第26話 竜を、討ってください
北の路地は、入って三十歩で三つに分かれた。
右も、左も、まっすぐも、洗濯物の下をくぐる細い道だ。……どれ?
(……この奥、ですわ)
先輩、三本とも奥です。
しかも、土地勘がまるでない。この体の記憶をめくっても、北の路地は出てこない。
「師匠、どちらへ!」
「待って。いま、聞ける人を探してる」
そのとき、分かれ道の角の家で、二階の窓が開いた。
「あらまあ、狂犬様じゃないの」
白い頭巾のおばあさんが、身を乗り出している。屋根ごしに広場の見える、背の高い家の窓だ。二回目のとき、あの窓から拍手してくれていた。
「赤い上着の、七つの女の子を探しています。見かけませんでしたか?」
「見たよ。一回目の騒ぎのときだ。騎士さんの『竜だ!』で、窓をのぞいたらね」
「どちらへ行きました? 一人でしたか?」
「右の路地だよ。一人で、泣きながら走ってった。呼んだんだけどねえ、この足じゃ、下りていけなくて」
「出てくるのは、見ましたか?」
「見てないよ。あそこは樽屋の裏で、行き止まりだもの。樽屋さんは、広場の稽古に出てるしね」
行き止まりから、出てきていない。なら、まだ中にいる。
母親が指さしたあの赤い上着の子は、二回目に南の輪にいた。だから、この子とは別だ。
人の波から押し出された子は、人のいないほうへ逃げる。一回目、人がいなかったのは、北だけだった。
「空き樽が、山になってるよ。樽屋はこのごろ、夜まで樽を直しててね。川港の大きな店の注文だってさ」
行き止まりに、空き樽の山。いちばん聞きたくない組み合わせだ。
「ありがとうございます。この先は、私たちが見ます。窓から、出ないでくださいね」
「あいよ。拍手の用意して、待ってるよ」
「……拍手は、見つかってからでお願いします」
◇
右の路地の突き当たりが、樽屋の裏庭だった。
空き樽が、三段に積んである。
いちばん下に、口をこちらへ向けて寝かせた大樽が三つ。その上に二つ。てっぺんに、小さな樽が一つ。
まんなかの大樽だけ、ふたが外れていた。その口から、赤い布の端がのぞいている。
しゃくりあげる声が、樽の中で小さく響いた。
喉の奥が、すっと静かになる。先輩も、この子を怖がらせたくないらしい。
「ロッテちゃん?」
声が、止まった。それきり、樽は黙っている。
前の職場の最後の夜に見つけた男の子も、閉館の放送では、出てこなかった。
淑女のたしなみ、カーテシー。
右手で裾をつまんで、膝を沈める。お母様のお稽古では、竜の鼻先まで一歩で跳ぶための膝だ。今日は、樽の口の高さまで、沈めるだけ。
顔は、伏せない。迷子とは、目の高さで話す。
「ロッテちゃん。お母さんがね、待ってるよ」
「……りゅうが、くる」
樽の中から、かすれた声がした。
「騎士さまが、竜だって言った。みんな、走った。お母さん、ころんだ」
筋が、通っている。
「今日の竜はね、竜ごっこの練習なの。本物じゃないよ」
「……騎士さまは、うそ、つかないもん」
そうだよね。言葉が難しいんじゃない。この子は、騎士を信じている。
前の職場では、火災の放送を間違えて流したら、取り消しも同じ放送で流した。「確認の結果、異常はありませんでした」。間違いを出したところが、取り消す。
なら、取り消すのは、「竜だ」と叫ばせた騎士団長だ。
でも、迷子のそばは離れられない。離れたら、次はもっと奥へ隠れてしまう。
「フリッツくん、南へ。まずお母さんに『見つかりました。樽屋の裏の樽の中で、まだ出てきません』。それから、騎士団長に来てほしいって」
「はいっ!」
「それと、騎士団長の耳にだけ。……竜を、討ちに来てください、って」
「はいっ! ……え?」
フリッツくんは首をかしげたまま、全力で走っていった。
そのとき、足もとで何かが転がった。
