、治癒術士へ引き継ぎ。拾得物一件、保管中。〕
一行で済む一日では、なかったけれど。
廊下の角で、眼鏡の痩せた男の人と鉢合わせた。
お父様だ。
お父様は二歩さがって、柱の陰に入った。
「おはようございます、お父様」
頭を下げると、柱の陰で眼鏡がずれた。お父様は、さらに一歩さがった。
狂犬の娘も怖かったらしいけど、丁寧な娘は、もっと怖いらしい。
お父様の胸には、書類の束が抱えられていた。角をきっちりそろえて、紐で綴じてある。表紙に、角ばった、几帳面な字。
〔修繕済み〕の札と、同じ字だった。
この人、総務の人だ。
◇
「お茶の時間にしましょう」
昼すぎ、お母様が言った。
お茶の時間。来た。私の得意分野だ。ホテルのアフタヌーンティーで鍛えた、三年ぶんの経験がある。
なのに、アンナの顔から血の気が引いた。窓の向こうで、使用人たちが一斉にいなくなった。いなくなった先の窓の中で、二人が抱き合っていた。
庭に、白い卓が一つ。お母様と向かい合って座った。紅茶のいい香りがする。
「熱が下がったなら、今日から、淑女教育を再開いたしますわね」
お母様は、目を細めて微笑んでいた。
(来ますわ)
何が?
お母様が、自分のカップを、手首だけで放った。
私の顔めがけて。にこにこしたまま。
手が、勝手に受け皿を出していた。カップは、受け皿の真ん中に、すとんと収まった。紅茶は、一滴もこぼれていない。
「紅茶の作法は、忘れていないようですね」
お母様は、卓の下から予備のカップを出して、自分でお茶を注いだ。予備が、ちゃんと用意してあった。
いやいやいや。
今、投げたよね。カップ、投げたよね。
しかも、いい器だ。陶芸教室で二年、ろくろを回してきた私の目が言っている。これ一客で、私の作る鈍器が百個は買える。
お母様が、扇子を開いた。
ぱちん、と閉じる音が、刃物の音だった。この家の扇子は、たぶん全部、鉄でできている。
(……お母様には、敵いませんわ)
先に言わないで。怖くなる。
扇子が、横に払われた。私の手が、受け皿で受け流した。かちん、と澄んだ音。受け皿は割れない。割れない角度で、受けていた。
受け皿に乗っていたカップが、はじかれて、くるくる回りながら、庭の柱のほうへ飛んでいった。
柱の陰に、眼鏡が見えた。
当てさせない。跳んだ。
柱の手前で、カップを受けた。ついでに、ずり落ちてきた眼鏡も受けた。
「お父様、お怪我は?」
「あ、あ、ありが……」
お父様は、柱にはりついたまま、そこまで言ってうなずいた。眼鏡を返すと、震える手でかけ直して、もう一度、柱の陰に入った。
「あら、あなた。そこにいらしたの」
お母様が、うれしそうに目を細めた。
「あの方の怯えた顔、昔から好きですのよ」
夫婦のことは、警備の範囲外です。
「では、階段の下り方を」
お母様が案内したのは、階段ではなかった。二階の露台だった。
「淑女は、どんな高さからでも、裾を乱さずに降りるものです」
「……階段は?」
「ございますわ。あなたの下に」
見下ろした。庭だった。手すりが、腰より低い。モールなら、真っ先に報告する高さだ。
(階段なら、そこですわ)
そこ、庭ですけど。
体が、勝手に裾を押さえた。手すりを、片手で越えた。風が、耳の横を通った。
気づいたら、庭の芝の上に立っていた。足音は、しなかった。裾も、乱れていない。
窓の中で、アンナが泣いていた。四回目。今のは、たぶん、うれし泣きの顔だった。
え、待って。
これ全部、戦闘訓練じゃん。
お茶会の自信は、ゼロになった。ホテルのアフタヌーンティーで、カップが飛んできたことは一度もない。
露台の上で、お母様が扇子で口もとを隠した。
「淑女たるもの、ドラゴンの一頭や二頭、お茶の時間のうちに片づけられませんと」
アンナが、窓から身を乗り出して、小声で教えてくれた。
「奥様は、二十年前、王都に来た竜を退けられた方ですから」
竜を。お母様が。
お母様は、たぶん一級。この国の令嬢は、二級くらいなら、みんな持っているんだ。お茶を飲みながらカップを受けて、露台から飛び降りるくらいは。
広場の令嬢たちは、三歩離れて逃げていたけど。……あれは、きっと別の流派だ。
騎士より私が強かった理由も、それで説明がつく。
……大変だな、この国の令嬢。
露台の上で、扇子の陰のお母様の目から、一瞬だけ、笑いが消えた。何かを確かめるみたいに。
それから、また目を細めた。満足そうだった。たぶん。
◇
夕方、部屋で、一人で今日の体を振り返った。
カップを受けた手。扇子を受けた角度。露台から降りた膝。
どれも、私が考えるより先に、体が正解を出していた。
現場には、自分より先にいた人がいる。手順を体で覚えていて、新人が頭で考えるより先に動く人。三年前、モールに配属された初日、私はそういう人の背中を見て、仕事を覚えた。
……この体、私より仕事ができる。
「先輩じゃん」
声に出ていた。
思わず、自分の体に頭を下げた。新人が先輩にするように、十五度。
(先輩、とは)
現場に、先にいた人のこと。
少し、間があった。
(……悪くありませんわね)
……それ、口ぐせですか。
名前は?
答えはなかった。昨日も、名前だけは教えてくれなかった。
じゃあ、先輩で。
家のぬいぐるみたちは、毎日話しかけても、しゃべり返してこなかった。この先輩は、しゃべり返してくる。
ベッドに腰かけて、言ってみた。
「昨日の竜。追いかけたかったんですよね。ごめんなさい。でも、警備員は、敷地の外まで追いかけないんです」
喉は、鳴らなかった。
……拗ねてる?
喉の奥で、ふん、と小さく鳴った気がした。
夜、扉の外で、足音が止まった。
ほとんど音のしない足音だった。お母様だ。
「……お帰りなさ」
そこで、声が止まった。
少しして、やわらかい声が、言い直した。
「……おやすみなさい、オディール」
足音が、遠ざかっていった。
おやすみなさい、の前に、何か言いかけた気がした。
◇
翌朝、門番が真っ青な顔で呼びに来た。
門の前に、白い衣の小柄な人影が立っていた。
足もとに、大きな旅の鞄が、三つ。




