第32話 走りどおしで、いいんです
(……八日、ですわね)
朝いちばん、寝台の中で、先輩が言った。
「先輩。その秒読み、毎朝やるんですか?」
返事はない。
下町の角で、私ははしごの脚を押さえている。
上では、フリッツくんが緑の灯籠を、吊るす高さに当ててみている。
「師匠! ここで、ありますか!」
「はい、そこ。矢印が、大通りを向くように」
灯籠の正面のガラスは、緑に塗ってある。塗り残した形は、矢印と、その向きに走る人。火を入れると、そこだけ白く光る。
夜会の宮殿に掛けたのと同じ、誘導灯。前の世界で、出口の上や曲がり角に光っていたしるしだ。
下町の角には、どこも壁を大きくえぐった、大人が三、四人立てるほどのくぼみがあって、奥に小さな石の祠が建っている。中に、古い聖人様の像と、ろうそくの火。
灯籠を吊るすのは、そのくぼみの脇の壁の、人の頭より高い所。
その祠の前で、おじいさんがほうきを止めた。
きのう角の家に頼んで回ったとき、おじいさんの家だけ、留守だった。
「……新しい聖人様かね」
「いえ、聖人じゃなくて、走る人です。矢印のほうが、出口で」
「出口へ、走ってらっしゃる」
おじいさんが、ゆっくり手を合わせた。
「人を逃がす、聖人様だ」
ちがいます。
そう言う前に、はしごの上でフリッツくんが胸を張った。
「師匠の、走る人であります!」
向かいの二階で洗濯物を干していたおかみさんが、身を乗り出す。
「フリッツんとこの師匠の、走る聖人様だってよ!」
声が、通りの向こうまで渡っていった。
……噂の足、私より速い。
「あの……この角に、掛けさせていただいても?」
「聖人様なら、いくらでも」
許しは、もらえた。聖人様として。
フリッツくんが、金具を壁に留めて、灯籠を吊るした。
きのう一日歩いて回ったら、どの家でも、灯火の夜は下町じゅうが夜の通りに出て見物する、という話だった。
しかも路地は細くて、曲がった先が行き止まりの所がやたらと多い。
夜に迷いそうな分かれ道を数えたら、十二あった。
だから、その十二の角に、出口のほうを指す灯りを掛ける。
本番が、いつ来てもいいように。
宮殿の巡回はオットーさんたちに頼んで、きのうから、騎士団長に借りた下町生まれのフリッツくんと、下町を回っている。
ガラスは下町のガラス屋さんがひと晩で塗ってくれて、壁から離して吊るす金具は、フリッツくんのお父さんの鍛冶場の作。
代金は、相談役のお給金の前借り。
初めてのお給金が、手もとに来る前に、全部、緑のガラスになった。
……お給金って、こういうものだっけ。
前の世界でも、わりとそうだったよね。
◇
昼までに十二の角に掛け終えて、フリッツくんは余った金具を鍛冶場へ返しに行った。
私は、一つ目の角から見て回る。
最初の角のおじいさんが、ほうきを持ったまま、ずっとついてくる。
そして角を回るたびに、灯籠の下のお供え物が増えている。
一つ目の角は、花と、丸パン。
推しの祭壇が、できはじめた。
次の角では、灯籠の金具に、花輪が引っかけてあった。
「火のそばは、だめです!」
花輪は、祠の屋根の上に、かけ直してもらった。
祠の中の聖人様の頭の上が、ちょっと華やかになった。
その次の角で、私は足を止めた。
灯籠の下から、路地の入口へはみ出して、椅子が一脚、置いてある。
「聖人様、走りどおしで、お疲れだろうからね」
前掛けのおかみさんが、にこにこしている。
やさしい。とても、やさしい。でも。
「走りどおしで、いいんです!」
(……走りどおしなのは、どなたかしら)
私は、ちゃんと休んでます。たぶん。
おかみさんに断ってから、椅子を戸口の中へ入れた。
「暗いと、人は壁を伝って歩くので、壁ぎわの物につまずきます。お供え物は、祠の前へお願いします」
「……休ませてあげないのかい」
非常口の走る人は、休まない。休んだら、困る。
それから、ろうそくの火だから、番もいる。
そう言いかけたら、おじいさんに先に言われた。
「祠の火の番は、角の家の持ち回りでね。百年、一度も火事を出してねえ」
見れば、くぼみの隅には水を張った桶があって、角の家の窓は、どれも祠のほうを向いている。
百年か。……前の職場の防火管理より、長くない?
