第19話 立入禁止と、申し上げましたわよね?
影が二つ、同時に来た。右と、左から。
扇子は、一本しかない。
背中の扉の上の、緑の灯りに、刃だけが光っている。
左の刃を、閉じた扇子で受けた。がちん。
(……右、抜けますわ)
分かってる。でも、左の刃が、扇子から離れない。
右の影は、刃を振らなかった。
私の横を、するりと抜けた。
狙いは、私じゃない。背中の、奥の扉だ。
開いた扉の向こうには、殿下と、近衛の方たちと、通り道を歩くお客様がいる。足音が、まだ聞こえる。
左の刃が、扇子を押してくる。ここで引けば、この刃も扉へ行く。
右の影の足が、私の後ろへ回った。
「アイゼンハルト嬢!」
影の向こうで、副団長の声がした。遠い。
影の足が、立入禁止の線を、越えた。
間に合わない。私の足では。
心の中が、しんと静かになった。
先輩が、何も言わない。私も、何も言えない。
喉の音も、止まっていた。
私の口が、先に動いた。
「立入禁止と、申し上げましたわよね?」
低くて、きれいな声だった。私の声じゃない。でも、私の口から出た。
扉の二歩手前で、影の足が止まった。背中を、声で打たれたみたいに。
影が、振り返った。
先輩は、噛む前に、言った。影への最後の警告で、私への知らせだった。
なら、次は、私だ。
「先輩。……よし」
口が、もう一度動いた。今度は、私の声と、先輩の声が、重なっていた。
「首輪、外させていただきますわ」
首の後ろが、ふっと軽くなった。
体の芯に、熱いものが流れこんでくる。さっきまでの怖さが、どこにもない。
かわりに、笑いたくなった。私じゃない。先輩だ。
振り返った影が、私の顔を見て、半歩、下がった。
◇
体が、勝手に動いた。
私は、中から見ていた。
私の目には、刃の光しか見えない。でも、体は、影の息の音で、場所を知っていた。
左の刃を受けていた扇子が、ぱっと開いた。鉄の骨が、扇の形に広がる。
開いた扇子が、刃を外へ払った。そのまま、左の影の手首を、折れない角度で返す。
短い刃が、床に落ちた。
足が、扉のほうへ一歩。
淑女のたしなみ、裾の払い方。
腰をかがめて、ドレスの裾の埃を払う。その手が、そのまま、右の影の膝の裏を払った。
影が、背中から床に下りた。頭が床に着く前に、扇子を持ったままの手が、襟を止めていた。
頭は、打たせない。
……先輩も、ちゃんと手加減している。
私の口の端が、少し上がっていた。楽しそうだ。先輩が。
左の影が、袖から、新しい刃を抜いた。
襟を放して、向き直る。そのすきに、右の影も跳ね起きた。両手の刃を、構え直す。
手練れだ。一本落とされても、まだある。
「狂犬!」
開いた扉の向こうから、騎士団長の声がした。通り道を、回ってきたのだ。
扇子を、ぱちんと閉じて、腰に戻す。
「お前の侍女が、これを持っていけと聞かん!」
扉の向こうで、騎士団長が、日傘の柄を先にして、低く放った。
私の手が、見ないで、柄を受けた。
受けた手が、日傘をくるりと一回転させてから、構えた。
……その一回転、要りますか。
「あら。気が利きますこと」
口が、勝手に言った。
その言い方、どこで習ったんですか。
先輩は、答えない。
「お嬢様!」
騎士団長の脇から、アンナの声がした。
「ここから先は、立入禁止、でございますね!」
アンナは、敷居の手前で、つま先をそろえて止まっていた。
それは、私の台詞だ。
騎士団長は、扉の向こうで、殿下とお客様の前に立ちふさがった。扉は、もう抜けない。
右の影の、両手の刃が来た。
(……遅いですわ)
日傘を、開いた。鉄の骨が、刃を二本とも止めた。
閉じる。閉じた日傘で、影の手首を、下へ打つ。刃が一本、床に落ちた。
打ち上げれば、刃がどこへ飛ぶか分からない。
警備の講習で、警戒杖という長い棒を握ったときの、打ちの形だった。体は、先輩のもの。形は、私のもの。
左の影が、手の中の刃を、投げた。
私にではない。開いた扉へ。
(……扉、ですわ)
体が、先に跳んでいた。扉の前で、日傘を開く。
刃が、鉄の骨にはじかれて、足もとに落ちた。踏んだ。
先輩が、扉を守った。噛むより、先に。
敷居の手前に、アンナがいる。その向こうに、お客様の背中がある。そこへは、何も通さない。
左の影が、床の刃を一本、拾った。
副団長が、私たちの横へ回りこんだ。剣を振る代わりに、私が日傘で落とした刃を、壁ぎわへ蹴った。
影は、最後の一本ずつを持って、私の左右に分かれた。
私の口が、言った。
「副団長。一曲、お相手くださいませ」
