第21話 塀の上までは、敷地の中です
朝ごはんの席で、お母様に、好きな色を聞かれた。
身構えた。
この家で、お母様がにこにこして何か聞くときは、たいてい、次にカップが飛んでくる。
受け皿を、そっと手もとに引き寄せた。
膝は、もう笑っていない。筋肉痛も、まだ来ていない。……まだ。
卓の端では、お父様が、お客様の名前を書き出した紙の束を抱いたまま、眠っていた。
三回、数え直したらしい。眼鏡が、鼻の先までずれている。
隣のミレイユさんは、朝まで私の枕もとにいて、頭は痛くないか、吐き気はないかと、何度も聞いてくれた。どちらも、なかった。
アンナは、私の椅子の後ろに立っている。
お母様は、紅茶のカップを、両手で包んでいた。
投げる持ち方じゃなかった。
「オディール。あなたの好きな色は、何かしら」
もう一度、聞かれた。カップは、両手の中のままだった。
「……緑、です」
誘導灯の色だ。先輩の好きな色も、同じ。
隣で、ミレイユさんの手のひらが、ぽうっと光った。
白い光だった。緑には、ならなかった。ミレイユさんは、少しくやしそうに、自分の手を見た。
後ろで、アンナが、お出かけ道具の鞄の口をそっと開けた。たぶん、刺繍箱の緑の糸を数えている。
お母様は、目を細めた。
「緑」
それだけ言って、少しのあいだ、カップの中を見ていた。
「小さいころも、刺繍の糸は、いつも緑から取りましたわね」
それから、小さな声で足した。
「……聞いたことは、一度もございませんでしたけれど」
喉の奥で、小さな音がした。
くう、と。
唸りじゃない。謁見の間で、お父様が王様の前に出て「娘は……狂犬では、ございません」と言ったときと、同じ音だった。
鳴らしたのは、私じゃない。先輩だ。
お母様が、カップを受け皿に戻した。かちり、と、かすかに鳴った。
花で門が開かなかった日、先輩は言った。好きな色を、一度も聞かれなかったと。
先輩。聞かれましたね。
先輩は、何も言わなかった。
喉の奥で、もう一度だけ、くう、と鳴った。
◇
朝ごはんのあと、宮殿へ向かった。
前の職場の催事でも、片づけの日は、知らない人と大きな荷物が、いちばん多く門を出た。
それに、扉を数えていたあの人は、まだ見つかっていない。
馬車の向かいで、アンナが、日傘とお出かけ道具の鞄を抱えている。
窓の外を見ながら、心の中で言った。
先輩。ゆうべの約束。聞きます。
少し、間があった。
(……まだ、言葉に、なりませんの)
いつもより、ずっと低い声だった。
じゃあ、言葉になるまで、待ちます。
待て、は、もともと私の言葉だ。自分にかけるのは、初めてだけど。
宮殿の正門は、半分だけ開いていた。
門の内側に、帰っていく人の列が一本。夜会のために町から来た楽師さんたちと、花屋さんだ。
最後尾には、騎士の方が一人。園遊会の朝の門の、名残だ。
列の先頭で、騎士団長が、侍従の人と並んで、出ていく人の顔を一人ずつ見ていた。
「狂犬。何をしに来た」
「夜会の片づけを、見に来ました。催事は、片づけが終わるまでが、催事なので」
「……さいじ」
「水路の格子が、前もって外してあった。給仕は、あそこから外へ出たのだろう。外なら、王都の門で捕まる」
前もって。
あの人は、わざとご婦人の足もとへ刃を落とした。火をつけて、広間じゅうの目を集めた。
「前もって外せる人なら、外したように、見せることもできます」
騎士団長の目が、細くなった。
「わしも、そこが気に入らん。だから、ほかの門を閉めて、ここで顔を見ておる」
「お前は、あの男の顔を見たな」
「はい」
「門に立て」
「承知しました」
騎士団長の髭が、ひくりと動いた。
「なぜ、うれしそうな顔をする」
「門は、出入りがいちばんよく見えるので」
「……狂犬め」
壁ぎわの次は、門。持ち場が、だんだん、いい場所になっていく。
列は、もう十歩ほどしかない。私は、最後尾の騎士の方の隣に立った。
並ぶ人は、みんな、私の前を通る。門の右手の塀ぞいに、厩。
塀の向こうは、町へ下りていく通りだ。
アンナは、門の脇で、日傘と鞄を抱えて待っている。
持ち場に立ってすぐ、宮殿のほうから、近衛の方を一人連れた人が来た。栗色の髪。
殿下だった。
「アイゼンハルト嬢。昨夜の、その……」
殿下は、そこで一度止まって、言い直した。
「昨夜の、礼を——」
