第1話 目が覚めたら、非常口がなかった
スマホのアラームを止めようとして、ベッドの柱をへし折った。
寝ぼけていたので、時系列で報告する。
何かが鳴っていた。仮眠明けのアラームだと思って、枕もとに手を伸ばして、握った。
ばきっ。
スマホは、そんな音を立てない。
次の瞬間、天井が落ちてきた。正確には、天井だと思っていた布が。
布の下で、手と足を動かしてみた。けが人、なし。私しかいないけど。
事故のあとは、けが人の確認。次に、逃げ道の確認。警備員の研修で叩きこまれた順番だ。
布から這い出すと、知らない部屋だった。
出口、扉が一つ。
煙の感知器、なし。
誘導灯、なし。緑の板の上で「非常口はこちら」と走っている、あの人がいない。見ると落ち着くのに。わりと心の支えなのに。
……ここ、どこの施設?
振り返ると、天蓋つきのベッドが、柱を一本なくして、布の屋根ごと傾いていた。柱の上半分は、まだ私の手の中だ。
……備品の老朽化だ。報告案件だ。
柱は、報告用に壁に立てかけた。
鳴っていたのは、窓の外だった。カーテンを開けると、よその家の屋根と、石の塔。塔のてっぺんで、鐘が揺れていた。電線が、一本もない。
窓を開けた。出口は二つになった。柱は一本減った。差し引き、プラスということにしておく。
柱を握っていた手が、目に入った。
指の付け根に、固いたこが並んでいる。毎日、何か重いものを握っている手だ。
それに、私の手でもない。
窓の外から、朝の空気が入ってきた。
焦げくさくない空気を吸いこんで、思い出した。
私が最後に吸ったのは、煙だった。
閉館したあとのショッピングモールで、火災報知器が鳴った。照明が全部落ちて、非常灯と、緑の誘導灯だけが残った。
最後の見回りの途中だった。おもちゃ売り場の棚の陰に、小学生くらいの男の子がしゃがみこんでいた。閉館の放送のあいだ、隠れていたらしい。
煙が下りてくる非常階段を、その子の手を引いて下りた。姿勢を低く。ハンカチは、その子の口と鼻に。私は袖で。踊り場の非常灯を、一つずつ数えながら。
いちばん下に、緑が一つ見えた。
一階の扉を開けて、その子を外へ押し出した。消防車の赤い光が見えた。
そこで、膝が床についた。
「……防災センター、こちら守谷。迷子一名、保護。避難、完了しました。どうぞ」
無線の返事を、私は聞いていない。
で、目が覚めたら、ベッドの柱を折っていた。
報告のあとに天蓋が落ちてくるとは、マニュアルには書いてなかった。
◇
扉が開いた。
入ってきたのは、銀の盆を持った、そばかすの女の子だった。茶色の三つ編みに、白い前掛け。
その目は、傾いたベッドを素通りして、私の顔で止まった。
盆の上で、カップがかたかたと鳴りはじめる。顔から、血の気が引いていく。
背筋を伸ばして、いちばん落ち着いた声を出した。
「どうされましたか? お怪我は?」
「ひっ」
盆が傾いた。
気づいたら、扉の前にいた。窓辺から四歩はあったはずの距離が、消えていた。右手が、盆を受けていた。ポットは盆の上。カップは受け皿の上。紅茶は、波一つ立っていない。
「……え、今の、私?」
二十五歳の私の膝なら、今ので三日は口をきいてくれない。
盆の上のカップは、向こうが透けそうな磁器だった。陶芸教室に通って二年の私の湯のみは、いまだに鈍器だ。
女の子は扉に背中を押しつけて、私を見上げていた。
その顔を見ていたら、名前が浮かんだ。
アンナ。
引き出しを開けたら、紙が一枚。続けて、ほかの紙もばらばら落ちてきた。
拾って並べたら、事故報告になった。
発生、三日前の夜。場所、どこかのお屋敷の夜会。事案、婚約破棄。若い男の人の声で、「婚約は、破棄する」。被害、シャンデリア一基と、悲鳴たくさん。当事者はそのあと、熱で三日寝こんだ。
当事者の呼び名も、一枚。
アイゼンハルトの狂犬。
青年誌の漫画なら、二巻あたりで主人公に倒される人の二つ名だ。
当事者の名前の欄だけが、空いていた。
つまり私は、引き継ぎなしで、知らない国の、知らない人の体に着任したらしい。
……始末書、何枚分だろう。反省文なら、たぶん原稿用紙が足りない。
(書きませんわよ、そんなもの)
え?
