第17話 名簿にない給仕
「どうされましたか?」
盆の裏の刃から目を離さずに、聞いた。
あの人の左手が、グラスの手前で止まった。
左腕に、腕章がない。早鐘の日、広間の扉を数えていたときと、同じ顔だった。
前にうちの屋敷に入った泥棒たちは、私の顔を見て、棒を落としたり、「食べないでください」と言ったりした。
あの人は、両手を上げなかった。盆も、下ろさなかった。
左手の扇子を、腰へ戻した。グラスは、右手に残したまま。
「グラスだけ、お下げください。盆の裏のものは、私の足もとに、置いてください」
あの人は、目だけで、少し笑った。
「……さすがです」
同じ職場の人に言う声だった。あの人が、続けた。
「早鐘の日、扉を、数えていらっしゃいましたね」
「あなたも」
怖い、と思った。狂犬の噂を怖がらない人は、狂犬より、ずっと怖い。
あの人が、盆を傾けて、手を離した。
盆の裏の刃が、すべり落ちる。落ちる先は、隣の椅子で休んでいるご婦人の、足もとだった。
左手が、勝手に出ていた。
落ちる刃の柄を、空中でつかんだ。
盆が、床で鳴った。右手のグラスは、揺れもしなかった。
「お怪我は、ありませんか」
ご婦人は、口を開けたまま、首を横に振った。
「あ、あなた、いま、素手で……」
「柄です。刃には、触っていません」
ご婦人の口は、閉じなかった。
顔を上げたときには、あの人は、もう人のあいだに消えていた。
……私が拾うと分かっていて、落としたんだ。
人が先。私がそう動くことを、あの人は、知っている。
右手にグラス。左手に、刃物。
今夜の私は、たぶん、いちばん物騒な像だ。
喉の奥で、熱い唸りが上がった。足が、前へ出たがる。
(……追いますわ)
追いたい。私だって。
でも、追えば、ここが空く。隣のご婦人の前も、空く。私に追わせるのも、あの人の狙いかもしれない。
聞きました。でも、人が先。
先輩の足が、止まった。
人のあいだを来ていた副団長に、短く言った。
「副団長。腕章のない給仕です。刃物を。テラスのほうへ」
「承知した」
副団長が、あの人を追っていった。
駆けてきた騎士の方に、刃物を柄のほうから渡した。
「盆の裏に、ありました。刃には、触らないでください」
グラスは、まだ下げてもらえない。隣の像の台に、自分で置いた。
◇
正面の大扉が開いて、灯火卿がお帰りになった。扉は、また外から閉められた。
悲鳴が上がったのは、それから少ししてだった。
テラスのほうだ。私のいる鏡の壁の、向かいの壁。その、奥の扉に近い端で、燭台を並べた卓が倒れていた。
あの人が、火のついた燭台を一本拾って、カーテンの裾に押しつけた。
カーテンに、火が這い上がる。
お客様のいる広間で、火をつけた。許せない、と思った。
広間が、崩れた。
お客様が悲鳴をあげて、火と反対の、正面の大扉へ走りだす。
大扉は、外から閉めてある。内側へ開く扉だ。前に人が詰まったら、もう開かない。押された人が、扉に押しつぶされる。
「落ち着いて!」
腹の底から、声が出た。今夜はじめて、広間の端まで届かせる声だった。
「走らないでください!」
人の足が、ゆるんだ。何十もの顔が、こちらを向いた。さっきまで像だったものが、声を張っていた。
「火は、小さいです。いま、消します。前の人を、押さないで! その場で、止まってください!」
「皆さま、お聞きになりましたわね!」
ヘルミーネ様の声が、重なった。
「アイゼンハルト嬢が、止まれと申しましたのよ。止まりなさい!」
社交界の女王の声で、令嬢たちが止まった。令嬢たちが止まると、その父親たちも止まった。
火の前では、火の番の若い侍従が、水桶を抱えていた。
「火の番の方! カーテンを、引きちぎって! 燃えていない端を持って、床に落として、水を!」
天井まで続く布だ。天井に火が届いたら、もう桶では消せない。
あの人を追っていた副団長が、火の前で足を止めた。
あの人ではなく、カーテンの燃えていない端をつかんだ。
私でも、そうする。
副団長と侍従の人が、カーテンを引き下ろした。布が床に落ちて、水がかぶさる。
