第28話 全部そろうと、燃えます
「帰れ」
扉を叩いたら、扉の向こうから、そう返ってきた。
まだ、名乗ってもいないのに。
魔術塔の扉には、古い札が打ちつけてある。〔許しなき者、立ち入るべからず〕。
……立入禁止の札を、貼られる側になった。
うしろでは、オットーさんとヨナスさんが、入口の外で気をつけをしていた。騎士は入れない塔なので、二人はここまでだ。
副団長も、塔の窓を見上げたまま、入口の外に残っている。
「王宮警備相談役の、アイゼンハルトです。防火の点検に、まいりました」
扉が、顔一つぶんだけ開いた。
煙と一緒に、咳きこむ男の人が顔を出した。
ぼさぼさの髪に、丸い眼鏡。袖は焦げていて、指がインクで真っ黒だ。
扉が開いたとたん、首の後ろが、ちりっとした。
「……狂犬か。帰れ」
名乗ったら、悪口がひとつ増えた。
「さっきの『どん』は、何でしたか?」
「成功だ」
成功。……爆ぜたのに?
「爆ぜ方が、予想どおりだった。だから、成功だ」
眼鏡の奥の目が、ちょっとだけ得意そうになる。
……学者さんの「成功」って、そういう意味なんだ。
「宮廷魔術師の、イグナーツだ。用は済んだな。帰れ」
「陛下に、宮殿の扉を見て回るよう、言われています」
「ここは扉ではない。塔だ」
「塔にも、扉があります」
私は、彼の手もとを見た。
「いま、あなたが開けている、それです」
イグナーツさんが、自分の手を見た。扉を見た。もう一度、手を見た。
「…………見るだけだ。触るな」
勝った。扉の理屈で。
うしろで、オットーさんが小さく拳を握るのが見えた。
……騎士の入れない塔に、相談役が、口だけで入る。
◇
塔の中は、思ったより狭かった。
石の階段が、壁ぞいに、ぐるぐると上へ伸びている。
一本だけ。
……逃げ道が、一本。上で火が出たら、上の人は、どこへ逃げるの?
しかも、段ごとに本が積んであって、階段の片側が、半分まるごと本の山だ。
「この本、端へ寄せてもいいですか?」
「触るな」
踊り場ごとに部屋があって、扉は開けっぱなしだった。
中には魔術師の方たちがいたけれど、誰も、顔を上げなかった。
二階に二人。三階に三人。四階に二人。
七人。人嫌いの塔の人数は、たぶん誰も知らないから、上りながら数えておいた。
階段は、百段をこえたあたりで数えるのをやめた。
この体は、息ひとつ乱れない。中身は二十五歳なので、気持ちだけは、ちょっと乱れている。
上るほど、首の後ろが、ちりちりしてくる。
(……いやな匂いですわ)
てっぺんの部屋は、実験室だった。
長い卓に白いクロスが敷かれて、その上に、フラスコの林が立っていた。
酒精のランプが、いくつも燃えている。理科室のアルコールランプの、もっと古いやつだ。
その火のすぐ横に、紙の束が積んである。
水桶は、ない。
卓の奥、窓ぎわの台には、ガラスの覆いをかぶせた、握りこぶしほどの竜晶が三つ並んでいた。
覆いのてっぺんは開いていて、一つは下からランプの火であぶられている。ほかの二つより、ずっと明るい。
ぐる。
喉が、鳴った。
「……今、喉が鳴ったか」
「気のせいです」
先輩、それ、石だよ? 人じゃないよ?
前にも、うちの門柱に置かれた竜晶の灯りで、先輩は鳴りかけた。ただの、山の石に。
……先輩、壊れてる?
