第2話 淑女のたしなみ、その一
竜は、立入禁止を聞いていなかった。
金色の目は、私を見ていない。台座のてっぺんの、光る石を見ている。
その喉の奥が、赤く光った。
(来ますわ)
分かってる。
足もとに、座りこんだ聖女様。目の前に、背の高い台座。てっぺんに光る石。そのすぐ上に、竜の頭。アンナは、二十歩うしろ。
避けたら、火は聖女様に当たる。竜の狙いが石でも、火は人を選ばない。
受けるしかない。
炎が来た。
日傘を、斜めに傾けた。角度は、考えるより先に決まっていた。
火が日傘に当たって、左右に割れた。割れた火は壇の板の端を焦がして、石畳へ落ちた。
白いレースが一枚、焦げて散った。その下から、厚い灰色の布が出てきた。こっちは、焦げていない。
焦げくさい。今朝、窓を開けて、焦げくさくない空気を吸ったばかりなのに。
柄が熱い。手のひらが焼けそうに熱い。なのに腕は、一ミリも下がらない。
いやいやいや。日傘で受ける火じゃないでしょ、これ。
受けたけど。
(……悪くない日傘でしょう?)
日傘、すご。
レースは飾りで、本体はこっちの布らしい。かわいいのに、鉄。かわいいのに、耐火。この世界の日傘は、見た目の三倍くらい働く。
「立てますか?」
前を向いたまま、足もとに聞いた。
聖女様の、細くて速い息だけが聞こえた。ドレスの裾が、くいと引かれた。小さな手が、裾の端を握っている。
立てない。分かった。なら、私がここから動かない。
竜が、首を引いた。
次の火までの、ひと呼吸。聖女様を壇から下ろしたい。でも竜の頭が近すぎて、背中を向けられない。
(お辞儀なさいませ)
は? お辞儀してる場合じゃ――
体が勝手に、ドレスの裾をつまんだ。右足を引いた。膝が、すっと沈んだ。
カーテシー。お嬢様が、お嬢様っぽくするときの、あのお辞儀だ。
え、今? 何度で?
沈んだ膝が、ばねになっていた。
次の瞬間、私は竜の鼻先にいた。動かないって、決めたばかりなのに。
お辞儀の低い姿勢から、一歩。それだけで、間合いが消えていた。
……これ、お辞儀じゃない。踏み込みじゃん。
(カーテシーですわ)
新人研修の教官に見せたら、たぶん分度器を落とす。
目の前で、金色の目が見開かれた。竜が、驚いたように首をのけぞらせた。
「お嬢様っ!」
アンナの声だった。
壇の下の二十歩を、重い鞄を抱えて走ってきていた。「私の後ろに」と言われたから、私の後ろまで来たらしい。竜がいても。
「お嬢様、刺繍道具を!」
小さな木箱が、放物線を描いて飛んできた。片手で受けた。ふたが開いた。銀色の刺繍針が、ずらりと並んでいる。
ぬいぐるみの服を縫うときの針より、ずっと長くて、ずっと重い。竜の前で刺繍道具を投げてよこす侍女も、どうかと思う。
この国の淑女って、みんなこうなの?
「アンナ、壇の陰に!」
アンナは、二歩だけ下がった。
(目の横ですわ)
竜の目の横。そこだけ鱗が小さくて、隙間が見えた。
指のあいだに、針を三本。持ち方は、指が知っていた。
狙う場所を、私は指で差した。
「目の横、よし」
指差し確認。見て、指で差して、声に出す。見落としを減らすための、警備員の手順だ。考える前に、指が出ていた。こっちは、私のくせ。
投げた。
三本の針が、竜の目の横の隙間に、一列に並んで刺さった。
竜が吠えて、首を大きくのけぞらせた。
私はすぐ、聖女様の前へ下がった。裾を、また小さな手につかまれた。
(……その掛け声、要りますの?)
