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第15話 先輩、今夜は吠えないでください

 宮殿の大広間で、私は、魔除けの呪文を唱える令嬢ということになっている。


 呪文は、「待て」だ。


 唱えた覚えはない。言った覚えなら、山ほどある。


 始まりは、夜会まであと十八日の、昼前だった。


 大広間は、夜会の準備で、催事場の搬入日みたいになっていた。


 脚立の上で大工さんが金具を打ち、侍女たちが床を磨き、隅で楽師が同じところを三回弾き直している。


 天井の真ん中には、あの大きな灯りが下がっていた。


 光る石を何十も抱いて、昼なのに、内側から光っている。


 石の入っていない枠が、まだ十いくつある。最後の石は、夜会の朝に灯火商会がまとめて入れるのだと、侍従の人が言っていた。


 灯りの近くに、背の高い脚立が一つ立っていた。上から二段目で、大工さんが金槌を使っている。


 その真下で、若い侍女が膝をついて、床を磨いていた。


 あの位置は、よくない。大声を出すと、上の人が驚く。そばまで行って、言おう。


 歩きだして、灯りの真下を通ったとき、首の後ろが、ざわっと逆立った。


(……ここは、やっぱり、いやな匂いですわ)


 うん。我慢して。


 喉の奥が、鳴りかけた。天井を見上げて、小さく言った。


「……待て」

 喉が、静かになった。先輩は、えらい。


 そのとき、脚立が、ずるりと鳴った。


 後ろの脚が、磨きたての床の上を、外へすべっていく。人の乗っていない側だ。


「下の方、離れて!」


 走りながら、言った。侍女が、布を持ったまま這いだした。まだ、足が脚立の下に残っている。


 すべる脚を、片手でつかんだ。

 止まった。


 上から、何かが落ちてきた。金槌だ。もう片方の手で、受けた。


 受けた手のすぐ下に、侍女の足首があった。


 侍女が、脚立の下から抜けた。


 上で、大工さんが天板にしがみついていた。


「押さえています。降りてください。ゆっくり。手と足のうち、三つは、いつも脚立に」


 大工さんは、一段ずつ降りてきた。両手と片足。両足と片手。降りきって、床に座りこんだ。


「お怪我は、ありませんか」


 大工さんは、座りこんだまま首を横に振った。侍女にも、足首を回してもらった。痛くない、と言った。


 脚の開きすぎを止める紐が、ゆるんでいた。金具を打つたびに脚立が揺れて、結び目が少しずつ抜けたのだろう。


 いつもの床なら、それでも脚は止まっていた。今日の床は、磨きたてだった。


「紐を結び直すまで、この脚立は使わないでください。それと今日は、下で一人、脚を押さえてください。この床、よく滑ります」


 金槌を、大工さんに返した。


 広間が、しんとしていた。


 それから、ひそひそ声が、あちこちで始まった。


「狂犬様が、天井に『待て』と」

「そのすぐあとに、脚立が」


「早鐘の日も、鐘の前に、開かずの扉を開けておられたわ」


「祝福式の広場でも、竜に『待て』とおっしゃったそうよ」


「では、あれは、魔除けの」

 違います。


 脚立を止めたのは、手です。「待て」は、体の中の先輩に言いました。


 ……本当のことのほうが、呪文っぽい。


 その日の夕方には、脚立に上る前に、天井を見上げて「待て」と唱える大工さんが出た。


 唱えてから、下で一人が脚を押さえるようになった。


 順番は逆だけど、押さえてくれるなら、それでいい。


 帰りぎわ、ブラント副団長が大広間に来た。手にしているのは、紙が一枚きりだった。


「アイゼンハルト嬢。おととい、扉を順番に見ていた給仕が、宮殿から消えた」


 副団長が、紙一枚。嫌な予感がする。


 園遊会の日の夕食を最後に、誰も姿を見ていない。部屋も荷物も、空だった。


 残る四人には、殿下の決めたとおり、相方がついた。


「あの男が扉を数えているのを見たのは、あなただ。だから、知らせておく」


「ありがとうございます」

 あの人は、扉を数えていた。


「奥の扉があることも、あの人は、知っています」


 副団長の顎の傷が、ぴくりと動いた。


 逃げ道を知っているのが向こうだけで、お客様は知らない。それが、いちばん危ない。


「副団長。お願いが、あります」

 持ってきた紙を、広げた。


 緑の四角の中で、白い人が、扉に向かって走っている。


 ゆうべ、描いた。ライブに持っていくうちわを作ったときより、丁寧に描いた。


(……緑、ですのね)

