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第23話 座ったままで、失礼いたします

 王様に、会釈をしてしまった。

 十五度。いや、十五度も、ない。


 エレベーターで、知らない人と目が合ったときの角度だ。


 お母様の背中のとおりに、膝を折ろうとしたのだ。膝が、途中で止まった。頭だけが、ちょこんと下がった。


 回廊の柱のあいだで、宮廷の人々が、ざわっと揺れた。


「狂犬が、陛下に、会釈を……」

「なんと、まあ」


 お母様の扇子が、ぱちん、と閉じた。怒った音か、笑いをこらえた音か。帰りの馬車で分かる。


 隣で、お父様の眼鏡が、鼻の先までずり落ちた。


 宮殿の中庭は、芝生の広場だった。まんなかに大きな木が一本。


 その木陰の白い卓に、王様が座っている。卓の横には、ポットを抱えた男の子。


 十歳くらいの、侍従見習いだ。王様の椅子の後ろに、近衛の方が二人。


 芝生をはさんで王様の卓の向かいに、騎士団長と、騎士の方が十人。


 いちばん端が、副団長。全員、鎧。全員、こっちを見ている。


 アンナは、日傘を抱えて、回廊の端。私の目の届くところに立ってもらった。


「申し訳ございません」

 背筋だけは、まっすぐにした。

「筋肉痛で、膝が、沈みません」

 中庭が、しんとした。


 狂犬が、筋肉痛。宮廷の人々が、そういう顔で目を見合わせた。


 伝説にも、太ももはあります。しかも筋肉痛は、二日目がいちばん痛い。


 王様が、私の膝をじっと見た。

 それから、吹き出した。

「夜会で、走ったそうだな」

「……少しだけ」

「少し、か」

 王様は、卓を指で、とん、と叩いた。

「座れ。膝が沈まぬなら、座っておれ」


 男の子が、ポットを卓に置いて、椅子を一脚、運んできた。卓の前、五歩のところに置いてくれる。


 王様の前で、着席。

 研修の、どこにも、ない。


(……王様の前で座るのは、わたくしも、初めてですわ)