木のくさびだ。まんなかの大樽を止めていたのが、這いこむときに蹴られて、ゆるんでいたらしい。それが、いま抜けた。
まんなかの大樽が、指一本ぶん、前へずれている。中で子どもが動くたびに、上の段が、こちらへ傾く。
「ロッテちゃん。そのまま、動かないでね。お話は、そこで聞くから」
裾をつまんだまま、私は左手を、そっと二段目の二つのあいだに添えた。てっぺんの小さな樽の、真下だ。
◇
路地いっぱいに、鎧の音が響いてきた。
「狂犬! 竜は、どこだ!」
樽の中の、しゃくりあげる声が、ひゅっと消えた。
「しーっ!」
騎士団長が、自分で言って、自分の口を鉄の手袋でふさいだ。
裏庭の入口に、騎士が八人と、若い母親と、日傘を抱えたアンナ。いちばん後ろで、フリッツくんが膝に手をついている。
「皆さん、入口で止まって。樽が、崩れかけています」
騎士たちが止まり、私を見て、ざわめいた。
「……狂犬が、樽に、礼をしている」
していません。……と言いたいけど、説明より樽が先だ。
「ロッテ!」
母親が、入口から叫んだ。
「お母さん、来ちゃだめ! 竜が、来る!」
樽の中から返ってきたのは、母親を守ろうとする声だった。
「騎士団長、こちらへ。お声は、半分で」
騎士団長が、ひとりで裏庭に入ってくる。つま先立ちで。がちゃ、がちゃ、がちゃ。忍び足の鎧って、こんなにうるさいんだ。
「竜を、討ってください」
「どこにおる」
「どこにもいません」
「では、討てん!」
騎士の理屈として、まったく正しい。
(……討つのでしたら、わたくしが)
先輩、張り合わないで。
「あの子は、騎士の『竜だ』を信じています。お母さんの声でも、出てきません。取り消せるのは、言わせた方の声だけです」
騎士団長の眉が、ぐっと寄った。
「わしに、竜を討ったと、嘘をつけと?」
「いいえ。嘘は、要りません」
騎士団長は、しばらく樽をにらんでいた。それから、沈めたままの私の膝を見た。
がしゃん、と石畳が鳴った。
王国の騎士団長が、樽の前で、片膝をついていた。
「……聞け」
半分にしたはずの声で、樽がびりびり震えた。……半分で、それ?
「今日は、竜はおらん。今日のは、稽古だ」
樽の中が、しんとした。
「竜だと叫ばせたのは、わしだ。お前の母が転んだのも、わしが走らせたからだ」
騎士団長が、頭を下げた。
「すまなかった」
入口の騎士たちが、息をのむ。私も、のんだ。
「二回目は、歩いた。誰も、転ばなんだ。もう、出てきてよい」
「……騎士さまが、あやまった」
樽の中の竜は、いま討たれた。
赤い上着が、もぞりと動く。
「あ、まだ……」
言い終わる前に、ロッテちゃんが樽の口から飛び出してきた。
まんなかの大樽が、ずるりと前へ滑り出て、私の膝に当たって止まる。
上の樽が三つ、こちらへのしかかってくる。
「ロッテちゃん、こっち!」
添えておいた左の手のひらに、三つぶんの重さがかかる。沈めたままの膝が、その重さを石畳へ逃がす。右手は裾を離して、飛びこんできたロッテちゃんを胸に抱きとめた。
……止まった。止まるんだ、これ。
「……樽の山が、止まった」
入口の騎士の一人が、かすれた声で言った。
「騎士団長、この子を」
騎士団長が、鉄の手袋の腕で、こわごわロッテちゃんを受け取る。
「皆さん、上から一つずつ下ろしてください。下からは、抜かないで」
「は、はっ!」
騎士たちが駆け寄り、てっぺんの樽から順に下ろしていく。最後の一つが下りるまで、私の左手は、樽の山の一部だった。
ロッテちゃんの頭と手足を見る。すり傷だけだ。
「よく、がんばったね」
「……団長が、謝った」
若い騎士の一人が、ぽつりと言った。
ロッテちゃんの泣き声がやんだとたん、喉の奥が、かすかに鳴りかけた。
(……この樽、あの石と同じ匂いが、少しだけいたしますわ)
空き樽なのに?
