第3話 死者蘇生の秘術
異常あり。場所、台座の向こう。けが人、一名。
頭の中の無線に報告しながら、走りだした。
「聖女様を、お願いします!」
壇の縁の男の子に叫ぶと、「は、はいっ!」と声が返ってきた。
台座を回りこむ。頭の中で、手順が勝手に並んでいく。三年ぶん、研修と講習で体に入れた順番だ。
台座の向こうの石畳に、大柄な騎士が仰向けに倒れていた。
その真上で、光る石を抱えていた鉄の枠が、ひしゃげて傾いていた。いつ落ちてきても、おかしくない。
まず、まわりの安全。
台座に足をかけて、枠の端をつかみ、誰もいない北側へ押し倒した。枠は、がらん、と音を立てて、北の石畳に落ちた。
安全、よし。
膝をついた。騎士の肩を、やさしく叩いた。
「大丈夫ですか! 聞こえますか!」
答えない。まぶたも動かない。
足音が、ばらばらと寄ってきた。さっきの騎士が二人と、そのほかに三人。みんな、何をしていいか分からない顔をしていた。
二十年ぶりの竜。誰も、こんなのは初めてだ。固まって当たり前だ。
何をすればいいか分からない人は、言われれば動ける。
名前は知らないので、指で差した。
「あなたは、救急車を――」
言いかけて、止まった。
救急車は、ない。AEDも、ない。心臓が細かく震えて血を送れなくなったとき、電気を流して整え直す、あの機械。モールなら、防災センターの前の壁にあった。
……電線が一本もない国だった。
(治癒術士を、お呼びなさいませ)
ちゆ、じゅつし?
聞いたことのない言葉だった。でも、この声が先に言うことは、今のところ全部当たっている。
「あなたは、治癒術士を呼んできてください! 胸を打たれて倒れて、呼びかけに答えない、と伝えて!」
「あなたは、外套を一枚!」
「あなたとあなたは、ここにいてください。あとで交代をお願いします」
差された騎士が、はじかれたように走った。
治癒術士。たぶん、こっちの救急隊だ。
胸と腹を見た。十秒。
騎士の口が、ひくっ、と動いた。しゃくりあげるみたいに、一度。
「息がある!」騎士の一人が叫んだ。「まだ生きてるぞ!」
胸は、動いていない。腹も。
「……それは、息じゃないです」
心臓が止まってすぐのころに出る、しゃくりあげるような動き。講習で、何度も教わった。普段の息じゃない。これを息だと思って待つと、間に合わなくなる。
胸当ての留め具を二つ外して、どけた。
胸の真ん中に、手のひらの付け根。指を組んで、肘を伸ばして、真上から体重をかけた。
「いち、に、さん、し、ご……」
五センチ。それ以上は押さない。この体で本気で押したら、たぶん折れる。
胸が沈む。戻るまで力を抜く。手は離さない。一分に百回から百二十回。速く、休まずに。
「何をする!」
横から、腕をつかまれた。残ってもらった騎士の一人だった。顔が真っ青だった。
「狂犬め、倒れた者の胸を潰す気か!」
そう見えるだろう。息がある、と思った仲間の胸を、狂犬が全体重で押しているのだから。
手は、止めない。
「止めたら、この人の心臓のかわりが、いなくなります」
つかんだ手が、ゆるんだ。その手首を、もっと大きな手が上からつかんで、外した。
背の高い騎士だった。短い黒髪。顎に、古い傷。
「……続けさせろ」
低い声だった。それきり、その人は私の手もとだけを見ていた。
止まってる。心臓が。
私の手が止まったら、この人の頭に、血が行かない。
治癒術士が来るまで。それまでが、私の持ち場。
頭の中の声は、あれきり一度もしゃべらない。
「……にじゅうはち、にじゅうく、さんじゅう。いち、に……」
口の中は、土と血で汚れていた。息を吹きこむのはやめて、押し続けるほうを選ぶ。講習でも、そう習った。
二分。
この体なら、たぶん何分でも押せる。でも、手順は手順だ。それに、替われる人を作っておかないと、私が離れられない。
「交代します! さっき私の腕をつかんだ、あなた。ここに手を」
騎士が、目を白黒させながら膝をついた。
「肘を伸ばして。真上から。数えて!」
「い、いち、に、さん……」
屈強な腕だった。最初の十回は、よかった。二十回めあたりから、沈みが浅くなった。腕で押している。体重じゃなくて。本人は、気づいていない。
「浅いです。替わります」
手を入れ替えるあいだ、一秒。
騎士は、自分の腕を不思議そうに見ていた。剣なら一日振れるのに、という顔だった。
白い衣が、走ってきた。
壇の上で座りこんでいた聖女様だった。男の子が後ろから、はらはらした顔でついてくる。支えようとした手を、聖女様は断ったらしい。足は震えていたけれど、自分の足で来ていた。
「聖堂のミレイユです。わたくしが、診ます」
聖女様は騎士の胸の横に膝をついて、私の手のすぐそばに、白い手のひらを当てた。