 先輩も初めてなんだ。ちょっとだけ、ほっとした。


 男の子がお茶を注いで、受け皿ごと渡してくれた。湯気が、いい匂いだ。


 職業病で、中庭の出口を数えた。回廊が三つ。門が一つ。


 今日は宮殿の扉を全部数えるつもりで来たのに、最初に数えたのは、自分の膝の角度だった。


  ◇


「アイゼンハルトの娘。そなたを、王宮警備相談役に任ずる」


 相談役。


 前の会社で言えば、社長をやめた、いちばん偉いおじいさんが最後にもらう肩書きだ。


 年に一度、新年の挨拶でしか見たことがない。十八歳に配るものじゃない。


「宮殿の扉を見て回り、危ういところを、騎士団に教えよ。鍵は、騎士団のままでよい」


 振り向くと、芝生の向こうで、騎士団長の白い髭が、一度だけ動いた。扉を取られた顔だ。


「一つ、伺ってもよろしいですか」

「申せ」

「定時は、ありますか」


 木の葉が一枚、卓に落ちる音まで聞こえた。お父様が、お母様の袖をつかんだ。


 お母様は、扇子を開いて、顔の下半分を隠した。たぶん、笑っている。


「……てい、じ」


「決まった時刻に、次の方と交代して、帰ることです」


「守り手が、帰るのか」


「はい。一人で全部を守ろうとすると、いつか倒れます。倒れた日に限って、何か起きます」


 前の職場は二十四時間勤務だったけど、朝には次の班が来た。一人で抱えないのが、守る仕事の基本だ。


「蔵の帳簿と同じだな。一人に任せた帳簿は、いつか合わなくなる」


 話が早い。


「だが、守り手が日暮れに帰る国は、聞いたことがない。まずは、騎士団に、そなたのやり方を教えてやってくれ」


 ……早くなかった。


 騎士の方たちの鎧が、十人ぶん、がちゃりと鳴った。


「陛下」

 騎士団長が、一歩、前に出た。


「夜会の夜のことは、認めましてございます。ですが、宮殿の扉は、騎士団が百年、お預かりしてまいりました。騎士は、剣で認めた者からしか、教わりませぬ」


「ならば、ここで認めよ」

「では、わしが——」

「団長。私が」


 副団長が、列の端から一歩、前に出ていた。


 騎士団長が、じろりと副団長を見た。

「……お前は、狂犬と踊ったそうだな」

「踊っておりません」

 副団長の顎の傷が、ぴくりと動いた。

「かわしただけです」


 それ、ほぼ踊ってます。三拍子で一回りしました。


「それに、ほかの者では、怪我をします」


 どっちが怪我をするんですか、それ。

「行け。手加減は、するな」

「手加減は、相手に失礼です」


 副団長が、騎士の一人に預けていた、自分の木剣を受け取った。


 待って。話が、私を置いて、どんどん進んでいる。


「あの。私、打ちませんよ」

「打たずに、どう勝つ」

 王様が、聞いた。

「当たらなければ」


 研修で習った護身は、倒すためじゃない。当たらない所にいて、離れるためだ。


 ……今日は膝が言うことを聞かないので、離れられない。かわりに、扇子に働いてもらう。


 向き直ると、王様の口の端が、上がった。


「では、こうしよう。その茶を飲み干すまでに、ブラントの木剣が一度でもそなたに触れれば、騎士団の勝ち。扉は騎士団のまま、相談役の話もなしだ。触れなければ、そなたの勝ち。相談役と——定時をやろう」


 定時。


 目の色が変わったのが、自分で分かった。回廊の人々が「テイジとは、何だ」とささやき合っている。


「承知しました」


 勝負が、紅茶一杯ぶんになった。賭け金は、定時だ。


「オディール」

 お母様が、扇子の陰から言った。


「淑女は、お茶を、ひと口ずつ、いただくものですよ」


 一気に飲む作戦が、始まる前に消えた。助けてくれない。


「副団長様」

 回廊の端から、アンナの低い声がした。


「お嬢様のお茶を、一滴でもこぼしたら……」


 声のほうを見ると、日傘の先が、副団長の背中を向いていた。


 続きは、言わなかった。言わないのが、いちばん怖い。


 私は、座ったまま声を張った。


「皆さま、回廊の柱の内側へ。お父様と、お母様も。陛下、卓をもう少し、お下げに」


「わしは、ここで見る」


「では、私のうしろには、何も通しません。近衛の方は、陛下の前へ」


 近衛の方が二人、陛下の前に出た。

「ポットの方も、回廊へ」


 男の子は、首を横に振って、ポットを抱きしめた。


「へ、陛下のお茶は、ぼくの……」


 卓の横から二歩さがれば、木剣の間合いには入らない。私の正面も、横切らずに済む。


「では、卓の横から、二歩うしろへ」


 男の子は、二歩さがった。ポットは、抱えたままだ。


  ◇


 椅子ごと、くるりと回った。騎士の列のほうへ。それだけで、脚が抗議した。


 これで、王様の卓は、私の背中の五歩うしろ。陛下の前に、近衛の方が二人。


 卓の横の二歩うしろに、ポットの男の子。


 私は、椅子。左手に、受け皿とカップ。右手に、閉じた鉄の扇子。


 副団長は、剣先を下げて、五歩先。


「副団長。座ったままで、失礼いたします」


「……構わない」

 回廊の端で、侍従の方が、手を上げた。

「始め!」

 副団長が、消えた。


 消えてない。速いだけだ。五歩が、二歩になっていた。


 右から、来た。


 扇子を立てた。がつん。手首に、ずしんと来る。


 淑女のたしなみ、紅茶の作法。カップを波立たせずに、そのまま、ひと口。


 熱い。でも、おいしい。いい茶葉だ。そんな場合じゃない。


「あ、あと……七口……」


 回廊の柱の陰から、お父様の震える声がした。


 数えてる。口の数を。お父様、いま、いちばん要らない正確さです。


 二撃目は、上から。三撃目は、足もとへ。


 足もとは、椅子ごと半歩ずらして、よけた。立たない。立つと、痛い。


 回廊が、どよめいた。

「立ちもせぬ……」

「茶を、飲んでおる……」


 騎士の列の顔が、ひとつずつ変わっていく。にやにやしていた口が、閉じた。組んでいた腕が、ほどけた。


(……座ったままですの?)