母親が、ロッテちゃんを騎士団長の腕から受け取って、そのまま座りこんだ。
「樽の中にいました。手のひらと膝に、すり傷があります。頭は打っていません。あとで、救護の場所で診てもらってください」
「は、はい……ありがとう、ございます」
ロッテちゃんは、母親の首にしがみついたまま、片手を伸ばした。騎士団長の鉄の手袋の、指を一本。つかんで、離さない。
迷子をお返しするときは、子どもが保護者のほうへ行くかを見る。……行った。しかも、騎士団長まで捕まえた。
「フリッツくん、西のオットーさんへ『見つかりました』を。騎士団長、お二人、南へお借りします」
「はいっ!」
「……行け」
見つかった、と知らせないと、みんな、ずっと探し続ける。
◇
帰り道は、ロッテちゃんの歩幅で歩いた。
分かれ道の下を通ると、二階の窓から、拍手が一つ降ってきた。
ロッテちゃんは、片手で母親の手を、片手で騎士団長の指を一本、握っている。騎士団長は、指一本ぶんだけ、ものすごく歩きにくそうだ。
「騎士さま。竜、いつ、やっつけるの?」
「……稽古を、してからだ」
今度の声は、ちゃんと半分だった。
南の集まる場所には、オットーさんが西の輪を連れてきていた。南を探していた騎士の皆さんも、戻っている。ヨナスさんが、名簿の最後の一人に、きれいな字で印をつけた。
「二百人、そろいました!」
騎士団長が、大きく息を吸った。
「稽古は、終わりだ!」
今度は、半分じゃない声だった。輪という輪から、拍手と歓声が上がる。
アンナは、母親の頭の上に、ずっと日傘を差しかけていた。鉄の骨の日傘を、片手で、ずっと。アンナの腕も、たいがい淑女のたしなみだ。
「一回目、四分半。二回目、二分四十。ただし、どちらも一人残らず、ではございません。……引き分け」
審判の副団長が懐中時計を閉じると、騎士たちがどっと息を吐き、オットーさんたちは、なぜか胸を張った。
「見つけたのは、お前だ」
騎士団長が言った。
「見つけたのは、窓のおばあさんです。出てきてもらったのは、騎士団長です。私の組も、一回目のあと、数え直していませんでしたし」
騎士団長は、しばらく黙っていた。白い髭の下で、口が何度か動く。
「北の路地には、騎士を、一人も置かなんだ。……洗濯場の階段にもな」
それから、私をまっすぐ見た。
「……巡回とは、何だ」
着任三日目。騎士団長に、初めて、教えを乞われた。
「誰も見ていない所まで、歩いて見に行くことです」
「……また、歩くのか」
騎士が二十人、そろって自分の足もとを見た。
「あのう、狂犬様」
前掛けの男が、輪の中から帽子を取った。
「樽屋です。うちの樽を、下ろしてくださったそうで」
「勝手に下ろして、すみません。下の段のくさびが、一本抜けていました」
「そりゃあ、危ないところを。……川港から戻ってきた樽でしてね。直して、今夜また川港へ運ぶんです。灯火商会さんの、北の鉱山の石の樽で。このところ、毎晩でしてね」
毎晩。……石、そんなに要る?
空き樽に、あの石の匂い。それが毎晩、川港から北の鉱山へ。
歩いて見に行く所が、ひとつ増えた。
先輩は、何も言わない。……こういうときだけ黙るの、ずるい。




