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第20話 首輪が外れた夜(フロリアン視点ほか)

 二十年生きてきて、命を救われた礼を言いそびれたのは、今夜が初めてだ。


 僕の額の、指一本手前。壁ぎわの淑女の扇子が、刃を止めた。


 何か言わなければ、と思った。王族は、どんなときでも、何か言う。


「……やあ。壁ぎわの淑女」

「いらっしゃいませ」


 命の恩人は、僕を、お客様として迎えた。


 そのあと、彼女の背中が、ほんの少しだけ固まった。


 言い間違えた、と背中で分かった。あれを、僕は、たぶん一生忘れない。


 私室の窓から、宮殿の庭が見える。騎士たちの松明が、まだ動いている。


 僕は、剣を抜かずに、扉の前に立っていただけだ。


 アイゼンハルト嬢は、それを見ていた。


「殿下、扉の向こうへ。お客様の背中を、お願いします」


 僕に、持ち場をくれた。


 庭の小道では、僕のそばは近衛の持ち場だと断られた。今夜は、彼女の背中に守られた。


 騒ぎがすんで、戸口で、君は、と言いかけて、やめた。かわりに、頭を下げた。


 父上と母上のほかに頭を下げたのは、生まれて初めてだった。


 狂犬殿、と心の中で呼ぶのは、今夜でやめにする。


 腕に傷を負った近衛は、僕の前で斬られた男だ。僕が肩を担いで、扉の向こうへ連れていった。


 聖女殿が、手当てをしてくれた。傷を見ながら、アイゼンハルト嬢にお怪我はなかったかと、三回、僕に聞いた。


 近衛の腕より、彼女のほうが、心配らしい。


 近衛は、黙って手当てを受けていた。いい近衛だ。明日、あの男にも、礼を言う。


 懐の絹の包みに、上から触れた。北からは、まだ、何も来ない。


 明日は、礼を言う。


 どう言えば、彼女は「お客様」と返さないだろう。


  ◇


 騎士団副団長として、私は今夜のことを報告書に書かねばならない。


 祝福式の日にも、同じ一行から書き始めた。あの日の報告書は、七枚になった。


 今夜は、短く書く。


 捕らえた三名にも、お客様にも、死者はいない。伯爵の点呼で、お客様は全員そろった。


 腕を斬られた近衛は、聖女殿に傷をふさいでもらった。血を失った分は、寝かせて休ませる。


 殿下も、ご無事だ。アイゼンハルト嬢はこめかみを打たれたが、本人いわく、異常なし。


 そこまでは、すぐに書けた。

 問題は、その次だ。


 アイゼンハルト嬢と、一曲、踊った、と書いて、消した。


 〔左右からの刃を、舞踏の足運びにより回避〕と書いて、それも消した。


 一時間たった。ろうそくが、一本、短くなった。


「副団長。一曲、お相手くださいませ」


 あのときの声は、いつもの彼女の声ではなかった。低くて、きれいな声だった。


 顎の傷が、勝手に動いた。この傷は、驚くと、私の許しなく動く。


 組んだ手は、私の手より小さかった。指の付け根に、硬いたこがあった。剣だこと、同じ場所だ。


 足運びは、私より正確だった。


 二本の刃が、背後で空を切った。


 踊りは、苦手だ。今夜も、苦手だった。

 それでも、合った。


 夜会の前に、彼女が合図を決めた。扇子を開いて、閉じて、もう一度開いたら、来てください、と。


 曲が終わるたびに見る、と答えたのは、私だ。


 今夜、ようやく分かった。


 あれは、合図だけではなかった。曲の終わりごとに、私の目を、彼女の拍子にそろえさせる稽古だったのだ。


 私がそう答えることまで、読んでいたのだろう。


 夜会の前から、ワルツの用意をしていた。……さすがは、アイゼンハルトの娘だ。


 詰所の扉の向こうで、部下たちが話している。


「副団長が、狂犬と踊ったらしいぞ」

「あの副団長がか」

 踊っていない。かわしただけだ。


 報告書に書かないことも、噂には書かれる。


 それから、もう一つ。


 彼女は、伏せた影の背中に、乗らなかった。手首と肩だけを押さえていた。乗れば、息が詰まる。


 賊にも、そうするのか。


 部下を死なせない、と私は決めている。彼女は、賊も死なせない。


 最後の一行を書いた。


 〔なお、アイゼンハルト嬢の指示は、すべて適切であった〕


 二枚目と三枚目は、消した線で、ほとんど埋まっている。


 祝福式の日は、七枚だった。今夜は、三枚。……短くなった。


  ◇


 わしは、今夜、狂犬に「承知した」と言った。


 騎士が、騎士団長に返す言葉をだ。


 庭は、松明で昼のように明るい。


 狂犬の報告どおり、腕章のない給仕は、テラスから庭へ出ておった。外には、戸の鍵を持った者もおった。


 庭から外へ出る道は、門が三つと、水路が一本。門は、すぐに閉めさせた。


 帰るお客様は、伯爵の名簿と伯爵夫人の顔で、一人ずつ確かめてから出した。


 残るのは、水路だ。


 水路の鉄の格子が、一本、外されておった。錆が、新しく削れている。前もって、外してあったのだ。


 給仕も、鍵の者も、そこから出ていったのだろう。


 配膳室の侍従は、物置で見つかった。手足を縛られて、口に布を詰められていたが、息はあった。


 縛られるまで、腕章のない者は、一人も通さなかったそうだ。


 縄を解かせて、聖女殿のところへ運ばせた。


 日傘のことを、思い出す。


 通り道へ回る途中、控えの間の前で、狂犬の侍女が、わしの前に立ちふさがった。両腕に、日傘を抱えていた。


「お嬢様に、お届けくださいませ。わたしは、広間には入りません。お嬢様の持ち場ですので」