副団長の顎の傷が、ぴくりと動いた。
「……一曲だけだ」
副団長と、組んだ。ワルツの組み方。曲は、鳴っていない。でも、三拍子は、体が覚えていた。
いち、に、さん。組んだまま、一回り。
副団長の足は、踊りの足じゃなかった。剣の足だった。それでも、ちゃんと合った。
回りおわったとき、私は左の影の前に、副団長は右の影の前にいた。
挟みに来た二本の刃は、さっきまで私たちがいた所で、空を切った。
私は日傘で、副団長は剣の腹で、目の前の手首を打った。
刃が、床で鳴った。
影が二つ、床に伏せられた。私は、影の手首と肩を押さえる。
背中には、乗らない。乗れば、息が詰まる。
押さえた手は、それ以上、何もしなかった。先輩も。
肩の下で、影の息が動いている。
「……踊りは、苦手なのだが」
副団長が、もう一人を押さえたまま、言った。
知ってます。曲が終わるたびに、踊りの輪じゃなくて、私の扇子を見てましたもんね。
奥の扉の騎士の方が、口を開けたまま、こちらを見ていた。
騎士団長と騎士の方たちが、扉から入ってきた。床の三人と、日傘と、私を、順番に見た。誰も、何も言わなかった。
床の影を、三人とも、騎士の方たちに預けた。騎士の方たちが、影を起こして、座らせる。
預けた手のひらが、まだ熱い。先輩の熱だ。
◇
終わった、と思った。
体は、止まらなかった。
足が、テラスのほうへ向いた。
(……外。あの方。……今度は、逃がしませんわ)
喉が、低く鳴った。
テラスの戸の向こうは、暗い庭だ。扉を数えていたあの人が、出ていった庭。
「待て」
声に出した。開場してから、初めての「待て」だった。
夜会の朝と同じで、効かない。
足が、暗い広間を、テラスのほうへ渡っていく。
「アイゼンハルト嬢、そちらは——」
テラスの戸の五歩手前で、綱の騎士の方が、身構えた。私を、止める顔で。
誰も出さないで、と頼んだのは、私だ。
追うのは、騎士団の仕事だ。私の持ち場は、ここだ。
先輩が、こんなに誰かを追いたがるのは、初めてだった。
でも、先輩は、今夜、ずっと待ってくれた。追いますわ、と言って待った。行かせて、と言って待った。
今度は、私が聞く番だ。
「先輩。聞きました」
足が、少しだけ、ゆるんだ。
(……今なら、追えますのに)
喉の奥が、熱い。泣きそうな熱さだった。私のじゃない。
「あとで、ちゃんと聞きます。だから、待って」
足が、止まった。
喉の音が、少しずつ、下がっていく。
首の後ろに、重さが戻ってきた。
体が、私の体に、戻った。
(……約束、ですわよ)
はい。約束です。
◇
「狂犬」
騎士団長が、呼んだ。いつもの呼び方だった。声だけが、いつもと違った。
「テラスから入った影は、三人です。三人とも、ここにいます。息は、あります」
息を、一つ。
「腕章のない給仕が一人、テラスから外へ出ました。外には、戸の鍵を持った者もいます。腕章を見ていた、配膳室の侍従の方を、確かめてください。腕を斬られた近衛の方は、止血だけです。聖女様に、お願いします」
「……承知した」
騎士団長に「承知した」と言われたのは、初めてだった。
騎士団長が、外へ向かう騎士の方たちに、短く指示を出しはじめた。
奥の扉の戸口に、殿下が立っていた。
「……君は」
殿下は、そこまで言って、口を閉じた。それから、少しだけ、頭を下げた。
開いた大扉のほうから、お父様の声がした。
「お、奥の通り道の方々も、数に入れまして……お客様は……全員、おられますっ!」
お父様の、いちばん大きな声だった。
回廊のほうで、誰かが、小さく手を叩いた。すぐに、たくさんの拍手になった。
広間を、見回した。
奥の扉の上の、緑の灯籠の火。床のカーテン。煙は、もう出ていない。
テラスの戸の前に、綱の騎士の方。天井の、黒い布。
鏡の壁の椅子は、空いていた。お母様が、ご婦人の手を引いて、出てくれたのだ。
「……異常なし」
小さく、言った。前の職場の、無線のくせだ。
膝が、笑っていた。裾が長くて、よかった。誰にも、見えない。
「お嬢様!」
奥の扉から、アンナが駆けこんできた。今度は、止まらなかった。私の脇の下に、腕が入る。
アンナには、見えていたらしい。
「わたし、ちゃんと、止まっておりました!」
「うん。見てた。えらかった」
明日、絶対、筋肉痛だ。
開いた大扉の光の中に、お母様が立っていた。
光を背にして、顔は見えない。開いたままの扇子の形だけが、黒く浮かんでいる。
その扇子が、小さく、震えていた。