 今日だけ、甘やかしてください。お茶会なので。


 四撃目、五撃目。受けて、ひと口。受けて、ひと口。


 ホテルのアフタヌーンティーで三段のお皿を攻略するより、ずっと忙しいお茶会だ。


 六撃目で、気づいた。


 打ちこみが来るのは、いつも「さん」だ。


 いち、で踏みこむ。に、で振りかぶる。さん、で来る。


 これ、ワルツだ。いち、に、さん、の三拍子で回る、あの踊り。


 夜会の夜、副団長と組んで、影の刃をかわした拍子だ。


 なら。


 いち、に、で、ひと口。さん、で受ける。


 がつん。

「あ、あと……四口……!」

 いち、に、で、ひと口。さん。がつん。

 楽になった。すごく。

 つい、口に出してしまった。

「副団長。剣が、三拍子です」

 副団長の顎の傷が、ぴくりと跳ねた。

 騎士の列が、揺れた。

「拍子を、読まれた……」

「副団長の剣を、数えておられる……」

 副団長の耳が、真っ赤だった。


「……あの夜から、拍子をそろえる稽古を」


 稽古? 拍子をそろえる?


 ワルツは、あの一回きりだ。ほかに、そろえた拍子といえば……夜会の前に決めた、扇子の合図? 開く、閉じる、開く。……三つ。


 まさか、あれを。毎晩。真面目か。


 副団長が、柄を握りなおした。

 いち、さん、に。……さん、いち。


 数えられない。自分で、拍子を崩してきた。


 ここからが、本物だ。

(……代わって差し上げましょうか?)

 まだ。お茶が、残ってます。


 扇子で受ける。受けるたびに、なんとか、ひと口。もう、ひと口。


 前髪が一本、ふわりと揺れた。触れた? 触れてない。たぶん、風だけ。


 背中に、冷たい汗が一筋。これは、中身の汗だ。


「あ、あと……ひと口……!」


 副団長が、低く沈んだ。狙いは、私の肩。


 いちばん速い、突き。


 閉じた扇子の先で、木剣の切っ先を、真正面から受けた。


 木剣が、くの字にしなった。

 ばきん。


 先のほうが、指三本ぶん折れて、跳ね上がった。毎晩の素振りで、傷んでいたのかもしれない。


 くるくる回りながら、私の肩の上を越えていく。


 うしろへ。


 見なくても、分かる。始める前に、数えた。


 陛下の前には、近衛の方が二人。


 卓の横の、ポットの男の子の前には、誰もいない。


 立って、振り向いた。


 太ももが、朝からためていた悲鳴を、まとめてあげた。


 先輩。一歩だけ。

(……一歩で、足りますの?)

