第4話 狂犬が、人を逃がした(ライナルト視点ほか)
騎士団副団長として、私は今日のことを報告書に書かねばならない。
書き出しを、四回丸めた。
二十年前、王都に降りた竜を退けたのは、アイゼンハルト伯爵夫人だった。今日、その娘が、竜の顎を打ち上げた。そこまでは、書ける。
書けないのは、その前のことだ。
竜が来た。広場の騎士は、剣を抜いて固まった。私も、その一人だった。
今の騎士団に、竜と刃を交えた者はいない。言いわけにはならない。私は叫んだ。その声は悲鳴に呑まれて、誰にも届かなかった。
届いたのは、別の声だった。
「落ち着いて、こちらへ。走らないでください」
婚約破棄の夜会でシャンデリアを落としたと噂される、アイゼンハルトの狂犬が、群衆を二つの大通りへ分けた。路地を塞がせ、若い騎士を二人、大通りの入口と路地の口に立たせた。一人には声で、一人には日傘の先で。名前も知らぬはずの部下を、迷いなく使った。
あれは、隊の指揮だった。
竜を退けた家の娘なら、人の動かし方を知っていても、おかしくはない。
……おかしくはない、のだろうか。
ここまでで、三枚。
オットーの件を書く。
狂犬は、倒れたオットーの胸を、体ごと押していた。止めに入った部下の手を、私が外した。なぜ外したのか、自分でも分からなかった。ただ、あの手が止まればオットーが死ぬ。それだけは、見ていて分かった。
オットーは、治癒術士の詰所で眠っている。息は穏やかだと、さっき聞いた。
その件で、二枚。
部下の一人が、口で付け加えた。
「竜が飛び去ったとき、あの令嬢は『……異常なし』と言いました」
「竜を見てか」
「はい。それから、倒れたオットーを見て、『異常あり』と」
筆が止まった。
竜が去っても、異常はない。騎士が一人倒れて、ようやく異常がある。
あの人の物差しでは、竜よりも、騎士一人のほうが重いのだ。
短く書けばいい。あの人が「止めたら、この人の心臓のかわりが、いなくなります」と、一息で言ったように。
書き直した。
七枚になった。
最後の一行だけは、短く書けた。
〔アイゼンハルト嬢に、礼を〕
◇
俺は、フリッツ。下町の鍛冶屋の三男で、騎士団の見習いだ。
今日、初めて剣を抜いた。
抜いて、前に出て、竜の尾に剣ごとさらわれて、空を飛んだ。
剣は、まだ広場のどこかに落ちている。見習いが剣をなくしたら、三日は厩の掃除だ。
「で、狂犬に受け止められたって?」
夕飯の席で、上の兄貴が笑った。下の兄貴も笑った。親父は黙ってパンをちぎっていた。
俺は、笑わなかった。
受け止めてくれた腕は、俺より細かった。なのに、びくともしなかった。抱えられたまま、あの人はまず、俺の腕が動くかを聞いた。それから言った。
「守るのは、こっちの仕事なので」
騎士より、騎士だった。
「それにな」俺は言った。「あの人、針を投げる前に、指を差して唱えたんだ。『目の横、よし』って」
「何だそりゃ」
「古い詠唱だよ。短いやつ。指を差して唱えるのは、魔法だろ」
兄貴たちが顔を見合わせた。
俺は、金床の横を指差してみた。
「……金床の横、よし」
何も起きなかった。親父が、パンをちぎる手を止めた。
それから、ちぎったパンを、黙って俺の皿に置いた。
竜が飛んでいったとき、あの人は空に向かって「待て」と言った。竜は待たなかった。でも、戻ってもこなかった。たぶん、待てと言われたからだ。
それから、あの人は俺に頼んだ。
「聖女様を、お願いします」
頼まれた。俺が。
寝床で、天井を見た。
言いそびれたことがある。
師匠と、呼ばせてください。
明日、剣を探しに行く。見つからなかったら厩の掃除で、それが明けたら、言いに行く。
◇
わたくし、コルネリア・リンデ。子爵家の娘で、ヘルミーネ様のお茶会の常連ですのよ。
帰りの馬車の中で、まだ震えが止まりませんの。
竜のせいではありませんわ。
狂犬のせいですのよ!
