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第18話 避難誘導は、十秒で済ませます

 暗闇の奥で、剣が鳴った。

 誰かが、短くうめいた。近衛の方の声だ。


 緑の灯りの下で、影が、殿下を守る人たちに斬りかかっていた。


 あの緑の灯りを頼んだのは、私だ。


(……行かせて、くださいませ)


 喉が、熱く鳴っている。足が、勝手に前へ出る。


 分かってる。私も、行きたい。


 でも、いま私が走ったら、お客様も走る。暗闇で人が走れば、誰かが踏まれる。


 先輩。十秒だけ、ください。

(……数えますわよ)


「動かないでください!」


 今夜、三度目の声だった。暗闇の足音が、ぴたりと止まる。


 ここからは、人に頼む。


「お母様! お客様のお名前を、一人ずつ呼んでください! 呼ばれた方から、出口へ!」

 暗闇のどこかで、扇子が、ぱちん、と鳴った。

「ええ」


「ヘルミーネ様! 押す方を、止めてください!」

「よろしくてよ! 押した方は、次のお茶会にお呼びしませんわよ!」

 暗闇のあちこちで、押しかけていた手が、引っこむ気配がした。


「お父様! 扉の外の明るい所で、出た方を数えてください!」

「は、はいっ! 名簿は、ここにっ!」


「侍従の方! そのろうそくを高く持って、壁ぞいに、正面の扉の脇へ!」

「た、ただいま!」


「綱の騎士の方! テラスの戸を閉めて、誰も出さないでください!」

「はっ!」

 ろうそくの火が一つ、高く掲げられて、壁ぞいを、正面の扉のほうへ動いていく。

 緑じゃないけど、今夜の誘導灯だ。


「皆さま! 出口は、入ってきた正面の扉です! ろうそくの行くほうへ、ゆっくり! 奥の、緑の灯りへは、行かないでください!」

 扉の脇に着いた侍従の方が、扉を叩いて叫んだ。

「前は、空いています!」

 外の衛兵の方が、大扉を開け切って、脇へよけた。回廊の光が、差しこむ。


「騎士は、扉の脇へ! 出る方が先だ! 奥へ回る者は、わしについて来い!」

 回廊から、騎士団長の声がした。頼むより先に、騎士たちが扉を空けていく。

「バルツァー伯爵様、ろうそくのほうへ」

 お母様の声が、もう名前を呼んでいる。

(……八、九、十)


 先輩の十は、ずいぶん、ゆっくりだった。


 私の分の避難誘導は、十秒で済んだ。


 お母様の声に、お客様が動きはじめた。あとは、任せられる。


 私にしかできないことは、別にある。


 袖をつかんでいたご婦人の手を、椅子のひじかけに戻した。


「ここで、座っていてください。お母様が、お名前を呼びます」


「……は、はい」

「先輩。お待たせしました」

(……待ちくたびれましたわ)

 今夜はじめて、走った。


  ◇


 暗闇の中を、奥へ。


 目は、まだ慣れていない。見えるのは、いちばん奥の、緑の灯りだけだ。そこまで、広間の半分ある。


(……正面、卓。跳んで)

 跳んだ。


 卓の上のグラスは、一つも倒れなかった。たぶん。


 暗闇を全力で走るのは、初めてだ。怖い。でも、足が軽い。


 この体は、ずっと、こうしたかったんだと思う。


 振り返らなくても分かる。後ろの足音が、一つの向きに流れている。ろうそくのほうへ。


(……前に、人ですわ)


 暗闇に、殿方が一人、立ちすくんでいた。


 人は、跳ばない。


 腰を両手で持ち上げた。重い。一歩横へ、そっと置いた。


「失礼します。そのままで」


 殿方は、置かれたまま、動かなかった。言ったとおりに。


「殿下! いま、僕が——」


 聞き覚えのある声が、すぐ横を、奥へ走っていこうとしていた。元婚約者の、ヴェルナー様だ。


「ヴェルナー様、ろうそくのほうへ!」


 言いながら、追い抜いた。振り向かなかった。


 後ろで、足音が、ろうそくのほうへ向きを変えた。


 その後ろで、お母様の声が、名前を呼びつづけている。


「リンデ子爵様、奥様の手を。お足もとに、お気をつけて」


(……砂糖菓子の塔、ですわ)


 ドレスの裾ごと、跳び越えた。馬車の乗り降りの作法で、裾を押さえて、音を立てずに降りる。


 塔は、崩れなかった。今夜いちばん、夜会らしい動きだったと思う。


(……血の匂いですわ)