要る。
視界の端で、広場の端の騎士たちが、こっちを見て固まっていた。何か、まじないの言葉でも聞いたような顔だった。その中から一人だけ、小さな影がこっちへ駆けだした。
のけぞった竜が、身をよじった。
(右)
長い尾が、横なぎに来た。
その先に、人がいた。
小柄な騎士だった。寝ぐせみたいに立った茶色の髪。体に合っていない、大きすぎる騎士団の上着。たぶん、十五かそこら。壇に駆け上がってきて、私の前に飛び出して、剣を構えていた。私を、かばうつもりで。
尾が、剣ごとその子をさらった。
小さな体が、宙に浮いた。
跳んだ。
空中で、その子の胴を抱きとめた。片手で裾を押さえて、壇の縁に降りた。足音は、ほとんどしなかった。息も上がっていない。ドレスにも、汚れ一つない。
「大丈夫ですか? 腕、動きますか?」
「う、動きますっ。お、俺が……お守り、しようと……」
「ありがとうございます。でも、守るのは、こっちの仕事なので」
腕の中で、男の子の顔が耳まで赤くなった。高校一年生くらいかな。モールのフードコートで、バイト初日に泣いてた子に似てる。
(あの子、邪魔ですわ)
守る対象です。
名札がないので、名前は分からない。あとで聞こう。
台座の脇から、もう一人、大柄な騎士が聖女様のほうへ回りこもうとしていた。同じ尾の先が、その胸を打った。
騎士は台座の向こうへ転がった。起き上がって、膝をついた。こっちへ、片手を上げて見せた。
行きたい。行けない。竜の頭が、まだ聖女様の上にある。
打たれた人のところへ行く前に、打たれる人を増やさない。順番は、変えない。
その代わり、急ぐ。
竜の頭が、また下りてきた。今度は、私の真上。
男の子を壇の縁に下ろした。「ここにいて」。聖女様の前に戻った。青い目が、私を見上げていた。
日傘を閉じて、両手で握った。
握った瞬間、手が構えを作った。また体が勝手に、と思った。違った。この構えは、私も知っている。
警戒杖。九十センチをこえる、警備員の杖だ。資格を取る講習で、構えと打ち方を習った。握ったのは、講習の二日間だけ。教官は「これを振る日は、たぶん一生来ない」と言っていた。現場に、まず置いてないので。
来ました、教官。異世界で。日傘で。
でも、そこから先は知らない。手首が勝手に返って、日傘の先が下へ沈んだ。警戒杖に、下から打ち上げる型はない。これは、日傘の型だ。
(打ち方は、わたくしの)
構えは、私の。
それきり、二人とも黙った。
竜の喉が、赤くなっていく。
顎が、落ちてくる。
静かだった。
下から、打ち上げた。
竜の頭が、跳ね上がった。
そのまま横倒しに、石畳へ沈んだ。地面ごと台座が揺れて、光る石を抱えていた鉄の枠が、ひしゃげた。石が台座の向こうへ転がり落ちて、石畳で欠けた。かけらが、光りながら散った。
広場の端で、誰かが剣を取り落とす音がした。
竜が、首を起こした。目の前に、転がった光る石がある。
竜は、それを、そっとくわえた。
そっと、に見えた。
翼が広がった。風が来た。竜は石をくわえたまま、北の空へ飛び去った。
青年誌なら、ここまでで見開きが三回は来ている。
……持ち逃げ?
被疑者、北へ逃走。特徴、大きい。鉄色の鱗、金色の目。光る石を一つ、口に。追跡は――
(追いますわよ)
喉が鳴った。足が、北を向いた。屋根まで跳べる、と体が言っている。
「待て」
声に出ていた。
警備員は、敷地の外まで追いかけない。追いかけるのは、警察の仕事だ。この世界の警察が誰なのかは、知らないけど。
(わたくしは、警備員ではありませんわ)
私は、そうなの。
足が、北から戻ってきた。
「狂犬が、竜に『待て』を……」
広場の端から、そんな声がした。違う。竜じゃなくて、自分の体に言った。……それはそれで、説明しにくい。
事故のあとは、けが人の確認。
広場へ目を動かしかけたところで、口が勝手に言った。無線のくせだ。
「……異常なし」
(異常だらけですわ)
駆け寄ってきた騎士の一人が、足を止めて、口を開けていた。
「……竜が、異常のうちに入らないのか」
後ろの騎士が、震える声で言った。「二十年ぶりの竜だぞ……」
着任初日なので知りません、と言いかけて、目が止まった。
台座の向こうの石畳。さっき膝をついていた騎士が、仰向けに倒れて、動いていない。
胸を強く打たれた人は、心臓が止まることがある。
「……じゃない。異常あり!」