走る人も、通りに誰もいない夜中だけは、番の人に消してもらう。番のいない火のほうが、ずっと困る。
そうお願いしたら、角の家の人たちが、わっと集まってきた。
「聖人様の火の番は、うちが」
「いや、うちだ」
「うちは、パンを出したよ」
取り合いになったので、番の順番は、角ごとにくじで決めてもらった。
当たりの家から、歓声が上がる。
動機はともかく、手順は完璧だ。
◇
昼すぎ、最初の角に戻ると、大通りの向こうから拍手と歓声が近づいてきた。
「灯火卿さまだ!」
穏やかな顔に、銀の混じった髪。
竜晶灯を王都じゅうに広めた、灯火商会の主。オーベルト侯爵だ。
灯火卿の指輪の小さな石で、首の後ろがちりっとする。
うしろには、灰色の上着の職人たちが、布をかぶせた鉄の灯りの枠を担いでいる。
角ごとに一つずつ、据えていくらしい。
枠のほうからは、何も感じない。
「これは、相談役殿。宮殿のお方が、下町までお運びとは」
「オーベルト侯爵。……枠だけ、ですか」
「石は、当日に入れます。楽しみは、一度に開けるものですから」
にこやかに言ってから、灯火卿は少しだけ声を落とした。
「聖女様のお返事が、まだでしてね。相談役殿から、ひと言いただけませんか」
「聖女様のお返事は、聖女様のものです」
「では、お待ちしましょう」
微笑みが、ひとすじも動かない。
灯火卿は、緑の灯籠を見上げた。
「ろうそくの灯籠ですね。……灯火の夜には、下町の灯りを、ろうそく一本残さず消していただきます。覆いを外す、その一瞬まで、真っ暗に」
……真っ暗?
「そのほうが、新しい灯りが、皆さんの目に美しく映りますから」
下町じゅうの人が、真っ暗な細い路地に、ぎっしり。
それ、いちばんやっちゃいけないやつでは?
「真っ暗な通りに大勢出るなら、出口のしるしは、消せません」
「暗いのは、覆いを外すまでの、ほんのひとときです。そのあとは、竜晶灯があります」
「消えたら?」
「竜晶灯は、消えません」
まったく迷わずに、にこりと言う。
この方は、本気で、そう信じている。
「誘導灯も、消しません」
灯火卿が、職人のほうへ目をやった。
職人の一人が、先の曲がった長い棒を、灯籠の金具へ伸ばす。
私は、その職人の前へ、一歩出た。
「この灯籠は、角の家の皆さんに許していただいて、掛けたものです。外すかどうかは、皆さんが決めます」
棒の先が、金具の手前で止まった。
私の横に、おじいさんが、ほうきを持って並ぶ。
「そいつは、走る聖人様の火だ。よそ様に消させるもんかい」
角の家々の戸が開いて、人が出てきた。
「消したら、罰が当たるよ」
「うちは、くじで番に当たったんだ!」
聖人じゃない、とは、いまは言わない。
訂正は、八日後。
灯火卿は、集まった顔を一つずつ見た。
それから灯籠を見上げて、帽子を取った。
走る白い人に向かって、深々と、頭を下げる。
「これは、失礼を。聖人様の火は、残しましょう」
「さすが、灯火卿さまだ!」
……非常口の人、出世しすぎでは?