 足ります。

 淑女のたしなみ、カーテシー。

 扇子を握ったままの指で、裾をつまむ。


 さっき、王様の前で、どうしても沈まなかった膝が。


 子どもの前では、すとんと沈んだ。


 芝が、靴の形にえぐれた。七歩を、一歩で。


 男の子の前で、受け皿を、落ちてくるほうへ少し沈める。


 扇子で払ったら、どこへ跳ねるか分からない。だから、受ける。


 こつん。


 木剣の先が、カップの隣に乗った。お茶菓子みたいに。


 紅茶は、揺れて、止まった。一滴も、こぼれていない。


 回廊の端で、アンナが、副団長の背中に向けていた日傘を、すっと下ろした。


「お怪我は、ありませんか」


 男の子は、ポットを抱えたまま、こくこくとうなずいた。


「ポットも、一滴もこぼしてないね。えらい」


 最後のひと口を、飲んだ。

「ごちそうさまでした」

 中庭じゅうが、息を止めていた。


 王様が、木剣の先と、私の顔を、順番に見た。


「そなたが立ったのは、一度だけか」


「陛下には、近衛の方がいらっしゃったので」


 男の子のほうを、見た。


「あの子の前には、誰も、いなかったので」


 回廊のどこかで、誰かが、息をのんだ。騎士の列の一人が、目を伏せた。


 副団長は、先の欠けた木剣を見て、それから、私を見た。


 私は、小さく言った。

「……異常なし」


 男の子が、震える手で、ポットを差し出した。


「お、おかわりは……」

 王様が、卓を叩いて笑った。

「おかわりは、またにしておけ」


 副団長が、先の欠けた剣を下げて、一礼した。


「参りました。……拍子の稽古は、やめます」


 ぜひ、やめてください。おかげで読めました、とは、口が裂けても言えない。


「で、ですが、団長! 木剣は、受け皿に触れました!」


 騎士の列の若い一人が、声をあげた。

 騎士団長は、振り向きもしなかった。

「黙れ。あれは、陛下の茶器だ」


 騎士団長は、白い髭を一度なでて、王様に頭を下げた。


「ブラントの負けにございます。騎士団の負けでは、ございませぬ」


 騎士の方たちを連れて、回廊へ去っていく。誰も、私を見なかった。


 騎士団長だけが、回廊の手前で、一度だけ振り向いた。カップの隣の、木剣の先を見ていた。


「約束だ。定時は、六時の鐘とする。交代の者は、騎士団から出させる」


「六時、ですね」

 定時が、ある!


 夕方の六時から、私の時間だ。お茶が飲める。誰にも、打ちこまれずに。


 心の中で、拳を突き上げた。顔には出さない。


 出ていた。お母様の扇子が、ぱっと開いた。


「オディール。木剣を受け皿で受けるのは、まだ教えておりませんでしたわね」


 まだ。……まだ?

 改めて、王様に深い礼をしようとした。


 膝が、沈まない。さっきは、すとんと沈んだのに。


 男の子が、ポットを卓に置いて、椅子を運んできてくれた。今度は、王様のほうへ向けて。


 座った。

「……座ったままで、失礼いたします」


 王様が、卓に突っ伏して、肩を震わせた。


  ◇


 新しい現場では、まず警備の控え室に顔を出す。ここなら、騎士団の詰所だ。


 それに、塀の上で捕まえたあの人も、たぶん、詰所の奥にいる。


 あの夜、そばにあった箱に、何が入っていたのか。本人なら、知っているはずだ。


 着任初日の足は、軽い。太ももは、重いけど。


 宮殿の西の門を出て、アンナと詰所へ向かった。


 石造りの、どっしりした建物。分厚い木の扉に、紙が一枚。墨が、まだ乾いていない。


〔狂犬お断り〕

 出禁にされた。着任、初日に。


 前の職場で、出禁の方に、丁寧にお帰りいただいたことは何度もある。


 あの方たちも、こういう気持ちだったのかな。……ちょっと、ごめんなさい。


 紙には、理由すら書いてない。私の名前も、ない。


 持ち場を取られる気持ちは、分かる。分かるけど。


(……字は、お上手ですこと)


 先輩は、どうでもいいらしい。問題は、隣だ。


 アンナが、日傘の柄を、ぎゅうっと握りしめた。


「アンナ、待て」

「……はい」


 はい、の声が低い。先輩より先に、アンナに待てを言う日が来るとは。


 扉を、三回、叩いた。


「失礼いたします。本日付で着任しました、王宮警備相談役の——」


 扉の内側で、かんぬきが、がちゃん、と下りた。


 定時は、ある。

 入口が、ない。

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