淡い光が、にじんだ。
「……止まっています」聖女様は言った。「止まってから、どのくらい?」
「倒れているのを見てから、四分くらい。ずっと押してます」
青い目が、私の手に一度だけ落ちた。
「押し続けてください。わたくしが、合図をします」
止まってからの時間を聞かれた。なら、時間が勝負なのは、この世界でも同じだ。
数える。押す。交代の騎士と、また替わる。今度の騎士は、最初から肘をまっすぐにしていた。さっき、見て覚えたらしい。
光が、少しずつ強くなっていく。聖女様の手のひらから、騎士の胸いっぱいに広がっていく。
「――今! 手を離して!」
手を離した。
光が、騎士の胸の中に、すうっと吸いこまれた。
胸が、大きく一度、上下した。
もう一度。
もう一度。
普段の、息だった。灰色だった頬に、少しずつ色が戻ってくる。目は開かない。話さない。でも、息をしている。
反応はない。でも、普段どおりの息がある。なら、横向きに寝かせる。
騎士の体をこちらへ転がして、あごを少し前に出した。上の膝を曲げて、転がらないように支える。舌がのどに落ちないように。吐いても、詰まらないように。
戻ってきた騎士の外套を、体にかけた。冷やさないように。
周りの騎士たちが、息を止めて見ていた。
「……死んでいた」誰かが言った。「今のは、死んでいたぞ」
「心臓が止まった者は、治癒術士が来る前に死ぬ。それが当たり前なのに……」
「胸を押して、魂を呼び戻したのか」
「死者蘇生の、秘術……」
いやいやいや。
「秘術じゃないです。講習です。消防の」
騎士たちが、顔を見合わせた。しょうぼう、という言葉は、どの顔にも入っていなかった。
目は、騎士の背中から離さない。ゆっくり、上下している。
「私は、つないだだけです。止まった心臓のかわりに、押して、血を回しただけ。戻したのは、聖女様です」
「魂を……つないだ……」
そっちのつなぐじゃない。
聖女様が、私を見ていた。
長く、見ていた。何か言いかけて、言わなかった。
背の高い騎士が、私の前に片膝をついた。
「騎士団副団長、ライナルト・ブラント」
短く名乗って、横向きの騎士に目を落とした。
「……部下を、ありがとう」
「い、いえ。恐れ入ります。恐縮です」
敬語が、どんどん硬くなる。褒められると、いつもこうなる。
職場にいたら、たぶん、隊長の次に頼りにする人だ。
「オットー」誰かが、横向きの騎士の名前を呼んだ。「オットー、聞こえるか」
オットーさん。覚えておく。
(……悪くない押し方でしたわ)
それ、日傘のときも聞いた。
青い長衣の人たちが三人、担架を持って走ってきた。治癒術士らしい。オットーさんを、横向きのまま乗せる。
「運ぶときは、足のほうを先に。水平に」
つい口から出た。担架を持ち上げた騎士たちが、言われたとおりにした。
ようやく、広場を見回した。
竜のいなくなった台座のまわりに、いつのまにか、灰色の上着の男たちがいた。七人か、八人。落ちた鉄の枠を起こして、石畳に散った光るかけらを、手早く袋に拾い集めている。騎士たちは、止めない。
事故の現場は、原因が分かるまで、そのままにしておく。何が起きたのか、あとで確かめるために。私が倒した枠の元の場所は、覚えている。
「あの、現場、保存しなくていいんですか?」
近くの騎士が、きょとんとした。
「あれは、灯火商会の方々ですから」
「……とうか、しょうかい」
頭の中の引き出しを、片っぱしから開けた。どの引き出しにも、入っていなかった。
足もとに、何かが転がってきた。
指の先ほどの、かけらだった。淡く光っている。灰色の男たちは、こっちを見ていない。
喉の奥が、小さく鳴った。
(……その石、嫌いですわ)
現場は、もう保存できない。なら、せめてこの一つは、しかるべきところへ。灰色の人たちは、しかるべきところには見えなかった。
好き嫌いで、拾得物の扱いは変えません。
拾得。台座の東、石畳。昼すぎ。光る石のかけら、一つ。頭の中の帳面につけてから、ハンカチに包んで、ポケットに入れた。届け先は、あとで確かめる。
「お嬢様っ!」
アンナが、鞄を抱えて走ってきた。
「お、お怪我は」
「ないよ。……アンナは?」
アンナの目から、ぼろっと涙がこぼれた。今朝から、二回目だ。
◇
帰りの馬車は、行きよりずっと静かだった。
まだ昼すぎなのに、長い一日だった。非番の日なら今ごろ、ホテルのアフタヌーンティーで、二段目のスコーンにジャムを塗っている時間だ。
ポケットに、手を入れた。
ハンカチの上から、かけらに触れた。
まだ、温かかった。
さっきまで押していた胸の温かさに、少し似ていた。
喉の奥が、また小さく鳴った。




