第16話 壁の花ではなく、柱です
夜会の開場の鐘まで、あと少し。私の喉は、朝からずっと鳴っている。
宮殿で働く人たちは、私の前を通るたびに、小さく「待て」と言っていく。
魔除けは、まだ効いていない。
今朝、天井の灯りの下で「どうされましたか」と聞いたら、喉の音のあとで、先輩は一言だけ言った。
(……増えましたわ。いやな匂いが)
何が、どう、いやなのかは、言わない。
「聞きました。ありがとう」
喉の音が、少し低くなる。止まりはしない。でも、上がらない。
夕方、使用人の入口で、侍従の人が給仕の名簿を読み上げて、一人ずつ左の腕に白い布を巻いていった。番号の入った腕章だ。
新しい給仕と、教える係につく、前からいる給仕は、同じ番号。
殿下が決めた二人一組を、副団長に頼んで、目に見える形にしてもらった。
配るのは今日が初めて。前もって配ると、写しを作られる。
署名の似た推薦状で入った五人のうち、一人は消えたまま。
残りの四人の相方は、副団長が選んだ、剣の使える人だ。
広間に出る給仕は、組になった人だけ。給仕の扉の向こう、配膳室の出口では、侍従の人が腕章を見てくれる。
一人で歩いている給仕がいたら、それだけで分かる。
この広間の灯りは、天井のあの灯りと、ろうそくの火だけだ。
燭台は、テラスのガラス戸の脇の卓に並んでいる。カーテンから二歩離して、足もとに水桶と、火の番。
天井の灯りを見上げて、侍従の人に聞いた。
「この灯り、どうやって消すんですか」
「消せません。石が、自分で光っておりますので。熱も出ませんから、夜会が終わったら、上から黒い布をかぶせます」
よく見ると、灯りの真上の天井に、黒い大きな布が、たたんで吊ってあった。
布から天井をつたって、テラス側の壁の金具まで、綱が一本。
布を止めているのは、その綱だけだ。綱をほどけば、布が落ちて、灯りにすっぽりかぶさる。
鳥かごに布をかけて、鳥を眠らせるのと同じだ。
綱の前に、騎士の方を一人立ててもらった。
「何があっても、綱の前を離れないでください」
消せない灯りを消せるのは、あの綱だけだ。
宮殿の門には、園遊会の日と同じ受付の卓が出ていた。
「こ、今夜も、わたしが」
お父様が、名簿の前に座った。
いちばん乗りのお客様は、巻いた金髪だった。帳面の名前は、枠から上にも下にもはみ出して、最後がくるん。
……字が、また大きくなった。
「今夜の僕を、見ていてくれ、オディール」
「はい。広間は、全部見ています」
たぶん、意味は伝わっていない。
開場の鐘の前に、受付をお父様とお母様と門の騎士の方に引き継いだ。
記帳がそろったら受付を閉じ、遅れた方は騎士の方が広間まで。
それから、水を一杯飲んで、お手洗いに行った。今夜の立哨には、交代がいない。
水を控えると、立ったまま倒れやすくなる。
「腕章のない給仕か、扉を数えていたあの人が見えたら、扇子で合図します」
副団長に、閉じた扇子を胸の前で、開いて、閉じて、もう一度開いて見せた。前の職場なら、無線で一言だった。
「来てください、の合図です。喉を隠すときは、開いて口もとで止めるだけなので、混ざりません」
「承知した。曲が終わるたびに、そちらを見る。見たら、こう返す」
副団長は、顎の傷に指で触れた。驚くと勝手にぴくりと動く傷を、今夜は合図に使うらしい。
アンナは日傘を両腕に抱えて、回廊の控えの間へ向かった。
「お嬢様の日傘、ここにございます。……控えの間は、回廊へ出てから、十二歩でございます」
ミレイユさんは、回廊の救護の場所に、包帯と水桶を並べていた。
「救護の場所は、九歩ですわ」
二人とも、数えたらしい。どちらが私に近いかを。
正直、助かる。逃げる人を回廊へ出すとき、どこに誰がいるかが、歩数で分かる。
◇