 先輩の声が、低くなった。

 急いで。

 緑の灯りが、近づいてくる。


 灯りを背にした影は、顔が見えない。刃だけが、緑に光る。


 灯りの下で、近衛の方が一人、腕を斬られて、膝をついていた。


 傷を押さえている。指のあいだから、黒いものが垂れていた。


 顔は真っ白だった。それでも、もう片方の手は、剣を離していなかった。


 もう一人の近衛の方と、奥の扉の騎士の方が、二人がかりで、影を一つ止めている。


 副団長は、別の影と剣を合わせていた。影の刃は、両手に一本ずつ。


 副団長の剣が、少しずつ押されている。


 三つ目の影が、壁ぞいを回って、殿下の横へ出た。


 殿下は、剣を抜いていなかった。


 奥の扉の前で、両手を広げて、立っていた。


 扉の向こうの細い通り道を、さっき送り出したお客様たちが、まだ歩いている。


 通り道の先の回廊には、アンナとミレイユさんもいる。殿下が下がれば、影も、ついてくる。


 殿下は、お客様の背中に、立っていた。

 かっこいいじゃないですか、殿下。


 腰から扇子を抜いた。鉄の骨を、握りしめる。


 奥の扉の騎士の方が、三つ目の影に気づいて、振り向いた。その剣が、弾かれて、床で鳴った。


 三つ目の影が、殿下に刃を振り上げた。

 残り、十歩。走っても、間に合わない。


 人のそばについて守るのは、私の資格じゃない。


 でも、目の前で振り下ろされる刃を止めるのに、資格は要らない。


  ◇


 裾をつまんで、膝を沈めた。カーテシー。


 沈んだ膝が、そのまま床を蹴った。

 気がついたら、殿下の前にいた。


 淑女のたしなみ、扇子。口もとを隠すためのものだ。


 今夜は、殿下の額を隠す。

 閉じた扇子を、刃の前に差し入れた。

 がちん。


 鉄が鳴った。扇子の骨は、鉄だ。刃は、殿下の額の、指一本手前で止まっていた。


 影の目が、黒い布の上で、大きくなった。


 腕を斬られた近衛の方も、同じ顔で、扇子を見ていた。


「……やあ。壁ぎわの淑女」

 殿下の声が、すぐ後ろでした。

「いらっしゃいませ」

 ……じゃなかった。

(……左。拳ですわ)

 見えなかった。先輩が、見ていた。


 よけたら、扇子が刃から外れる。殿下の額まで、指一本だ。


 頭に本を乗せて歩く練習。首と背中は、一本。


 影の拳が、こめかみに当たった。

 首は、動かなかった。

 お母様の扇子のほうが、重かった。


 影のほうが、手を振った。痛そうだった。


 影が、横へ跳んだ。私をよけて、殿下へ回りこむつもりだ。


 裾をさばいて、半歩、先に回った。影の行く先に、もう私が立っている。


 刃が来る。今度は、まっすぐ、私の胸へ。


 お手の作法。アンナを人質に取られた夜にも、この体がやった形だ。


 刃を持った手首に、上から、そっと手を重ねた。


 影が、刃を押しこんでくる。その力の向きのまま、影の体を、くるりと半回転させた。


 影が、背中から床に落ちた。頭は、打たせない。手首は、離さない。


「お足もとに、お気をつけて」


 さっき、お母様がお客様に言っていたのと、同じ言葉になった。


 影は、床の上で息を詰まらせている。胸は、上下している。息は、ある。


 落ちた刃を、つま先で、奥の扉の騎士の方の足もとへすべらせた。騎士の方が、それを踏んだ。


「い、いまのは……」


「お手の作法です。この方の手首と肩を、押さえていてください」


「は、はっ!」

(……お手、ですわね)

 先輩の声が、少しだけ、弾んでいた。


 すぐ横で、副団長の剣が、鳴りつづけている。


「……来ないと、思っていたよ」

 殿下が、言った。


「遅くなりました。十秒、かかりました」


「十秒で、あの広間を?」

「私一人じゃ、ないので」

 殿下が、少しだけ、笑った気がした。


「殿下、扉の向こうへ。お客様の背中を、お願いします。近衛の方も、一緒に」


「分かった」


 殿下が、腕を斬られた近衛の方の横に、しゃがんだ。


 私は、傷にハンカチを当てて、その上に近衛の方の手を重ねた。


「このハンカチの上から、強く押さえていてください。手を、離さないで」


「……す、すまない」


 殿下が、近衛の方の肩を担いで、扉の向こうへ下がった。


 短く、笛のような音がした。


 副団長と剣を合わせていた影が、ぱっと退いた。もう一人の近衛の方と打ち合っていた影も、同時に退いた。


 その近衛の方も、殿下を追って、扉の向こうへ下がった。


 二つの影が、こちらを向いた。私の前の床に、並ぶ。


 仲間が一人、床に押さえつけられている。それを見ても、二人とも、少しも慌てていなかった。


 一つは、右手に短い刃。もう一つは、両手に一本ずつ。


 二つの影は、半歩ずつ、左右に開いた。私の右と左を、同時に抜くつもりだ。


「アイゼンハルト嬢!」


 副団長が、影の向こうから叫んだ。両手に刃を持った影が、半身になって、片方の刃を副団長に向けている。副団長は、踏みこめない。


 閉じた扇子を、胸の前に構えた。


 背中には、奥の扉。扉の向こうには、殿下と、近衛の方たちと、通り道を歩くお客様。


 前の二つの影は、お客様の背中に、刃を向けた。


 腹の底が、熱い。先輩の熱さか、私のか、もう分からない。


「ここから先は、立入禁止です」

 影が二つ、同時に、床を蹴った。

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