部屋には、私とアンナしかいない。今のは、アンナの声じゃない。家のぬいぐるみたちには毎日話しかけていたけど、しゃべり返されたことは一度もない。
熱の名残だろう。
盆を小卓に置いた。
まずは、お詫びだ。
警備員の敬礼は、室内ならお辞儀で、上体を十五度。お客様へのお詫びは、四十五度。新人研修の教官が、分度器みたいな目で見て回った角度だ。
今回の案件は、シャンデリア一基と悲鳴たくさん。四十五度に、気持ちで五度足した。
「ご迷惑を、おかけしました。申し訳ございません」
顔を上げると、アンナが前掛けを握りしめて、ぼろぼろ泣いていた。
「お、お嬢様が……わたしなんかに、頭を……」
え、泣かせた。謝ったら、泣かせた。五度、足しすぎた?
落ち着け。事故のあとは、被害の確認だ。
「あの……三日前の夜、私、あなたにも何かしましたか。叩いたとか。……噛んだとか」
狂犬らしいので、念のため。
「してませんっ」アンナは、首をぶんぶん横に振った。「お嬢様は、わたしには一度だって、手を上げたことなんかありません!」
シャンデリアを落とした狂犬が、侍女には一度も手を上げていない。
記録と、合わない。
さっきの、あの怯え方とも。
扉が、こん、こん、と鳴った。
入ってきたのは、背筋のまっすぐな女の人だった。灰色がかった金の髪をきっちり結い上げて、目を細めて微笑んでいる。
扉の陰から、眼鏡の痩せた男の人が顔を半分だけ出した。私と目が合った瞬間、引っこんだ。
「旦那様です」アンナが、涙声で言った。「隠れておいでです」
見れば分かる。
女の人のほうは、この体の母親だろう。
気をつけの姿勢になっていた。かかとをそろえて、つま先を四十五度に開いて、両手は体の横。上司が部屋に入ってきたら、私はこうなる。三年ぶんのくせだ。
母親の目が、私の足もとで、一度だけ止まった。
それから、にっこりした。
「お熱は、下がったようですね。オディール」
オディール。
名前の紙は、母親が持っていた。
「今日は、聖女様の祝福式です。三日前のことは、王都じゅうが知っています。だからこそ、顔を出すのです。何もなかった顔で、静かに」
何もなかった顔で、静かに。それなら得意だ。何も起きない一日を守るのが、私の仕事だった。
「承知しました」
アンナが、息をのんだ。扉の陰で、父親がもう一度引っこむ気配がした。
母親だけが、一拍、黙った。
「……承知、しました、ね」
私の言葉をなぞって、もっと深く微笑んだ。
「よろしい」
怒られた? 褒められた? 入社面接の面接官も、最後にこう笑った。受かった。
「アンナ。お出かけ道具を。日傘と扇子を、忘れずに。淑女のたしなみですから」
淑女のたしなみ。お茶会とか、刺繍とか、そういうのだろうか。
お茶会なら、少しだけ自信がある。ホテルのアフタヌーンティーの常連だったので。私の現場は二十四時間勤務で、休みがだいたい平日に来る。平日の昼は、どこもすいている。
この仕事を選んだ理由の半分は、正直、それだ。
向かいの席にぬいぐるみを座らせて、写真も撮る。淑女かどうかは、聞かないで。
母親は、壁に立てかけた柱に一度だけ目を止めて、窓の外の空を見た。
「近ごろは、空も物騒ですもの」
アンナが差し出した日傘は、重かった。
白いレースの、かわいい日傘だ。なのに、片手で持つと手首にずしりと来る。骨は、どう触っても鉄だった。
かわいいのに、鉄。
柄を握ると、手のひらのたこに、ぴたりと収まった。
この手、毎日これを握ってたんだ。……日傘を?