「殿下。少々、お待ちください。いま、持ち場ですので」
殿下は、しばらく私を見ていた。
「……君には、門の前で待たされてばかりだ」
「近衛の方の後ろで、お待ちください。昨夜の給仕の方が、まだ、見つかっていないので」
殿下は、近衛の方の後ろの、門柱のそばに立った。
王子様を、門柱の横に立たせてしまった。前の職場でも、いちばん胃が痛いのは、お客様を待たせるときだった。
◇
宮殿の奥から、大工さんたちが歩いてきた。夜会の飾りを、外し終えたらしい。
道具箱を肩にかついで、列のほうへ来る。
大工さんは、町のいくつもの店から来ている。知らない顔が一人まじっていても、隣の店の人だと思う。
私の前を通るとき、大工さんたちは、みんな小さく言った。
「待て」
「待て」
「待て」
それから深く頭を下げて、列の後ろに並んでいく。
夜会の支度のあいだに、宮殿で覚えた魔除けだ。狂犬様の前では、「待て」と唱える。
唱えておけば、脚立は倒れない。……ことになっている。
一人だけ、言わなかった。
脚立を肩にかついで、帽子を深くかぶった人だ。頭は、みんなと同じに下げた。言葉だけが、なかった。
その人は、列には並ばなかった。塀ぞいに、厩のほうへ曲がった。
(……あの方だけ、怯えた匂いがいたしませんわ)
早鐘の日と、同じ言葉だった。
宮殿で「待て」が始まったのは、扉を数えていたあの人が、宮殿から消えたあとだ。
宮殿の魔除けは、今日、初めて効いた。唱えなかった人のほうに。
「騎士団長」
呼ぶと、騎士団長が、こちらを向いた。私は、目で、脚立の背中を指した。
それから、声を張った。
「そちらの、脚立の方。どうされましたか?」
脚立が、止まった。
あの人が、振り向いた。帽子のつばの下で、目だけが、少し笑っていた。
「……ここの皆さんは、あなたに『待て』とおっしゃるのですね」
丁寧で、低い声。夜会の夜、盆の裏に刃を寝かせていた人の声だった。
次の瞬間、脚立が塀に立てかけられていた。あの人が、上っていく。速い。
走った。二十歩を、三歩で。
塀ぎわを、侍女が二人、洗濯籠を抱えて歩いてきていた。
人が先。私がそう動くことを、あの人は、知っている。
「塀から、離れて!」
あの人が、塀のてっぺんで、脚立を横へ蹴った。脚立が、塀にそって、侍女たちの上へ倒れてくる。
喉が、熱く鳴った。
倒れてくる脚立を、片手で受けた。侍女たちの頭の、少し上だった。
「お怪我は」
侍女たちは、洗濯籠を抱えたまま、首を横に振った。
読まれているのは、知ってる。だから今日は、人を守って、それから、追う。
脚立を、地面に寝かせた。
塀のそばに、脚立を置かない。足場があれば、塀は越えられる。前の職場でも、さんざん言われた。
……持ってきたのは、本人だった。
あの人は、塀の上から、私が脚立を寝かせるのを見ていた。それから、外の通りへ、身を乗り出した。
「騎士団長、門と、塀の外を!」
「承知した!」
(……追いますわ)
夜会の夜、先輩は、追いたいのに、待ってくれた。
警備員は、敷地の外まで追いかけない。
……塀の上までは、まだ、敷地の中だ。たぶん。
よし。行って。
(言われなくても)
裾を押さえて、跳んだ。
塀は、大人の背丈の倍ほどある。そのてっぺんに、足が着いた。あの人まで、三歩。
あの人が、外へ飛び降りた。
三歩を、一歩で詰めた。
手が、出ていた。殿方に、手の甲を差し出すときの形。お手の作法。
差し出したはずの手が、落ちていくあの人の手首を、空中で取っていた。
がくん、と重さが来た。膝を沈めて、重心を内側へ戻した。
頭に本を乗せて練習した首と背中は、一本のままだった。
あの人は、塀の外にぶら下がっていた。私は、塀の上に立っていた。
足は、塀の上。手は、塀の外。
ぎりぎり、敷地の中だ。
帽子が、外の通りへ落ちていった。
「離せば、あなたも楽ですよ」
「この形で落ちたら、受け身が取れません。離しません」
(……左、刃ですわ)
あの人の左手に、細い刃が光った。私の手首を、狙っている。
下の通りを、見た。誰もいない。
腰の扇子を抜いて、閉じたまま、あの人の左の手首を、下へ打った。
刃が、誰もいない石畳に落ちて、鳴った。
扇子を腰に戻して、あの人を、ゆっくり、塀の上まで引き上げた。
重い。でも、日傘で打ち上げた竜の顎よりは、軽い。
あの人の体を、庭の側へ回した。手首を離さず、空いた腕で胴を支える。そのまま、一緒に塀を降りた。