「侍女の使いなど、騎士団長がするか」


 侍女は、どかなかった。日傘を、わしの胸に押しつけた。


 ……聞かんのだ。


 わしは、日傘を受け取った。侍女は、わしの後ろをついてきて、奥の扉の敷居で、つま先をそろえて止まった。


「ここから先は、立入禁止、でございますね!」


 狂犬の侍女まで、狂犬の言葉を使う。


 今夜、わしが叫んだときには、狂犬の声で、もう人が止まっておった。騎士を脇へどければ、扉が空いた。


 出る方が、先。早鐘の日と、同じ理屈だ。


 騎士団の書庫に、退却の兵法は一冊もない。……竜殺しの家には、退却の兵法が伝わっておるに違いない。


 騎士は、戦うものだ。剣を抜いて、前に出るものだ。


 だが今夜、いちばん多くを守ったのは、剣を抜かなかった者たちだった。


 殿下も、伯爵夫人も、あの気の弱い伯爵も、侍女も。


 それに、狂犬も。あれは、最後まで、刃を一度も向けなかった。受けて、落として、押さえただけだ。


 髭を、一度なでた。

 ……認めよう。

 今夜だけはな。狂犬め。


 それから、騎士団の鍵束を、もう一度、確かめさせた。


 夜会の前に、テラスの錠をおろさせたのは、わしだ。


 鍵は、一本も欠けておらん。


 ……写しを作った者がおるか。中に、手引きをした者がおるか。


  ◇


 ヴェルナー家の嫡男として、僕は、今夜、殿下をお救いするつもりだった。


 暗闇で、剣の音がした。僕は、奥へ走った。


「殿下! いま、僕が——」

 すぐ横を、何かが、風のように抜けた。

「ヴェルナー様、ろうそくのほうへ!」

 オディールの声だった。

 オディールは、振り向かなかった。


 僕は、ろうそくのほうへ向きを変えた。気がついたら、変えていた。


 帰りの馬車は、揺れる。


 振り向かなかったのは、僕の顔を見たら、走れなくなるからだ。


 僕の前を走ったのは、僕を守るためだ。

 ……たぶん。

「お前は、どこにいた」

 向かいの席で、父上が言った。

「……避難の列に、並んでおりました」

 父上は、しばらく僕を見ていた。

「そうか」


 それだけだった。父上は、窓の外を見た。


「アイゼンハルトの娘が、殿下をお守りしたそうだな。……我がヴェルナー家の名は、出なんだか」


「ぼ、僕も、その場におりました」

「知っておる。列に、いたのだろう」


 叱られなかった。ほめられもしなかった。


 並んだことが、少しだけ、誇らしかった。


 今度、オディールに言おう。君の言ったろうそくのほうへ、ちゃんと行ったよ、と。


 たぶん、また、来訪者名簿に名前を書かされる。


  ◇


 夫と屋敷に戻ったのは、夜更けでございました。門で、お帰りになるお客様のお顔を、一人ずつ確かめておりましたので。


 名簿は、騎士団にお預けしてまいりました。夫は、書斎で、覚えているお名前を紙に書き出して、数え直しております。


 もう三度目です。眠れないのでしょう。今夜、あの方は、生まれてからいちばん大きな声を出しましたから。


 娘は、先に帰しました。門を手伝うと申しましたけれど、膝が笑っておりましたので。


 本人は、裾で隠せているつもりのようです。


 聖女様が、朝まで枕もとについていてくださるそうです。


 頭を打った者は、ひと晩、様子を見るものですから、と。


 居間の戸口に、夫が顔を出しました。


「ま、マルグリット。まだ、起きて……」


「あなたこそ」

「む、娘が、今夜……」

 夫は、そこで、言葉に詰まりました。

「ええ。存じておりますわ」


 夫は、眼鏡を直して、書斎へ戻っていきました。あの方の怯えた顔は、昔から好きです。


 今夜の大きな声も、好きになりました。


 わたくしは、ひとり、居間の引き出しを開けました。


 奥に、小さな扇子がございます。


 あの子が五つのときに、持たせたものです。子どもの手の大きさの、鉄の骨の扇子。


 淑女のたしなみの、いちばん最初のお稽古でした。


 あの子は、これを持って、よく笑いました。


 今夜、鏡の壁の椅子で、ご婦人の手を引いていたときでした。


 広間の奥から、声がいたしました。


「立入禁止と、申し上げましたわよね?」


 手を、離しそうになりました。離しませんでした。お客様のお名前を呼ぶ声も、止めませんでした。


 何年も、ほとんど聞かなかった声でした。


 この四十日、あの子は、丁寧に話します。承知しました、と言います。


 わたくしの知らない言葉で、笑います。

 あの声は、違いました。


 婚約破棄の夜より、ずっと前の。扇子を持って笑っていたころの、あの子の声でした。


 狂犬と呼ばれた娘とは、何でもない話が、一度もできませんでした。


 あの子が吠えるたびに、どうしたの、と、聞いてやれなかった。


 あの子は、いなくなったのではなかった。


 大扉の光の中で、扇子が震えたのは、そのせいでございます。


 泣いてはおりません。扇子が、震えただけです。


「……お帰りなさい」


 竜の出た次の夜、あの子の部屋の扉の前で言いかけた言葉を、今夜は、最後まで言いました。


 誰もいない居間で、小さな扇子に。


 扇子を、開きました。握るところだけ、すり減って光る、鉄の骨。


 わたくしは、それを、閉じませんでした。


 明日は、あの子と、何でもない話をいたしましょう。


 好きな色でも、聞いてみましょうか。

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