先輩は答えず、喉だけが、低く鳴りつづけていた。
「火の横に、紙があります」
「紙は記録だ。記録は、火のそばで書く。目を離せんからな」
「火の下に、布があります」
「卓には、布を敷くものだ」
「水が、ありません」
「水は、実験の邪魔だ。こぼれる」
「なら、砂か、濡らした布を」
「……考えておく」
「一つずつなら、どれも理屈は通ってます。……全部そろうと、燃えます」
「燃えたことはない」
イグナーツさんは、胸を張った。
「爆ぜたことは、ある」
それを、燃えたことがある、って言うんです。
「熱を足すと、光が強くなる」
イグナーツさんが、あぶられている石を、眼鏡ごしにのぞきこんだ。
「もっと明るい灯りを、頼まれている。なぜ強くなるのかは……分からん。分からんから、調べている」
分からないことを、分からないと言った。……そこは、信用できる。
◇
「この石はな、温めるほどに——」
イグナーツさんが、卓の手前へ戻りながら、両手を広げた。
焦げた袖が、卓の手前の端のランプを、引っかけた。
ことん。
倒れたランプから酒精がこぼれて、クロスの、こちら側の縁のまんなかに、火が走った。
昼の光の中だと、酒精の火はほとんど見えない。
ゆらゆらした空気と、焦げていく布の色で、やっと分かった。
「……燃えた」
イグナーツさんが、記録するみたいな声で言った。
燃えたこと、いま、できましたね。
火は布を伝って、フラスコの林のほうへ這っていく。
フラスコの中身は、たぶん酒精と、よく分からない薬だ。クロスが燃えれば、上の全部が燃える。
「火です! 下がって。階段の口へ!」
イグナーツさんの腕をつかんで、私のうしろへ回した。階段を背にすれば、逃げ道は残る。
淑女のたしなみ、お茶会のクロスの替え方。
「お茶の途中でクロスを替えるときは、カップを一つも動かさないこと。上に何が乗っていても、同じですよ」
酒精のしみていない、乾いた両はしの角を、つかむ。指は、火の上に出さない。
手首だけで、一息に。こちらへ、下へ。
しゅっ。
燃えている端から先に、クロスが卓を離れた。残りの布が、フラスコの林の下から、すべるように抜けてくる。
フラスコは一本も倒れずに、卓の上に、林のまま立っていた。
クロスをドレスの裾から離して石の床に落とし、燃えていない側で、火を包みこむように畳む。
ぎゅっと押さえると、布の中で、火が息をやめた。
倒れたランプを起こして、ふたをかぶせた。
卓の上に手の甲をかざして、熱の残りを確かめていく。もう、どこも燃えていない。
フラスコの中で、液体が一度だけ揺れて、止まった。
上に何が乗っていても、同じ。……竜が乗っていても、ってことだよね、たぶん。うちの作法は、だいたいそう。
私は、畳んだクロスを指で差した。
「……よし」
「今のは、詠唱か?」
「いえ。確認です」
イグナーツさんは、卓のフラスコを見て、床のクロスを見て、私の手首を見た。
「摩擦より、速く引いた」
眼鏡を押し上げる指が、震えている。
「待て。記録する」
焦げた袖のまま、ペンを探しはじめた。
「記録より先に、水です。布は、表が消えても、中でくすぶりますから」
「もう一度、やってくれ。今度は、引く速さを数えたい」
「火が出たときだけです」
「では、火を——」
「出さないでください」
◇
イグナーツさんが、ペンを持ったまま、しばらく黙った。
「……分かっていた」
ぼそっと言う。
「階段の本も、ランプの下の布も。分かっていて、片づけなかった」
言いわけを、しなかった。
「水は、入口まで運んでもらって、私が上げます。階段の本は、あとで一緒に寄せましょう」
「…………一緒に、か」
「それと、いま、この塔に何人いますか?」
「知らん」
「下の階で見えたのは、七人です。あなたを入れて、八人」
イグナーツさんの眼鏡が、ずれた。
「……七人も、いたのか」
同じ塔で、何年いっしょに暮らしてるんですか。
「数えたのか。上りながら」
「はい。いつものことです」
庭で騎士の皆さんが言った「いつものです」と同じ言葉でも、こっちのは、燃えないほう。
窓ぎわでは、あぶられた竜晶が、さっきより明るくなっていた。
せめて、火だけは離したい。
私は、ランプのほうへ手を伸ばした。
「触るな」
今度は、声が違った。
「その石は、灯火卿からの預かり物だ」
竜晶灯の、あの侯爵。うちの門柱にも灯りを置かせて、お母様に断られている。
ぐるるる。
喉の唸りが、今日いちばん強くなった。石が三つ。近い。明るい。
(……あの石、嫌いですわ)
私は、手を引っこめた。
ここで勝手に触ったら、相談役じゃなくて、ただの狂犬だ。
「火だけ、離してください。……お願いします」
「あと一時間だ。一時間で、記録がそろう」
……一時間。火の横で。
「その一時間の記録、紙ごと燃えたら、一時間ぶん消えますよ」
イグナーツさんが、紙の束を見た。ランプを見た。
それから黙って、紙の束を、火から一番遠い棚へ移した。
「炎も、半分に」
「……半分だけだ」
ランプの芯が、ほんの少し下がった。
……半分って言ったのに。学者さんの「半分」は、だいぶ少ない。
「床のクロスは、紙から離して、石の床のまんなかに。目を離さないでください。水を持って、すぐ戻ります」
入口の副団長にも、この火のことを伝えないと。
階段を下りながら、四階の二人に「上で、小さな火が出ました。消えています。水を取りに行きます」と声をかけた。顔は、上がらなかった。
下りるほど、喉の唸りは低くなっていく。……それでも、やまない。
さっき、いちばん強く鳴ったのは、火であぶられて明るくなった石の前だった。……石が、明るいほど?
三階の踊り場で、足の裏が、震えた。
どん。
さっきの「どん」とは、比べものにならない音だった。
塔が揺れて、上から、石の粉がぱらぱら降ってくる。
見上げると、ぐるぐる回る階段の上から、煙が下りてくる。
灰色の、重たい煙。
前の職場の、最後の夜と、同じ色だった。
三階の部屋の中で、魔術師の方たちが、やっと顔を上げた。
私は下りの階段の口に立って、手のひらをそろえて、下へ向けた。
「火事です。落ち着いて、こちらへ。走らないでください」