開場の鐘が鳴った。
正面の大扉が開いて、お客様が流れこんでくる。天井の灯りは、欠けたところのない、まるい光になっていた。
広間じゅうの宝石とグラスが、その光を一つずつ返す。
喉の奥で、低い音が、止まらない。
私が立ったのは、鏡の壁の、真ん中あたりだ。鏡の壁には、柱と柱のあいだに一体ずつ、白い石の像が立っている。
私がいるのは、一か所だけ像のない、柱と柱のあいだ。
背中は鏡で、後ろから来る人はいない。正面の大扉も、奥の扉も、給仕の扉も見える。
テラスのガラス戸は広間の灯りを映していて、戸の向こうは見えない。今夜は、外から錠がおりている。
喉の音は、楽師と話し声にまぎれる。扇子は、口もとの動きを隠すだけで、音は消さない。
両手は、体の前で軽く重ねる。右の手のひらが上。淑女の立ち方で、いちばん早く手が出る形だ。
首と背中は、一本。頭に本は乗っていないけれど、乗っているつもりで立つ。
一曲目が終わり、二曲目が終わった。曲が終わるたびに、広間の向こうで副団長がこちらを見る。
(……退屈ですわ)
立哨は、退屈との戦いです。
動かないのは、体だけだ。目は動いている。ドレスの裾の中で、ときどき、ふくらはぎに力を入れて、抜く。
前の職場の正面入口では、自動ドアが開いて閉じるのを見ていた。今夜は、白い腕章を数えている。
天井の灯りの下で、灯火卿が杯を上げた。
「皆さまの夜が、いつまでも、明るくありますように」
広間じゅうの杯が、上がった。
この広間で、灯火卿が贈らなかった灯りは、ろうそくの火だけだ。
そのうち一つが、奥の扉の上の、私の誘導灯だった。
三曲目のあたりから、私の前で足を止める人が出てきた。
「なんて美しい像かしら」
「どなたの作でしょう。目まで、生きているみたい」
生きてます。
年寄りの貴族が、空いたグラスを、上を向いた私の右の手のひらに置いていった。
拾得物……じゃない。宮殿のグラスだ。床に置けば、誰かの裾で倒れて割れる。
給仕に渡すまで、持つしかない。左手は、空けておく。
若い令嬢が、私の顔をのぞきこんだ。
「……いらっしゃいませ」
悲鳴が上がった。それから、笑い声。
「ぞ、像が、しゃべりましたわ」
「狂犬様よ。もう、何時間も、まばたきもなさらないのですって」
まばたきは、しています。
美術館なら、ここに〔お手を触れないでください〕の札が立つ。
その曲の途中で、酔った殿方が踊りの輪から外れて、私の肩にぶつかった。
殿方のほうが、跳ね返った。首と背中が一本なら、肩を押されても、ぶれない。
手のひらのグラスの底に残った一滴も、揺れなかった。
「お怪我は、ありませんか」
「な、ない。……し、失礼。柱かと」
柱です。今夜は。
グラスは、まだ下がらない。目が合った給仕は、小さく「待て」と言って、よけて通る。
殿下が、人のあいだを通りかかった。
「やあ。壁ぎわの淑女」
「いらっしゃいませ。お足もと、お気をつけください」
殿下は、半分じゃない笑い方をして、通り過ぎた。天井の灯りとは別に、すぐ近くで、首の後ろがちりっとした。殿下がうちに来た日と、同じだった。
聞きました。覚えておきます。
お母様が、お父様の腕をとって、私の前を通った。門の受付は、もう閉じたらしい。足は止めずに、扇子の陰で一言だけ。
「頭の本を」
はい。乗っています。
◇
曲の途中で、巻いた金髪が、まっすぐ私の前に来た。次の曲に誘う、という形だった。
「壁の花とは、君らしくないね、オディール」
周りに聞こえる声だった。周りに聞かせる声だった。
踊りに誘われない令嬢を、壁の花という。……花じゃない。柱です。
「次の曲は、僕が、踊ってあげよう」
(……また、どうでもいい方ですわ)
うん。この人には、三回目。
「恐れ入ります。勤務中ですので」
