第25話 歩いていただいています
「狂犬様ー!」
中央広場に入ったとたん、町の人たちの手が、いっせいにこっちへ振られる。
王都で初めての避難訓練に、志願者が二百人も集まっている。騎士団長が、けさ物置に来る前に、もう町じゅうにお知らせを貼り出していたのだ。断る道、最初からなかったですよね?
前の職場の避難訓練は年に二回で、参加者はいつも、警備員のほうが多かった。
手づくりの旗まで揺れていて、布には扇子の絵が描いてある。それ、推しグッズじゃん。……推されてるの、私?
(……わたくしの扇子ですわ)
描かれてるの、たぶん私です。
けさの物置の打ち合わせは、ひどかった。
騎士団長は入口で鎧ごとつかえて、ほうきが一本倒れた。
「……入れん」
「では、廊下で」
廊下ごしに決めたのは、こうだ。同じ二百人を、一回目は騎士団長の組、二回目は私の組が逃がす。
審判の副団長が手持ちの鐘を一つ鳴らしてから、広場の外へ出きるまでを懐中時計で計る。
「走らせると、転びます」
「竜の前で、歩く民がおるか」
「では、転んだ方は、一人三十秒を足してください」
広場の出口は、西と南の大通りの二本。まんなかに石の台座があり、北の辺には細い路地の口が並び、東は聖堂だ。竜は北の空から来る、ということになった。
私の組は、ちょっと変わった七人だ。
「オットー、ただいままいりました!」
「ラルフです」
背の高すぎる人で、詰所では見張り台と呼ばれているらしい。
「……ベンノです」「クルト。留め具は、あとで直します」
眠そうな人と、鎧の肩の留め具がぶらぶらしている人。
「ヨナスです。十八です。字は、きれいなほうです」
いちばん若い人は、志願者の名簿を抱えていた。
「師匠ーっ!」
見習いのフリッツくんの声で、広場の鳩が全部飛んだ。騎士団長の「伝令なら、貸してやる」で、今日だけ私の組に来た。
それに、日傘を抱えたアンナ。
向こうの騎士団長の組は、騎士が二十人。全員の鎧がぴかぴかで、顔には「狂犬に負けるか」と書いてあった。
「騎士団長。南だけだと、詰まります」
「竜から、いちばん遠いのは南だ」
竜から遠ざけるのは、正しい。全員を一つの出口へ向けなければ、の話だけど。
「では、一回目のあいだ、私の組は救護に立たせてください」
「……勝手にしろ」
◇
鐘が、一つ鳴った。
「竜だ! 走れ! 南へ!」
二十人の騎士が、いっせいに叫ぶ。
二百人が、南の大通りへ走りだした。騎士の声は大きくて、速くて、迷いがない。
南の大通りの入口が、みるみる詰まっていく。
後ろが押すから、前は下がれない。悲鳴が上がって、人が三人、足のあいだに沈んだ。
一人は若い母親で、一人は、なんと騎士だった。自分で追い立てた流れに、自分で巻かれている。……それ、どういう状況?
(……行きますわよ)
行く。言われなくても、行く。
「足もとに、人がいます! 右へ! 左へ!」
群衆の中では、足もとが見えない。見えないものは、よけようがない。なら、見えるものを立てればいい。私を。
倒れた三人の前に立って、体を斜めにする。腕は胸の前で、押し返さない。
淑女のたしなみ、頭に本。
何があっても首と背中がぶれない体は、二百人ぶんの「早く」を肩で受けても、一歩も下がらなかった。
人の流れが、私のところで、川の中の岩みたいに二つに割れていく。
流れが過ぎてから、しゃがんで聞いた。
「頭は、打っていませんか? 首は? 息は、苦しくありませんか?」
「ひ、膝を……」
三人とも、膝と手のすり傷だった。オットーさんたちが、広場の外の救護の場所へ連れていく。治癒術士の方には、けさのうちに頼んである。
「……人の流れが、割れたぞ」
「竜殺しの家の、何かだ」
違います。お母様のお稽古です。……あ、それを竜殺しの家って言うのか。
「全員、出ました!」
騎士の一人が、空になった広場を見回して叫んだ。
「騎士、二十名、そろっております!」
別の騎士が、救護の場所の仲間まで指で数えて、胸を張った。
「……三分」
副団長が、懐中時計を読み上げた。転んだのは三人で、九十秒を足すと四分半になる。
救護の場所で、若い母親が身を起こした。
「む、娘は……?」
「赤い上着の子なら、先に出たぞ」
騎士の方が、外の人の群れを指して言った。母親は、ほっと息をついた。
赤い上着、と私も頭の隅に書きとめた。
◇
二回目の前に、志願の皆さんには、近くの方と十人くらいで輪になってもらった。
「隣の方の顔を、覚えてください。外に出たら、もう一度、隣の方を確かめます」
淑女のたしなみ、お茶会の席次。卓のどこに誰を座らせれば守れるかを読む、お母様のお稽古だ。
お茶会なら、お年寄りは扉からいちばん遠い上座に座る。
避難なら、扉にいちばん近い席だ。……席次が、まるごと逆になる。