あの人の足を先に地面へ着けて、私も膝を沈める。淑女のたしなみ、階段の下り方。頭と背中を、まっすぐに。
庭まで、エスコートした。
騎士の方たちが、駆けてきた。
「手首と肩を、お願いします。肩を、痛めているかもしれません。背中には乗らないで。息が、詰まります」
「外の通りに、刃が一本落ちています。人を、近づけないでください。……ほかにも、お持ちかもしれません」
門のほうで、大工さんたちが、「待て、待て」と唱えていた。
侍女たちは、口を開けていた。
門柱のそばでは、殿下が、一歩も動かずに待っていた。
殿下のお礼は、あとで、ちゃんと聞こう。今度は、いらっしゃいませ、と言わずに。
◇
騎士団長が、門から歩いてきた。
押さえられたあの人を見下ろして、それから、私を見た。
「……今夜だけ、のはずだったのだがな」
何の話だろう。
「……今は、朝です」
「知っておる!」
騎士の方たちが、あの人を起こして、地面に座らせた。
私は、その前に立った。あの人が、私を見上げた。
「お嬢様っ!」
アンナが、門の脇から走ってきた。
アンナの足が、私の後ろで、止まった。私の肩ごしに、座ったあの人の顔を、見下ろしていた。
顔から、すうっと血の気が引いていった。
「……この人です」
小さな声だった。
「アンナ?」
「婚約破棄の夜、お嬢様が、飛びかかった人です」
騎士の方たちの手が、止まった。
アンナは、日傘を胸に抱きしめた。
「あの夜、控えの間から飛びこんだら、お嬢様が、この人の上に。そばに、木の箱が転がっていて、この人は、灰色の上着でした。お嬢様を引き離したのは、わたしです。床から、お嬢様を見上げていた、このお顔です。悲鳴もあげずに、ただ、見上げていらした」
あの喉の音がすると、アンナは六年、震えてきた。それでも、あの夜は先輩のところへ走ったんだ。
「ヴェルナー様のお屋敷を出る前に、お詫びを申し上げたくて、執事様に、この方のお名前をお尋ねしました。出入りの控えを見ても、そんな方は、いない、と」
アンナは、あの人を、まっすぐ見た。
「あの夜も、どこにも、名前のない人だったんです」
それから、小さく足した。
「このお話は、誰にもしておりません。……聞かれませんでしたので」
この四十日、私も、アンナにあの夜のことを聞かなかった。
名簿にない給仕は、あの夜にもいた。
花で門が開かなかった日、元婚約者のヴェルナー様は、あの夜のことを、嫉妬だと言った。
先輩が飛びかかったのは、ヴェルナー様でも、聖女様でもなかった。
灰色の上着。この王都で、何度か見た上着だ。
……上着は、誰でも着られる。
あの人が、アンナを見た。
「侍女の方は、人の顔を、よく見ておられる」
違う、とは言わなかった。
私は、アンナを背中に隠した。
「あの夜のことは、覚えておいでではない?」
覚えていない。あの夜のことで、この体が覚えていたのは、悲鳴と、「婚約は、破棄する」の声くらいだ。人の顔は、一つもない。
「そのお話は、騎士団の方に」
(……覚えておりますわ)
静かな声だった。
朝、まだ言葉にならない、と言った話の、最初の一言だった。
先輩は、それきり黙った。
……あとで、聞きます。言葉になったら、全部。
「では、狂犬は、あの夜」
騎士団長が、ゆっくり言った。
「暗殺者に、吠えておったのか」
騎士の方たちが、顔を見合わせた。
「侍女が、あの夜に見た顔だと申しています。確かめるのは、騎士団の方です」
見たことと、思ったことは、分けておく。
アンナは、日傘を抱いたまま、背筋を伸ばしていた。足は、もう下がらなかった。
泣いていた。声は、出していなかった。
「わたし、ずっと……」
唇が、震えた。
「お嬢様には、理由があるって」
一人で、ずっと、そう信じてきたんだ。
「アンナ。……知らせてくれて、ありがとう」
アンナは、立ったまま、こくこくとうなずいた。
騎士の方たちが、あの人を立たせて、連れていった。
あの人は、一度だけ、私を見た。何も言わなかった。
門柱のそばで、殿下が、連れていかれるあの人を、目で追っていた。
口もとの、いつもの半分だけの笑いが、なかった。
騎士団長は、狂犬は暗殺者に吠えていたのか、と言った。
でも、アンナが見たのは、刃じゃない。
箱だった。
先輩は、何に、吠えてたんだろう。