「いつもの日傘でございます」とアンナは言った。
扇子は、アンナが鞄にしまった。鍋の蓋みたいな音がした。
この世界のお嬢様は、日傘でたこを作るらしい。お茶会の自信が、少し減った。
(日傘のほかに、何を握りますの)
つり革とか。
……答えてしまった。熱の名残に。
出かける前に、鏡の前で長い黒髪を結んだ。鏡の中の、琥珀色のきつい目の美人と目が合った。思わず会釈した。向こうも、会釈した。
◇
祝福式の会場は、王都のまんなかの広場だった。
日傘を片手に、ドレスの裾を持って、馬車を降りた。とたんに、首の後ろが、ちりっとした。
とりあえず、覚えておく。
馬車が着いたのは、広場の西の端。正面の奥に、尖った屋根の聖堂。まんなかに背の高い石の台座があって、白い布をかぶった何かが載っている。台座の手前に、木で組んだ壇。
そして、人。端から端まで、人。
出口を数えた。背中に、西の大通り。右に、南の大通り。左は、細い路地ばかり。
ここで何か起きたら、詰まる。
なのに、私のまわりだけが空いていた。
私が一歩進むと、人が一歩下がる。私が止まると、人も止まる。きっちり、三歩。
「アイゼンハルトの狂犬よ」
「婚約者に噛みついたとか」
ひそひそ声は、三歩の外から。三歩の内側にいるのは、アンナだけだった。
私のまわりに、半径三歩の立入禁止区域ができていた。
設定したの、私じゃないんだけど。
壇の上には、白い衣の小柄な女の子が立っていた。淡い金の髪に、細い銀の冠。たぶん、あの子が聖女様だ。
その隣に、金髪をきれいに巻いた男の人が、いい角度で立っていた。誰かに見られている前提の立ち方だった。
「ヴェルナー様です」アンナが、私の後ろでささやいた。「レオポルト・ヴェルナー様。お嬢様の、前の婚約者様で……いまは、聖女様の」
「……誰?」
顔を見ても、引き出しから紙が一枚も出てこない。
私に婚約者がいたのは、人生で初めてだ。顔を覚える前に、破棄されていた。
(どうでもいい方ですわ)
……それは、そう。
鐘が鳴って、祝福式が始まった。
聖女様が両手を上げると、台座の白い布が、するすると外された。
鉄の枠にはめこまれた、ひと抱えほどの、つるりと丸い石が出てきた。真昼の光の中なのに、内側から淡く光っている。
誰かが言った。
「灯火卿からの贈り物だそうだ。これで、この広場は夜でも明るくなる」
そのとき、喉の奥で、ぐる、と音がした。
お腹が鳴ったのかと思った。喉だった。私の。
首の後ろに、さっきの何倍もの鳥肌が立った。右手の指が、勝手に日傘の柄を探している。目が、あの光る石から離れない。
(……いやな匂いが、いたしますわ)
あの声だった。低くて、きれいな声。この体の声に、少し似ている。
匂い? 焦げくさくは、ない。
今度は、熱のせいにできなかった。喉も、目も、声も、あの石のほうを向いている。
振り向くと、アンナが両手で口を押さえていた。
「お、お嬢様……?」
さっきの喉の音を、知っている顔だった。朝の怯え方と、同じ顔だ。声のほうは、聞こえていない。
「大丈夫」
たぶん。
頭の中の誰かに、言い聞かせた。待って。落ち着いて。今、何も起きてないから。
(起きますわよ)
……何が? というか、あなた、誰?