お年寄りと小さな子ども連れの輪を、大通りの口のいちばん近くに並べた。十人ほどの輪が、お茶会の卓みたいに広場に並ぶ。
「……茶会の、布陣?」
騎士の一人が、首をかしげた。
「ラルフさんは、西の口で、手を上げて立っていてください」
「はっ!」
ラルフさんが片手を上げると、広場のどこからでも見える。見張り台、改め、誘導灯だ。
残りの皆さんにも、口と辺に一人ずつ立ってもらった。
「アンナは台座の前、私の隣。私がうなずいたら日傘を上げて。それが、次の輪の合図」
「承知いたしました!」
救護の場所から、若い母親が、南の口のそばの輪の、赤い上着に手を振っていた。輪の大人が、代わりに手を振り返した。
鐘が、一つ鳴った。
ベンノさんの目が、ぱちりと開いた。夜の門の三年で、鐘の音だけは体が覚えたらしい。
「落ち着いて、こちらへ。走らないでください。台座より西の方は西の大通りへ、東の方は南の大通りへ」
手のひらをそろえて、二本の大通りを示した。
あの日は、竜の咆哮の下だった。今日は、鳩の羽音の下で、ちゃんと落ち着いた声が出た。
私がうなずくたびに日傘が上がり、一つの輪が歩きだす。前の輪の背中は、押させない。
「竜だ!」
見物の子どもが、ふざけて叫んだ。
一つの輪が、走りだしかけた。
隣どうしで、手がつながった。さっき覚えた顔が、隣の顔を引きとめる。輪は、そこで止まった。
「路地には、入らないでくださーい!」
北の辺のフリッツくんの声が大きすぎて、路地の家の窓が三つ開き、おばあさんがなぜか拍手した。
騎士の列から、やじが飛んできた。
「遅い! 歩いてるぞ!」
(……言わせておけば、よろしいのですわ)
先輩が、大人だ。
「はい。歩いていただいています」
最後の輪が、大通りへ消えた。
「……二分と、四十。転倒、なし」
副団長の声が、少しだけ裏返った。え、二分?
広場が、しんとした。
「……歩いて、速い?」
騎士の誰かが、ぽかんと言った。
出口が二つなら、詰まらないので。走らせて転ばせると、遅くなるので。
大通りの先で、杖をついたお年寄りが、こっちに手を上げた。
「祝福式の日も、今日も、あんたの声で逃げた。どっちも、誰も転ばなかったよ」
あの日の広場に、この人もいたのか。
「師匠ーっ!」
フリッツくんが北の辺から跳んできて、審判台の副団長が、懐中時計ごと両耳をふさいだ。
オットーさんたちが鎧ごと抱き合って、クルトさんの留め具が、ついに外れて石畳を転がった。
騎士団長は、何も言わなかった。白い髭の下で、口が一文字になっている。
◇
でも、喜ぶのは点呼のあとだ。
前の職場の訓練も、最後に集まる場所で全員の顔を数えて、やっと終わりだった。
「点呼をします。輪ごとに、隣の方を確かめてください」
集まる場所は、二本の大通りを、それぞれ二十歩入ったところだ。西でオットーさんが輪を数え、フリッツくんが走って運ぶ。南の救護の場所の隣で、ヨナスさんが名簿を指でたどり、私はそれをのぞきこむ。
「歩いた百九十七人と、救護のお二人で……百九十九」
騎士の方は、名簿にいないので。
ヨナスさんのきれいな字の名簿に、一人ぶんだけ、印がつかないまま残った。
「一人、足りません」
ざわめきが、すっと消えた。
救護の場所で、若い母親が立ち上がった。
「ロッテ……ロッテ、七つです! 赤い上着の……あの輪の、あの子は……」
指さされた赤い上着の子は、弟らしい男の子の手を握って、きょとんとしていた。
別の子だ。
つまり、ロッテちゃんは、一回目のときから、ずっと誰の目にも入っていない。
騎士の「先に出たぞ」も、母親の手を振った先も、目で見ただけだった。
「……名簿か」
騎士団長が、ヨナスさんの手もとを見て、低く言った。
「……わしの、一回目か」
騎士団長の顔から、色が引いていく。
騎士は騎士を数えるけれど、民は、誰も数えていなかった。
……私も、一回目のあとに、名簿で数え直していない。
勝ち負けは、ロッテちゃんのあとだ。
「皆さんは、輪のまま、待っていてください。オットーさん、西の皆さんをお願いします。お母さんは、ここで。見つけたら、ここへお連れします。アンナ、そばにいてあげて」
それから、騎士団長に向き直った。
「南の大通りの先を、騎士の方で探してください。私は、北を見ます」
「……承知した」
「フリッツくんは、ついてきて。見つけたら、知らせに走って」
「はいっ!」
南は人が多くて、誰かの目に入る。でも、一回目の北は、誰も見ていない。
怖い子は隠れて、呼んでも出てこない。
北の辺に着くと、目が勝手に、いちばん東の端の路地の口を追った。
(……怯えた匂いが、いたしますわ。この奥の、路地ですわ)
早鐘の日と同じ、先輩の鼻だ。
竜の来るはずだった北へ、七つの子が一人で? しかも路地の奥は、枝分かれしている。
走らないでください、と言った口で、私は走った。