 先輩の好きな色だ。


「出口の、しるしです。私の知っている建物では、出口の上に、必ずこれが光っていました」


 前の世界の誘導灯は、電気で光る。ここに、電気はない。


 火を使わない灯りなら、竜晶灯がある。……先輩が、一晩じゅう唸る。


 それに、非常口の灯りは、ふだんの灯りに頼らない。


 前の世界のは、自分の電池を抱えていて、ふだんの灯りが消えても、消えなかった。


 だから、ろうそくを入れたガラスの灯籠にする。緑のガラスに、白いガラスの走る人。通る人の頭より高く掛ける。


 副団長は、紙を長いこと見ていた。

「この者は、何から逃げている」

「何からでも、です」

「どこへ」


「出口へ。この絵のある所が、出口です」


 副団長は、もう一度、絵を見た。

「……足が、速そうだな」

 真顔だった。たぶん、冗談だった。

「火は」


「灯籠ごとに、番の方を付けていただけますか。そばに水桶も。番の方は、そのまま道案内にもなります」


「数は」


「三つです。奥の扉の上と、通り道の途中の分かれ道と、回廊へ出るところ。分かれ道のには、矢印も」


「殿下に話す。夜会のことは、殿下がお決めになる」


 三日後、殿下の言葉が、副団長の口から短く届いた。


「好きにさせろ、だそうだ」


 宮殿の細工師の人が、三つ作ってくれることになった。


 この世界に、初めて、誘導灯がつく。

 ……ちょっと、泣きそうだった。


  ◇


 話は三日前、脚立を支えた日の夕食に戻る。夜会の夜のことを、家でも話していた。


「夜会の夜は、壁ぎわに、一晩立ちます。天井の、光る灯りの見える壁ぎわです」


 お母様の微笑みが、一拍、止まった。


「……では、頭に本を乗せて歩く練習を、いたしましょう」


 次の日、廊下で、お母様が私の頭に本を一冊乗せた。


「淑女は、頭の本を落としません」


 体が勝手に、首と背中を一本にした。頭の重さが、背骨の真上に乗る。


 歩いた。振り向いた。お辞儀をした。階段を下りた。


 本は、落ちなかった。


 お母様が、閉じた扇子で、私の頭の横を、こつんと打った。


 こつん、の重さじゃなかった。首は動かなかった。本も、落ちなかった。


 これ、本の練習じゃない。首の練習だ。

 つまり、殴られても、ぶれない。


(……頭の本は、一度も落としたことがありませんわ)


