第30話 指差し確認は、古代魔法ではありません
「扉、施錠よし」
東の廊下の扉の取っ手を一度引いて、開かないのを確かめてから、指で差して腕を振り下ろす。
「……扉、施錠、よし」
うしろから、こだまが返ってきた。
この廊下、こだまするほど広かったっけ?
振り向くと、帳面を抱えたイグナーツさんが、同じ扉を指差していた。
予備の眼鏡は度が一つ古いらしく、目がずっと細い。
指は、今日もインクで真っ黒だ。
「何してるんですか」
「採集だ」
「何の」
「相談役の、詠唱の」
採集。虫とか草とかの、あれ?
「この国の魔法は、指で差して、短い言葉を唱える」
「はい」
「相談役は、指で差して、短い言葉を唱える」
「……はい」
「しかも『よし』は、塔のどの魔術書にもない。古代語だ」
三段論法が、きれいに決まってしまった。
「証拠もある。きのう二回。消した布を差して『……よし』と言ったら、布は、爆ぜるまで一度も燃え返さなかった。九人を数えて『……よし』と言ったら、数が合った」
「見てたんですか」
「二回目は、眼鏡がなかった。聞いた」
そこは正直なんだ。
「だから、数えもれを防ぐ古代魔法だ」
数が合ってたのは、副団長がちゃんと数えたからです。
「詠唱じゃなくて、確認です。見て、確かめただけです」
「確認の、魔法か」
ちがう、そうじゃない。
イグナーツさんは、ペン先で帳面を叩いた。
「『いじょうなし』も、けさから三回集めた。あれは、どういう意味の古代語だ」
けさから? つけてたの?
「何も起きてない、って意味です」
「……何も、起きない」
眼鏡の奥の目が、すうっと細くなった。
「それが、いちばん強い呪文に聞こえる」
そこは、警備員としてちょっと分かるんだよね。
「では聞く。見ただけ、と言うなら、なぜ指が要る」
え。
なんでって、研修でそう習ったから——じゃ、学者さんには通じないよね。
◇
「……アイゼンハルト嬢」
廊下の角から、副団長が来た。手に、紙の束を持っている。
イグナーツさんが、すかさず近くの扉を指差した。
「扉、よし」
副団長の眉が、ぴくりと動いた。
「それは、数えるときの作法だ」
イグナーツさんが、即座に首を振る。
「いや、古代の詠唱だ」
「昨日、私は九人を数えるのに使った」
「知っている。数が合った。だから、数えもれを防ぐ古代魔法だと言っている」
「魔法なら、私には使えん」
「使えたではないか」
副団長が、黙った。
イグナーツさんの目が、眼鏡の奥でぱっと光る。
「魔術師でもない騎士に使える、古代魔法——!」
「両方、ちがいます」
副団長は咳ばらいをひとつして、私に向き直った。
「……昨日の件だ」
「はい」
「次は、一人で上がるな」
声が、いつもより低い。
「私、騎士団の部下じゃないですけど」
「……知っている」
副団長は、紙の束に目を落とした。
「だが、昨日は、数に入っていた」
残りは、二人だ。煙の中で、下から返ってきたあの声。
……真顔で言われると、ちょっと、くる。
「はい。次は、二人で上がります」
副団長はうなずいて、角の向こうへ戻っていった。
イグナーツさんが、帳面を閉じた。
「確かめる」
「何をですか」
「相談役の言う『見ただけ』が、本当かどうか。塔でだ」
それから、少しだけ早口になった。
「それに、本を寄せる約束だ」
きのう煙の階段で、イグナーツさんが言った「一緒に、だ」。……覚えてたんだ。
◇
昼すぎの魔術塔は、きのうと、まるで別の建物だった。
階段の踊り場ごとに、魔術師の方たちが、本を抱えて待っている。
人嫌いの塔が、一晩で手渡しの列。展開、早くない?