広場で、わたくしたちは狂犬のまわりに、きっちり三歩の間を空けておりましたのよ。噛みつかれては困りますもの。
竜が来て、狂犬が叫んだんですのよ。
「走らないでください」
わたくし、走りませんでしたわ。狂犬に言われたことに逆らう勇気なんて、ございませんもの。西の大通りへ、早歩きで逃げましたわ。生まれて初めての早歩きでしたわ。
大通りの入口で、つい振り返ってしまいましたわ。
狂犬が、竜の前で日傘を開いておりました。声までは聞こえませんでしたけれど、あとで皆さまが、こうおっしゃっていましたのよ。
「申し訳ございません。ここから先は、立入禁止です」
竜に、謝ったんですのよ。信じられまして?
謝ってから、竜の顎を叩き割ったんですって。
謝ってから殴る方が、いちばん怖いんですのよ!
馬車の窓の外では、もう誰かが話しておりましたわ。狂犬が、竜を出入り禁止にしたそうだ、って。
明日、ヘルミーネ様にお話ししなくては。
アイゼンハルトの狂犬は、竜を立入禁止になさった、と。ヘルミーネ様は、きっと面白がられますわ。あの方、面白いものがお好きですもの。
それから、お茶会の席は、狂犬から三歩ではなく、五歩空けていただかなくては。
◇
僕は、レオポルト・ヴェルナー。ヴェルナー侯爵家の嫡男だ。
はっきりさせておきたい。僕は、逃げたのではない。
竜が降りたとき、誰かが先に動かなければ、民は動けない。だから僕は、真っ先に壇を降りた。民を安全な方へ導くために。
ところが、ミレイユ嬢が、なぜか口をきいてくれない。聖堂まで送ろうと言ったら、聖堂の者がすっと間に入ってきた。
そして、さっき聞いた。オディールが、竜の前に立ったと。
……なるほど。
婚約を破棄された女が、もう一度僕の目を引くために、竜にまで立ち向かったわけだ。
思えばあの狂犬は、誰にでも唸っていたのに、僕にだけは、一度も吠えなかった。婚約を破棄したあの夜会でさえ、シャンデリアは落としても、僕のほうは見もしなかった。
照れていたんだろう。
健気じゃないか。
花を持っていこう。オディールの好きな色は……。
……まあ、いい。白と赤、両方だ。王都じゅうの白と赤を、集めさせよう。
鏡の前で、前髪を整えた。
「君の気持ちは分かっているよ、オディール」
鏡に向かって言ってみた。完璧だった。
「花がそろったら、迎えに行ってやるか」
執事が、何も言わずにお茶を下げた。
◇
わたくしは、ミレイユ。聖堂にお仕えする聖女でございます。
夜の小部屋で、今日のことを、何度も思い返しております。
竜が降りたとき、足が動きませんでした。わたくしの婚約者だった方は、振り返らずに走っていかれました。
そのとき、目の前で、白いレースの日傘が開きました。
背中が見えました。細くて、まっすぐな背中。わたくしは、そのドレスの裾を握っておりました。気づいたら、握っていたのです。
「立てますか?」と、あの方は前を向いたまま聞いてくださいました。わたくしは、答えられませんでした。
あの方は、わたくしを置いていかなかった。
それから、倒れた騎士のそば。あの方は数えながら、胸を押し続けていらした。わたくしが着いたとき、騎士の心臓は止まっていたのに、まだ戻せたのです。
止まってから時間がたった人を、わたくしは今まで、一人も戻せたことがありませんの。治癒術士は、いつも間に合わないのです。
あの方が、時間を止めていてくださった。
「秘術じゃないです。講習です。消防の」
しょうぼう。聖典のどこにもない言葉ですの。きっと、とても古い祈りの名前ですわ。明日、書庫で探しましょう。
「戻したのは、聖女様です」
手柄を、わたくしに返してくださいました。
手のひらが、熱い。
祈ってもいないのに、癒やしの光が、ひとりでに灯っておりました。祈りのときより、ずっと強く。
オディール様。オディール様の背中。オディール様の、数える声。
光が、また強くなりました。
「……決めましたわ」
寝台の下から、いちばん大きな旅の鞄を引き出しました。




