第22話 狂犬令嬢の握手会は、最後尾がこちらです
筋肉痛が、来た。
二日遅れで。
中身の年に、きっちり合わせて。
起き上がろうとした。腹筋が、悲鳴をあげた。
寝返りを打った。背中が、悲鳴をあげた。
腕を上げた。肩が、黙っていなかった。全身の筋肉が、一晩で労働組合を結成している。
(……情けないですわね)
誰の体だと思ってるんですか。
(……わたくしのですわ)
でしょうね!
首輪を外して走り回ったぶん、請求が全身に来ている。
階段は、一段ずつ下りた。下りがいちばんつらい。
右から、アンナが私の腕を取った。
「右は、わたしの持ち場です」
左から、ミレイユさんが取った。
「では、左は、わたくしの」
二人とも、私を見ていない。私の頭ごしに、お互いを見ている。
両腕をがっちり取られて、一段ずつ。捕まった宇宙人の写真みたいだ。
手すりも持てない。三人ぶんの足もとを見ているのは、私だけだ。
「オディール様。頭は、痛みませんか」
「痛いのは、首から下だけです」
踊り場で、お母様が待っていた。手に、本を一冊。
「淑女は、筋肉痛を顔に出しません」
拳の当たったこめかみを避けて、そっと、頭に本が乗った。
本は、落ちなかった。顔にだけ、全部出た。
朝食の部屋では、お父様が、紙を両手で広げて震えていた。
刷り物だ。前の世界で言えば、号外。
アンナが朝いちばんに町まで走って、買ってきたらしい。自分のぶんを、もう三枚、胸に抱いている。
いちばん上に、大きな字。
〔狂犬令嬢、婚約破棄の夜から暗殺者を見抜いていた〕
見抜いて、いた?
「よ、読むよ」
お父様が、震える声で読みはじめた。宮殿の門にいた大工の話では、狂犬令嬢が、逃げる賊を塀の上で捕らえた。
侍女が、あの夜の男だと申したそうな。
侍女の名前は、出ていない。よかった。
そこで、お父様の声が止まった。
「む、娘は……」
眼鏡が、ずれた。
「狂犬では、なかった、と。……書いてある」
お父様は、眼鏡を直さなかった。
お父様が、王様の前で震えながら言ったことだ。今朝は、王都じゅうの字になっている。
お母様は、何も言わなかった。刷り物の「狂犬では、なかった」のところを、指で一度だけ、なぞった。
アンナは、胸の三枚をぎゅっと抱いて、天井を見ていた。泣くのを、こらえている顔だ。
(……くすぐったいですわ)
小さな声だった。
よかったですね、先輩。王都じゅうで、ですよ。
少し、間があった。
(……半分、ですわ)
半分?
答えは、なかった。
そこへ、門番さんが呼びに来た。顔色は、青くない。困った顔だ。この顔、前にも見た。
「お嬢様。門が……また、開きません」
◇
門の外が、人で埋まっていた。
町の人。子ども。お年寄り。日傘を差した若い令嬢たち。
籠を抱えた花売り。刷り物を売る声まで混ざっている。そして、花。花。花。
前は、元婚約者が一人で門を埋めた。今朝は、一人が一本ずつ。
そっちのほうが、多かった。
「狂犬様だ!」
「本物だ!」
「お顔を、ひと目!」
格子が、きしんだ。いちばん前の人たちの胸が、格子に押しつけられはじめている。
まずい。前の人は、押されて息もできない。後ろから、下がってもらわないと。
人混みの整理は、私の資格とは別の区分だ。……でも、ここは私の家の門だ。
悲鳴をあげる腹筋で、お腹の底まで息を吸った。
「いちばん後ろの方から、一歩ずつ、お下がりください!」
声が、坂の下まで届いた。
「前の方は、格子から手を離して! 押さないで!」
「塀にそって、一列で、お並びください!」
後ろから、少しずつ、重さが抜けていく。格子から、胸が離れた。
格子の前にいた子どもは、近くのおじさんが抱き上げてくれた。
並んだ。言ったとおりに。この王都、ちょっと素直すぎない?