 でしょうね。首が、慣れてる。


 お母様が、二冊目を乗せた。三冊目。四冊目のいちばん上に、角のそろった帳面が乗った。


「そ、それは、わたしの帳面……」

 廊下の向こうで、お父様の声がした。


 歩く練習のあとは、立つ練習だった。


 立哨なら、前の職場で、さんざんやった。モールの正面入口で、交代が来るまで、持ち場を離れずに、立って見張る。


 気がつくと、右にアンナ、左にミレイユさんが立っていた。二人とも、頭に本を乗せていた。


「夜会の夜、お嬢様のお隣に立つ練習でございます」


「わたくしも、でございます」


 二人とも、前を見ていた。目だけが、ときどき、お互いのほうへ動いた。


 廊下に、彫像が三つ並んだ。


 しばらくすると、ミレイユさんの手のひらが、ぽうっと光りだした。


 手のひらのところだけ、スカートのひだが明るい。


「ミレイユさん。何を考えてますか」

「オディール様の、ことを」

 アンナの膝が、震えだした。


 アンナの斜め後ろに、半歩寄った。長く立っていると、倒れることがある。


 前の職場でも、夏の立哨で、倒れかけた人がいた。


「交代です」

「ま、まだ、立てます」

「まだ、立てますわ」


 二人の声が、そろった。そろうところだけ、仲がいい。


「立哨は、交代して休むまでが仕事です」


 新人のころに言われた言葉が、そのまま出た。


「それと、膝は、つっぱらないで。軽く伸ばすくらいで。ときどき、ふくらはぎに力を入れて、抜いて」


 二人は、しぶしぶ本を下ろして、壁ぎわの椅子に座った。座ってからも、お互いを見なかった。


 自分の言ったことで、気づいた。


 夜会の夜、壁ぎわの私には、交代がいない。


 お母様がこの練習を始めたのは、そのためかもしれない。


 扉を数えていたあの人は、まだ、見つかっていない。


 廊下の向こうから、お父様がそっと歩いてきた。


 お父様は柱を通り過ぎて、私の後ろへ隠れた。


「お父様?」


「オ、オディールは、柱より、動かないから」


 背中の後ろから、細い手がそっと伸びてきて、いちばん上の帳面を取っていった。


 本は、揺れなかった。一冊、軽くなった。


 それから毎日、本を乗せて立った。


 夜会の係の話をしたのは、練習の五日目だった。副団長を通して、殿下のお許しももらってある。


「アンナ。夜会の夜、侍女の人たちは、回廊の控えの間で待つことになってるの」


「……はい」


 アンナの声が、しおれた。広間には、入れない。


 扇子は、どの令嬢も腰に下げている。門の帳面に書いてもらって、私もそのまま下げていい。


 でも、夜の広間で日傘を持っている令嬢は、いない。


 お客様の剣をお預かりする夜に、私だけ目立つ鉄の棒を抱えて立つのは、筋が通らない。


「だから、アンナに預けたい。控えの間で、日傘をお願い」


 アンナの目が、まんまるになった。

「お嬢様の……日傘を……わたしが」


 前掛けの端を、ぎゅっと握った。泣くのを、こらえていた。


「わたくしは」

 ミレイユさんが、一歩、前に出た。


「わたくしは、オディール様の、何の係でございますか」


「けが人の係です。回廊の、窓から離れた脇に、救護の場所を作ってもらいます。夜会で誰かがけがをしたら、そこへ」


「オディール様が、おけがを」

「私以外の方の、です」

 ミレイユさんは、少し考えた。


「では、オディール様は、わたくしの手の届かないところで、けがをなさらないでくださいませ」


 手の届くところでなら、けがをしてもいいらしい。


  ◇


 夜会の前の晩、部屋のろうそくを一本だけ残して、寝台に腰かけた。


 天井の灯りを初めて見てから、二十日あまり。宮殿へ行くたびに、あの灯りの下で先輩が唸った。


 私は「待て」と言った。先輩は、待った。


 毎回だ。一回も、吠えなかった。


 殿下がうちに来た日も、そうだった。門の前で、首の後ろがちりっとした。


 帳面をのぞきこまれたとき、喉が鳴りかけた。殿下の懐に、何かある。


 でも、光る石なら王都では珍しくない。懐に何があるかを、殿下には確かめていない。石だと決まったようには、書けない。


 だから、扇子の陰で「待て」と言って、それきりにした。


 明日の夜は、あの灯りの下に、お客様が大勢いる。人前で喉が鳴ったら、お客様が怖がる。


「先輩。明日の夜は、吠えないでください」


(……あの灯り次第ですわ)


「うん。ありがとう。毎回、待ってくれて」


 先輩は、少し黙った。


(……慣れておりますわ。黙っているのは)


 ろうそくの火が、小さく揺れた。


 先輩には、私の「待て」が、「黙れ」に聞こえていたのかもしれない。


 狂犬と呼ばれていたあいだ、ずっと、そう言われてきたのだろう。


 花で門が開かなかった日、先輩は、好きな色さえ、一度も聞かれなかったと言った。


 早鐘を鳴らしたフリッツくんのとき、空振りは怒らないでください、と騎士団長に頼んだのは、私だ。


 前の職場の隊長は、外れた知らせにも「よく知らせた」と言った。


 石の正体が分からなくても、先輩の唸りは、私への知らせだった。


 それなのに私は、毎回、聞く前に「待て」と言っていた。


「先輩。毎回、よく知らせてくれました」


 ろうそくを見ながら、言った。


「待ては、黙れ、じゃないです。聞いたから、ちょっと待って、です。人が先なので。人を逃がしたら、ちゃんと聞きます」


 先輩は、黙っていた。


「明日の夜は、人に吠える前に、私に知らせてください。私が、聞きます」


 少し考えて、足した。

「……警備員なので」

(……聞いて、くださいますの)

「聞きます」

 長いこと、何も聞こえなかった。

 ろうそくが、じじ、と鳴った。

(……分かりましたわ)

 聞いたことのない、静かな声だった。

 ろうそくを消した。

 明日は、待て、と言う前に、聞こう。


  ◇


 夜会の朝、最後の点検に、大広間へ行った。


 奥の扉のかんぬきを、脇に立つ騎士の方に外してもらった。


 油の効いたかんぬきは、騎士の方の片手で、すっと外れた。かけ直してもらう。


「奥の扉、よし」


 指で差して、声に出す。騎士の方が、背筋を伸ばした。


 扉の上の壁で、緑のガラスの中の白い人が、外へ向かって走っている。


「誘導灯、よし」


 門で記帳を済ませた灯火商会の男たちが、木の箱を抱えて入ってきた。


 灰色の上着だった。祝福式の広場で、かけらを袋に拾っていた人たちと、同じ上着だ。


 侍従の人に頼んで、石が入るまで、脚立のまわりには、脚を押さえる大工さんしか入れないでもらった。


 私は、その外から、脚立の足もとを見た。


 男たちは脚立に上って、背中を向けたまま、天井の灯りの空いた枠に、石を一つずつ入れていく。


 下で、宮殿の大工さんたちが脚を押さえていた。


 最後の一つが、入った。


 空いていた枠が埋まって、灯りが、ひときわ明るくなった。


 首の後ろが、全部、逆立った。

 喉の奥が、低く鳴りだした。

「……待て」


 口が、先に言っていた。二十日あまりの癖だった。


 止まらない。扇子を開いた。鉄の音でも、消えない。


 脚立の下の大工さんたちが、天井を見上げた。壁ぎわで床を磨いていた侍女たちも。


「待て」

「待て」

「待て」


 宮殿で働く人たちが、天井に向かって、そろって唱えた。


 魔除けの、呪文だ。

 それでも、喉は止まらなかった。

 待て、が、初めて、効かなかった。


 今夜、この灯りの下に、お客様が大勢入る。


 ゆうべ、聞くと約束した。

 扇子の陰で、小さく聞いた。

「……先輩。どうされましたか」


 喉の奥の音が、一つ、低くなった。答えるみたいに。


 先輩は、もう、黙らなかった。

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