返事は、なかった。
◇
何も起きていない広場に、影が落ちた。
影は広場を横切って、また戻ってきた。
見上げた。
翼があった。
広場の幅の半分はある翼が、空を叩いていた。家二軒ぶんの胴。長い首。鉄みたいに光る鱗。
竜だった。
平日の朝の、がらがらの映画館で、こういうのは何頭も見てきた。全部、スクリーンの向こうにいた。
今日は、スクリーンがない。
咆哮が来た。聖堂の窓が鳴った。肋骨まで鳴った。
悲鳴があがった。人が、四方へ走り出した。左の細い路地に、人が一度に押し寄せる。入口で、押し合いが始まりかけていた。
広場の端で、騎士たちが剣を抜いた。抜いたまま、動けない。叫んでも、届かない。
金髪の男の人が、壇から飛び降りた。
振り返らずに、走って逃げた。
聖女様を、置いて。
置いていった。今、自分の婚約者を、置いていった。
私の体が、震えていた。
怖いからじゃなかった。
喉が鳴っている。首の後ろが逆立っている。足が、勝手に半歩前へ出た。体ぜんぶが、竜のほうへ行きたがっていた。
(行かせてくださいませ)
待って。
出てしまった右足を、引き戻した。
(あれは、竜ですのよ)
知ってる。
(でしたら、なおさら噛みますわ)
噛まない。だから、待って。
壇の上の聖女様は、見えている。竜は、まだ空の上だ。広場には、千人はいる。
まだ。まず、人。
息を吸った。お腹のいちばん底まで。この体は、息の吸い方を知っていた。
閉じた日傘で、背中の大通りを指した。
「落ち着いて、こちらへ。走らないでください!」
声が、思ったより遠くまで飛んだ。咆哮の下をくぐって、奥の聖堂の壁に当たって、跳ね返ってきた。
人が、振り向いた。
何人かが、私を見て、別の意味で固まった。狂犬だ、という顔だった。
いい。固まってくれれば、走らない。
「台座よりこちらの方は、西の大通りへ! 向こうの方は、南の大通りへ! 路地には、入らないで!」
細い路地は、一人が転べば、後ろの人が次々に倒れる。
「子どもとお年寄りが先です! 前の人の背中を、押さないで!」
剣を抜いたまま固まっている、若い騎士と目が合った。
「そこの騎士さん! 剣をしまって、南の入口の脇へ! 止めないで、流して! 外から入ってくる人だけ、止めて!」
騎士は一秒だけ口を開けて、剣を鞘に戻して、走った。
もう一人の騎士には、押し合いの始まった路地を、日傘で指した。うなずいて、走った。
「アンナ、私の後ろに」
「は、はいっ」
人の流れが、二つに分かれた。
頭の上を、翼の影が低く通った。流れが、ぐらりと揺れた。誰かが悲鳴をあげて、立ち止まりかける。
「止まらないで! 前へ!」
揺れが、戻った。
(……群れの追い方は、お上手ですのね)
牧羊犬みたいに言わないで。
喉が鳴った。日傘の柄を、握り直した。まだ。
路地の口では、騎士が両腕を広げて、人を大通りへ返している。
私の横を、西へ向かう人たちが流れていく。三歩の立入禁止区域は、もうどこにもなかった。
壇の上の聖女様は、まだ動かない。私は、目を離さない。
誰も、転ばなかった。
広場が、空いていく。
あの火事の夜は、ここまで見届けられなかった。
壇の上だけが、空かなかった。
聖女様は、台座の足もとに座りこんでいた。足がすくんで、立てないらしい。
竜が、下りてきた。
台座の向こう、聖堂とのあいだに、四本の脚で降り立った。石畳が、足の形に割れて沈んだ。広場ごと、地面が揺れた。
長い首が、台座の上の光る石へ、ゆっくりと下りてくる。
石のすぐ下に、聖女様がいる。
体の中で、何かが、ぴんと張った。
(今ですわ)
よし。行って。
(言われなくても)
壇まで、二十歩。
一歩目で、石畳を蹴った。ドレスの裾が、遅れてついてきた。二歩目で、壇の縁を蹴った。三歩目には、聖女様の前にいた。
日傘を開いた。開き方を、体が知っていた。手首を一度返しただけで、白いレースが、聖女様と竜の頭のあいだに丸く張った。
レースの向こうに、金色の目があった。
私の喉が、低く鳴った。
私は、いつもの声で言った。
「申し訳ございません。ここから先は、立入禁止です」