前が空いたのを見てから、門番さんと門を片側だけ開けた。花は、通り道に置かずに、桶へ。
「アンナ。板と、炭を。『最後尾』って書いて」
「は、はいっ!」
アンナは板に炭で大きく書くと、裏門から回って、列のいちばん後ろへ札を届けにいった。
「次の方がいらしたら、この札を、お渡しくださいませ」
物販の列で覚えた作法が、役に立つとは。戻ってきたアンナと、卓の横に並んだ。
お父様は、門の内側に卓を出して、角のそろった帳面を開いていた。うちの来訪者名簿だ。
「お、お祝いの方の、記帳を、こちらで」
総務部長、朝から通常営業だ。
「お済みの方は、左の塀ぞいに、坂の下へ。列には、戻らないでください」
列の先頭のおばあさんが、両手を差し出した。
「握手を。孫に、自慢しますので」
握手会だ、これ。
推しの握手会には、並んだことがある。並ばれたことは、ない。
握った。筋肉痛の右腕に、ずきん、と響いた。
次の人。ずきん。次の人。ずきん。
推しも、こんなに痛かったのかもしれない。あの笑顔、すごかったんだな。今さら、尊敬が深まる。
隣で、ミレイユさんが、握手がひと呼吸をすぎるたびに、相手の手をそっと外しはじめた。
「おひとり、ひと呼吸までですわ」
握手会で、時間が来たら手を離させる係。剥がしまで、できた。
私の腕には優しい。ほかの手には、容赦がない。手のひらが、ずっと光っている。
列の三番目で、目が止まった。
男が二人。一人が、前の婦人に肩で軽くぶつかった。
婦人がよろけて、振り向く。そのすきに、もう一人の手が、婦人の手提げの口へ、すべりこんでいく。
みんなが、私を見ている。だから、誰も、自分の手提げを見ていない。
スリだ。
先輩の喉は、静かなままだ。
体が、先に動いていた。婦人の手提げの上に、手の甲を上にした私の手が、ふわりと降りる。
お手の作法。気がつくと、その指が、男の手首を、折れない角度で包んでいた。
「痛っ」
言ったのは、私だ。肩が。
「い、痛いのは、こっちで……」
男は、私の顔を見て、真っ青になった。
「た、食べないでください……!」
「食べません。いま、私も、痛いので」
男のもう片方の手を見た。何も持っていない。
男の指から、財布が、ぽとりと手提げの中へ戻った。
「お怪我は、ありませんか。お財布は、ご自分で、中まで確かめてください」
婦人は手提げをのぞいて、こくこくとうなずいた。
ぶつかったほうの男が、列から逃げだした。
「その方も、お連れです! 茶色の帽子の方!」
男の背中へ、手のひらを向けた。
すぐに、止まった。男の両腕を、魚屋さんと、さっき握手したおじいさんが、がっちりつかんでいた。
「狂犬令嬢の前で、スリとは!」
「列を、乱すな!」
そっちで怒るんだ。
「押さえるのは、手首と肩だけで。殴らないで。列の皆さまは、その場で」
手首を取っていた男は、門番さんに預けた。二人とも、人目のない詰所の前へ。お父様が、下男を騎士団へ走らせた。
捕り物がすんでも、誰も列を離れなかった。
ちょっと、泣きそうだ。筋肉痛で。たぶん、筋肉痛で。
◇
列の横に、馬車が一台止まった。扉を開けた従者は、灰色の上着だった。
きのうの証言と、同じ灰色。でも、灯火商会なら、みんな着ている。
降りてきたのは、銀の混じった髪の、穏やかな顔。首の後ろが、ちりっとした。指輪だ。
灯火卿だ。
「おめでとうございます、アイゼンハルト嬢。いえ、列には並びませんよ。お祝いの品を、届けに来ただけです」
握手は、止まった。
灯火卿は、馬車の扉の横から、こちらへは来なかった。
従者が、布をかぶせた手提げの灯りを、列のない側の門柱の、腰の高さの石の上に置いた。布を取って、二歩さがる。
ガラスの中で、石が光っていた。持ち歩きの灯りにしては、大きな石だった。握りこぶしほど。
喉が、鳴りかけた。
首の後ろが、ぞわりと立つ。目が、勝手に、灯りへ吸いよせられる。
指輪のほうじゃない。誰の手にもない、門柱の灯りへ。
(……その灯り、嫌いですわ)
聞きました。……ちょっとだけ、待って。
扇子を、ぱちんと開いた。鉄の音で、喉の音を隠した。
それに、置いて、さがる。前の職場なら、贈り物じゃなくて、不審物の置き方だ。
灯りをのぞきに、男の子が一人、列から抜けてきた。
「列は、こちらです。少しだけ、お戻りください」
男の子は、素直に戻った。
門の内側から、お母様が出てきた。灯りと私のあいだに、ふわりと立った。
「まあ、ありがとうございます。でも、わたくし、ろうそくの灯りが好きですの」
手もとの扇子が、ほんの少しだけ、閉じた。
「存じております」灯火卿は、穏やかに笑った。「では、お嬢様のお部屋にでも」
「この家は、どのお部屋も、ろうそくですの」
お母様も、笑っていた。
列に戻った男の子が、灯りを見ながら聞いた。