火が、低くなった。倒れている人は、いない。
床に転がったろうそくは、もう一人の侍従の人が、一本ずつ消していった。
一本だけ、火のついたまま手に持って。
広間のいちばん奥で、殿下が両手を上げていた。
「こちらへ。奥の扉からも、出られる」
殿下は、近くのお客様を、奥の扉へ一人ずつ送り出していた。
扉の上には、緑の走る人の灯籠。私が頼んだ誘導灯だ。
殿下が「好きにさせろ」と許してくれた灯りだ。今、その下を、お客様が抜けていく。
◇
あの人は、どこへ行った。
目が、テラスのガラス戸へ動いた。
ガラス戸の脇の壁に、金具に結んだ綱がある。天井の黒い布を止めている、あの綱だ。
綱の前の騎士の方は、動いていなかった。すぐ横で火が上がっても、水桶の音がしても、綱の前を離れなかった。
何があっても、綱の前を離れないでください。
騎士の方は、私が頼んだことを、守っていた。
人の陰から、あの人が出てきて、ガラス戸の前に立った。
副団長は、背中を向けて、床の火を踏み消している。
「副団長、後ろ! 戸の前です!」
テラスの戸には、今夜、外から錠がおろしてある。
その戸が、開いた。外に、鍵を持った誰かがいる。
あの人が、外の暗がりへ出ていった。入れ替わりに、黒い影が、三つ入ってきた。黒い服。顔も、黒い布で覆っている。
(……来ましたわ)
副団長が、振り向いて剣を抜いた。副団長と影のあいだを、奥の扉へ急ぐお客様が横切った。人の中では、剣は振れない。
一つ目の影が、綱の騎士の方に斬りかかった。
騎士の方が、剣で受けた。鉄と鉄が鳴った。綱の前から、一歩も動かずに。
二つ目の影が、その横をすり抜けて、綱に刃を当てた。
走っても、間に合わない。私からは、綱まで、広間の幅いっぱいある。
像の台に置いたグラスを、つかんだ。今夜、誰も下げに来なかったグラスだ。
私が、下げる。
投げた。
グラスは、お客様の頭の上をまっすぐ飛んで、影の手首に当たった。
刃が、床に落ちた。グラスは、綱の下の床で割れた。
近くのお客様が、割れたグラスと私を、何度も見比べた。
三つ目の影が、落ちた刃には目もくれず、自分の刃を綱に当てた。
綱が、切れた。
天井で、黒い布がほどけた。
ばさり、と、布が落ちてきて、天井の灯りに、すっぽりかぶさった。
広間が、真っ暗になった。
消せない灯りが、消えた。
◇
悲鳴が、もう一度上がった。暗い中で、誰かが転ぶ音がした。
「動かないでください! その場で!」
もう一度、声を張った。
「天井の灯りに、布がかぶさりました。暗いのは、そのせいです。その場で、次の案内を待ってください!」
暗闇で人が走れば、必ず誰かが踏まれる。
衣ずれの音が、ぴたりと止んだ。暗闇の中で、たくさんの人が、息を止めて、私の次の言葉を待っている。
隣で、ご婦人の手が、私の袖をつかんだ。
「座っていてください。ここが、いちばん安全です」
テラスのほうで、騎士の方の声がした。
「無事です! 戸の前に、おります!」
綱を切られた騎士の方が、今度は、開いた戸の前に立ったらしい。
暗闇のどこかで、扇子の閉じる音がした。ぱちん、と、鉄の音。
お母様の音だ。
目が、まだ慣れない。見えるのは、光っている物だけ。
床でくすぶるカーテン。侍従の人の手の、ろうそく一本。
それから、奥の扉の上の、緑の走る人。
(……三つ、ですわ)
先輩が、影を数えた。三つとも、奥へ向かっている。
「殿下!」
短くて、硬い声が、暗闇の奥へ走っていった。副団長だ。
奥の扉の向こうの回廊には、アンナと、ミレイユさんがいる。
喉が、低く鳴った。足が、前へ出たがる。
緑の光の下に、殿下がいた。そばにいたお客様を、扉の向こうへ送ったところだった。
灯籠の番の人も、そのお客様と一緒に出ていった。近衛の方が二人と、奥の扉の騎士の方が、殿下をはさんで、暗いほうへ剣を向けている。
明るい所に立っているのは、殿下たちだけだ。
私が頼んだ誘導灯が、殿下を照らしていた。
殿下の前に、影が、三つ。緑の光の手前で、黒い切り絵になっていた。