職人が、棒を下ろした。
灯籠は、残った。
でも、真っ暗は、残ったままだ。
小さいほうを譲って、大きいほうは、一歩も譲っていない。
帰りぎわ、灯火卿は二歩離れたところで足を止めて、私にだけ聞こえる声で言った。
「民は、明るいほうへ集まるものですよ、相談役殿」
知ってる。
暗いところで、人は、明るいほうへ逃げる。
真っ暗な下町で、いっせいに覆いが外れたら、いちばん明るいのは、竜晶灯だ。
そのとき何かあったら、人は、出口じゃなくて、石のほうへ走る。
緑の灯籠は、見えなくなる。
この方は、それを分かっていて、言っている。
◇
日暮れ、私は、いちばん奥の、川港に近い鍛冶屋の角にいた。フリッツくんの家の角だ。
番の家の人たちが、祠の火から灯籠へ、火を移していく。
この角でも、緑の中を、白い人が走りだした。
「師匠。うちの角にも、灯りがつきました!」
フリッツくんが、鼻の下をこすった。
ちょっと、目にしみる。
子どもたちが灯籠を見上げて、通りの真ん中に集まってきた。五人。
明るいほうへ。……私の灯りにも、人は集まる。
そのとき、首の後ろが、ちりっとした。昼の指輪より、強い。
角の向こうから、車輪の音。
樽を積んだ荷車が、川港の船着き場のほうから曲がってくる。
子どもたちは、上を見ている。
私は、子どもたちと荷車のあいだへ一歩出て、片手を上げる。
馬の鼻先まで、二、三歩。
喉が、低く鳴った。
手が上がりきる前に、馬が首を跳ね上げた。
耳をぴんとこちらへ向け、鼻を鳴らして、四本の脚を突っぱって止まる。
……止まったの、私の手より先だったよね?
でも、次に驚いたら、走りだすかもしれない。
「御者さん、手綱を、そのまま」
灰色の上着の御者が、舌打ちしながら手綱を押さえた。
「落ち着いて、こちらへ。走らないでください」
「灯籠の人は、走ってるよ?」
「あの人は、走るのがお仕事なので」
答えながら、子どもたちを、荷車の入れない祠のくぼみへ寄せる。ろうそくからは、一歩離して。
ここで走ったら、馬がまた驚く。
一人、二人、三人、四人。
子どもが荷車から離れるほど、喉の音が小さくなっていく。
五人目がくぼみに入ったのを見てから、私も脇へ下がって、通りを手で示した。
「どうぞ」
荷車が、ごとごと出ていった。
樽は、六つ。
いちばん小さい子が、私の顔を見上げた。
「おねえちゃん、いま、おなか鳴った?」
「……鳴りました」
令嬢の名誉と引きかえに、先輩のことは守った。
子どもたちは、もう灯籠を見上げている。
小さな緑の灯りでも、これだ。……竜晶灯なら?
灰色の上着に、首の後ろのちりっ。……北の路地の樽屋さんの「毎晩」の、あの樽だ。
「フリッツくん、一緒に来て。行き先を見たら、すぐ戻るから」
「は、はいっ!」
角は今夜の番の家にお願いして、二人で荷車を追った。
荷車は、川港のそばの、窓のない石の倉の前で止まった。
私たちは、倉の向かいの軒下で足を止めた。扉まで、十歩ほど。
扉が開いて、荷車が中へ入っていく。
開いた扉から、灯りもないのに、白い光が通りへこぼれ出た。
フリッツくんが、私の袖をつかんだ。
首の後ろは、もう、ちりっどころじゃない。
喉の奥で、低い音が鳴りはじめて、止まらなくなった。
それでも、足は前へ出ない。
吠える前に、まず私に知らせる。先輩とは、そう約束している。
喉だけが、言うことを聞かない。
扉の前の見張りが、こちらに気づいて、声を張った。
「商会の倉です。灯火の夜まで、どなたも入れるなと」
私は一歩下がって、扇子を開き、口もとを隠した。
倉の見張りとして、正しい。
私には、ここを開けさせる権限がない。
閉まりかけた扉の向こうに、棚が見えた。
藁を敷いた棚に、丸い石が一つずつ、半分うずもれて並んでいる。
大事な割れ物の、しまい方? ……というより。
寝かしつけてある、みたいだった。
目が、勝手に棚を数えはじめる。
手前の棚だけで、四段。その奥にも、棚。その奥にも。
数えきる前に、扉が閉まった。