「君の気持ちは、分かっているよ」
ヴェルナー様が、私の左の手首を取って、引いた。
両手が、ふさがった。今夜いちばん、よくない形だ。
動かなかった。
もう一度、引かれた。動かなかった。ヴェルナー様は、柱を引いている人の顔をしていた。
周りの扇子が、いっせいに口もとへ上がった。
「恐れ入ります。手を、お離しください」
受付の顔と、受付の声で言った。目の端では、腕章を数えながら。
手が、離れた。
「楽しい夜を、お過ごしください」
「ヴェルナー様」
広間の端まで通る声がした。
濃い赤の髪のヘルミーネ様が、令嬢たちを連れて立っていた。
「その方は、今夜、わたくしたちを守る持ち場に、立っておいでですの」
ヘルミーネ様は、扇子の先で、広間のあちこちを指した。
さっきまで「狂犬が、壁に」とひそひそ話していた人たちが、そこにいた。
「皆さま。あの方は、わたくしのお茶会で、お客様を一人も欠かさずに返した方ですわ」
お茶会の庭の、噴水の前で、私に言ってくれた言葉だった。今夜は、広間じゅうに聞こえる声だった。
「今夜は、アイゼンハルト嬢の前を、ふさがないこと」
令嬢たちが、すっと動いた。私の前から正面の大扉まで、見通しがまっすぐ空いた。
ヴェルナー様は、令嬢たちの列の外にいた。
視界、確保。
「ありがとうございます」
「お礼なら、夜会が無事に終わってからで、よろしくてよ」
ヘルミーネ様は、振り向かずに行った。
前の職場で、警備員は、柱と同じだった。お客様は、柱をよけて歩く。
今夜、柱の前を、空けてくれた人がいた。
◇
右の手のひらのグラスは、まだ下げられていない。令嬢たちは、もう踊りの輪に戻っていた。
私の右にも左にも、踊り疲れたお客様が、壁ぎわの椅子で休んでいる。
給仕たちは、白い布の二人ずつ、広間を回っている。
喉の音が、変わった。
灯りに向かう、低くて長い唸りの上に、もっと短くて、熱いのが混ざった。
目が、勝手に、給仕の扉へ動いた。足は、床についたままだった。
給仕の扉から、給仕が一人、出てきた。
(……あの方ですわ)
先輩は、前に出なかった。知らせて、待っていた。
まだ、待てとも言っていない。
「聞きました。……ありがとう」
扇子の陰で、言った。
一人だった。左の腕に、白い布がない。
配膳室の侍従の人は、どうしたのだろう。
顔を見た。扉を数えていた、あの人だった。消えたはずの人が、給仕の服を着て、そこにいた。
閉じた扇子を胸の前で、音を立てずに、開いて、閉じて、もう一度開いた。
副団長は、こちらを見ていない。曲は、まだ途中だ。
あの人が、人のあいだを抜けて、こちらへ来る。
最後の音が、消えた。広間の向こうで、副団長がこちらを見た。もう一度、同じ合図を送った。
副団長の指が、顎の傷に触れた。持っているだけだった杯を置いて、歩きだす。まだ、遠い。
あの人は、まっすぐ私の前に来た。今夜、私の前まで来た給仕は、あの人が初めてだった。
一歩半。教わった間合いより、ずっと近い。でも、背中は鏡で、下がれない。
横へ動けば、休んでいるお客様のほうへ寄る。あの人の用が私の手の上にあるうちは、ほかの人のところへは行かない。
グラスを持った右手を、まっすぐ前へ出した。腕一本ぶんは、残る。
あの人の手を見る。右手に、肩の高さの盆。盆の下は、見えない。左手は、空いている。
「お下げいたします」
あの人の左手が、グラスに伸びた。
あの人が、頭を下げた。十五度。早鐘の日、回廊の列から私に下げた、同じ職場の人どうしの角度。
私も、十五度を返した。返さなければ、気づいたと知られる。
目は、あの人の手から離さない。下げた目の高さに、盆の縁が来た。
盆の、こちら側が、わずかに上がった。
盆の裏に、細い刃が、一本、寝かせてあった。