「りゅうしょうって、竜の?」
灯火卿は、男の子にやさしく答えた。
「北の門の先に見える、竜の峰。あの山の鉱山から出る石だから、竜晶と呼ぶんだよ」
山の名前の、石か。
それを聞いても、首の後ろは収まらない。
灯火卿が、私のほうを向いた。
「侍女殿のお話は、私の耳にも届いております」
灯火卿の目が、卓の横のアンナで、一度だけ止まった。
刷り物に、侍女の名前は、出ていなかった。
私は、開いたままの扇子ごと、灯火卿の目とアンナのあいだへ、一歩入った。
「狂犬は、よく見抜く」
灯火卿は、微笑んだ。丁寧で、柔らかい声。うちに入った夜盗が、まねをした声に、やっぱり似ている。
「……恐れ入ります」
扇子の陰で、それだけ返した。
お母様に断られた灯りを、従者が布で包んだ。喉が、すっと引いた。
首の後ろのちりっ、だけが残った。指輪のぶんだ。
灯りを抱えた従者と、灯火卿が、馬車に乗った。馬車が、塀の角を曲がると、それも消えた。
財布を抜く手には、鳴らなかった。
誰の手にもない灯りには、鳴った。
石にも鳴るのは、前からだ。「暗殺者を見抜いた」だけでは、合わない。先輩の「半分」は、たぶん、そこだ。
あの夜の箱に、何が入っていたのか。そこを、知らない。
◇
考えこむ暇は、なかった。
金の飾りの馬車が、列の横に止まった。首の後ろが、ちりっとした。
この馬車の灯りとは、もう顔なじみだ。
巻いた金髪が、両腕いっぱいの花束を抱えて降りてきた。
そのまま列の横を、先頭まで、すたすた歩いてくる。
「オディール! 夜会の夜、君の言ったろうそくのほうへ、ちゃんと行ったよ。だから、今日くらいは、並ばなくても——」
受付の顔と、受付の声で言った。皆さまと、同じに。
「最後尾は、あちらです」
列のあちこちで、小声がした。
「刷り物の、婚約破棄の、あの方よ」
「しっ」
ヴェルナー様は、花束の陰で胸を張って、列の横を最後尾へ歩いていった。
列は、門から塀の角まで、二十歩ほど。その角から、聞き覚えのある、軽い声がした。
「やあ、ヴェルナー家の嫡男。ここは、並ぶ家だよ」
顔を上げた。
最後尾の札を両手で持っていたのは、目立たない上着の殿下だった。
同じく目立たない身なりの近衛の方を、二人、後ろに連れて。
「並ぶのは、初めてだ。……楽しいね。それに、アイゼンハルト嬢の列だ。王都でいちばん安全な列だろう?」
半分じゃない笑い方だった。
夜会から、まだ二日。王子様が、うちの門の最後尾に。
……胃が、痛い。先輩の喉がしんとしているのだけが、救いだ。
殿下は、札を、ヴェルナー様の手に渡した。
「この札は、次に並んだ者に渡すものだそうだ」
ヴェルナー様は、花束と、最後尾の札を、両方抱えて立ちつくした。花束の陰で、目がまんまるだった。
(……あの方、楽しそうですわね)
札を渡すだけで、あんなに。
列が進んで、殿下の番が来た。
殿下が、握手の手を差し出した。ひと呼吸。
「おひとり、ひと呼吸までですわ」
ミレイユさんが、殿下の手を、そっと外した。
殿下は、外された自分の手を見て、目を輝かせた。
「……剥がされた。初めてだ」
ちりっ、と来た。殿下の懐の、いつもの。……あれも、たぶん、山の石だ。
殿下は、お父様の帳面を、何枚も戻した。「退屈」の頁の、空いた行に、小さな字で名前を書いた。それから、用件の欄に、一文字。
〔礼〕
何行か上に、同じ小さな字の「退屈」があった。
「殿下。ご用件の欄が、『礼』になっていますが」
「気分を書くな、と前に言われたからね。これは、気分じゃない」
殿下は、帳面から顔を上げた。
「命の礼だ。夜会の夜の」
顔が、かっと熱くなった。
「きょ、恐縮です。身に余る……光栄で……ございまして……」
敬語が、どんどん硬くなる。止まらない。このままだと、そのうち石になる。
「『お客様』と、言わなかったね」
……あ。
言ってない。
やった。きのうから、気をつけていたのだ。
ほっとした瞬間、口が勝手に動いた。三年ぶんの、お見送りの口ぐせが。
「またのお越しを、お待ちしております」
殿下が、目を丸くした。それから、肩を震わせて、吹き出した。
「……惜しい」
口ぐせは、まだ止まらなかった。
「お帰りは、門の内側から、裏へどうぞ。近衛の方と、ご一緒に」
「承った」
殿下は、ペンを置いて、灯火卿の馬車が曲がった塀の角を、一度だけ見た。半分の笑いが、消えていた。
それから、いつもの顔に戻った。
「それと、父上から。明日、宮殿へ。宮殿の扉を、全部、君に預けたいそうだ」
「……全部、ですか。十二の扉の間も?」
「全部だ」
王様へのお辞儀が、今の膝でできるだろうか。
でも、それより。
開かずの扉も、全部だ。宮殿には、何枚あるんだろう。
数えたい。
腕が鳴る。
……いや、鳴っているのは、筋肉痛だ。