入口の外では、オットーさんとヨナスさんが、下りてきた本を受け取る係だ。騎士は、入れないので。
「始める前に、通り道とてっぺんを見ます」
オットーさんから水桶を一つ受け取って、私はイグナーツさんを振り返った。
「……二人で」
さっき言われたばかりだし。
それから、吹き抜けの下を指で差した。
「下、人なし、よし。……ヨナスさん、吹き抜けの下には、誰も立たせないでください。上から物が落ちることがあります」
入口の騎士たちが、ひそひそ言う。
「……詠唱だ」
今日は、そういう日らしい。
私が先に上ると、うしろのイグナーツさんは、段ごとに指を差して「よし」「よし」と唱えだした。
楽しそう。でも、見てない。数えてるだけ。
私は、ひと段ずつ、見て、差して、言う。
「段、よし。本、よし」
三階を過ぎると、首の後ろがちりっとしはじめた。てっぺんの石のせいだ。
四階の踊り場には、きのう置いてもらった木箱が、そのまま残っていた。
そのぶん、通り道が狭い。
木箱の横で本を抱えていた、四階のやせた魔術師さんが、私を通そうとして、吹き抜けの側へ下がった。
背中が、腰までの石の縁に向かう。
その縁に、細い線が一本、走っていた。
「縁、……ひび、あり。そこ、寄りかからないで!」
水桶を本の山のきわに置いて、二段とばしで、魔術師さんの帯をつかむ。壁のほうへ、引く。
魔術師さんの体が本の山に戻り、抱えていた本が、段にばらばらと散った。
かわりに、背中がかすった縁から、こぶしほどの石のかけらが一つ外れて、吹き抜けを落ちていく。
「落ちます! 下、けが人は!」
「誰も、いません!」
ごとん、と鈍い音のあとに、ヨナスさんの声が上ってきた。
さっき下を確かめておいて、ほんとうによかった。
ひびをのぞきこむと、割れ目の奥まで煤が入っていた。
たぶん、きのうの爆発で揺れたときのだ。
散った本を壁の側へ寄せて、木箱は部屋の中へ入れてもらう。
通り道が、やっと広くなった。
「縄、お借りします」
割れた縁は、押して試したりしない。
木箱の縄を、ひびのない所に結んで、ひびの前に渡す。
「ここには、寄らないでください。下の方にも、伝えて。四階の縁、ひび、寄らない」
魔術師さんが、下へ向かって復唱した。
「四階の縁、ひび、寄らない」
三階からも、二階からも、同じ言葉が返ってくる。
「直せるかどうかは、石の職人さんに見てもらいます。副団長にも、知らせます」
すぐ下の段で、イグナーツさんが固まっていた。
指が、まだ縁のほうを向いている。
「……私も、そこを差した」
かすれた声だった。
「よし、と言った」
「でも、見てなかったでしょう」
イグナーツさんが、黙った。
さっきの「なぜ指が要る」の答えを、いまなら言える。
「指で差すと、目がそこで止まります。口で言うと、耳でもう一回聞ける。……って、習いました。前にいた所では、指差呼称っていいます。ある実験で、間違いが六分の一くらいになったそうです」
「……六分の一」
イグナーツさんの声が、裏返った。
「誰が測った」
「……遠い国の、ええと、乗り物の会社の、研究する人たちが」
鉄道って、この世界にないんだった。
「魔法では、ないのか」
一拍。
がっかりさせたかな、と思ったら。
「……魔法より、すごいではないか」
え。
「人の目の誤りを、指と声だけで、六分の一に……!」
イグナーツさんは段に帳面を広げて、表紙の題をぐしゃぐしゃに消した。
書き直した題は、〔指と声による、見落としの減らし方〕。
論文になってる。
「指で差して、言え! 見落としが、六分の一だ!」
イグナーツさんが、吹き抜けに向かって叫んだ。
塔じゅうの踊り場で、魔術師の方たちが、いっせいに手の中の本を指差した。
「本、よし」
「本、よし」
「……本、よし」
「よし」が、ぐるぐる回る階段を、上から下までこだましていく。
……塔が、なにかの宗教みたいになってるんだけど?
いちばん下の入口では、オットーさんとヨナスさんまで、なぜか本の山を指差していた。
(……今の「よし」は、わたくしへの合図ではございませんわね?)
足が、半歩前へ出かける。
そういえば、先輩を放すときの合図も「よし」だった。
「待て!」
思わず、声に出た。
塔じゅうの「よし」が、ぴたりと止まる。ついでに、私の足も止まった。
イグナーツさんが、帳面の上でペンを構えた。
「……『まて』。それも、古代語か」
それは、また別のやつです。
◇
水桶を拾い直して、てっぺんの扉の前に立つ。
イグナーツさんが、自分から、手の甲を扉の上のほうに当てた。
熱は上にたまるので上のほうを、熱かったらすぐ引っこめられる手の甲で。
きのう私が「扉が冷えるまで、誰も開けないでください」と言った扉だ。
「扉、冷えて……いる。よし」
……見てる。ちゃんと、見てる。
私は扉の脇に立って、細く開けた。煙はない。火も見えない。焦げた匂いだけが、まだこもっている。
「天井、……焦げ、あり。落ちそうな物、なし。床、よし」
床のまんなかで、きのう畳んだクロスが、黒く縮んでいた。
火事の次の日は、灰の下で火が生きてることがあるので、念のため、クロスと卓の焦げ跡に水桶の水をたっぷりかけた。
じゅっ、とも言わない。よし。
棚の瓶を、イグナーツさんが一本ずつ指で数えた。
「一、二、三、四。四本、……割れ、なし。におい、なし。よし」
ちょっと待って。私より丁寧なんだけど?
四本は、あとで塔の外の日陰へ。
窓ぎわの台では、ガラスの覆いの中で、竜晶が三つ、きのうと同じ場所にあった。
三つとも、もう同じ明るさに戻って、何もなかった顔で並んでる。
喉が、鳴る。ぐる。
イグナーツさんは帳面を見てから、覆いを外して、いちばん左の一つを手に取った。いちばん長く、火であぶっていた石だ。
窓の光に、かざす。
「……影が、ある」
え?
触らないで、のぞきこむ。
石の中に、小さな影があった。
丸まっている。
琥珀の中の虫……にしては、眠ってるみたいな形。
「きのうは、なかった」
イグナーツさんはそう言ってから、首を振った。
「……いや。見ていなかったのかもしれん」
さっきの縁と、同じことを言ってる。
喉が、鳴りやまない。
「イグナーツさん。それ、指で差して、言ってみてください」
イグナーツさんが、石を指差した。
「石の中に、影。……異常、あり」
正しい使い方を、こんなに聞きたくなかったこと、ある?




