第14話 殿下、ご用件の欄に『退屈』は困ります(フロリアン視点)
二十年生きてきて、僕を「お客様」と呼んだ人間は、一人しかいない。
宮殿では、誰も僕に「いいえ」と言わない。朝の髪の分け目から、夕方のくだらない冗談まで、全部「さすがでございます、殿下」になる。
今朝、わざと紅茶をこぼしてみたら、侍従が「見事なこぼし方でございます」と言った。
退屈だ。
だから僕は、いつも半分だけ笑っている。王族は、弱みを人に見せない。
退屈も、弱みのうちだ。半分だけ笑っておけば、残りの半分で何を考えていても、誰にも分からない。
あの謁見の日、噂よりずっと美しい、といつもの言葉を向けたら、返ってきたのはこれだ。
「恐れ入ります、お客様」
あの一言を思い出すたび、今でも頬がゆるむ。
その後、あの騎士団長まで、狂犬に頼まれて「止まれ」と叫んだという。僕もその場にいたかった。
母上の園遊会の朝は、門の上の露台から見ていた。
狂犬殿は、門の騎士に言われると、真っ先に扇子と日傘を差し出した。そのあとで、暴れた馬車に乗った。
乗った、としか言いようがない。扇子も日傘も、門の台の上だった。
気がついたら、頬杖をやめていた。
僕には、誰にも言っていないことがある。
北へやった使いが、まだ帰ってこない。
王都じゅうを照らしている竜晶灯の石は、北の鉱山から来ることになっている。
灯火商会の荷も、北から来る。その鉱山を、この目で見てきてほしいと頼んだ。
季節が一つ変わりかけても、手紙一つ来ない。
毎朝、宮殿の北の塔に上る。北の街道に、馬が一頭も見えないのを確かめてから、降りる。
懐には、灯火商会の荷から黙って抜いた石を、一つ入れている。
光が漏れないように、絹に包んで。比べる相手は、北から届くはずだった。
昼前、ブラントが手ぶらで来た。分厚い報告書を待たずに聞く必要がありそうだ。
「署名の字が同じに見える推薦状が、五通。五人とも、夜会の夜は大広間の給仕の係です。……捕らえるべきです」
「捕らえれば、後ろにいる誰かは、別の五人を送るだけだよ。顔の分かっている五人は、顔の分からない五人より、ずっといい」
「では、今夜から見張りを。ただ、刃物を持っているかもしれない者の横に、部下を一人で立たせることになります」
ブラントが引かないのは、そこだった。この男は、部下と客を死なせないことしか考えていない。だから、僕はこの男が好きだ。
夜会のことは、父上から僕が預かっている。決めるのは、僕だ。騎士団長には、あとで僕から話す。
「狂犬殿に、聞いてみよう」
「……宮殿に、お呼びしますか」
「呼べば、狂犬の噂が一つ増える。僕が行けば、僕の退屈が一つ減る」
◇
先触れは出さなかった。出せば、屋敷じゅうが支度を始める。
アイゼンハルト伯爵家の門番は、僕の顔を見て、真っ青になった。
近衛の二人を後ろに、門の前で待った。
王子を門の前で待たせてくれる屋敷は、王都でここくらいだろう。
玄関から、背の高い令嬢が歩いてきた。黒髪をきっちりまとめて、腰に扇子。
狂犬殿は、僕を見て、一拍止まった。
それから、言った。
「……ご用件と、お名前を、うかがえますか」
近衛の一人が、口を開けた。
僕は、笑いをこらえるのに苦労した。
「フロリアン。用件は……中で、考える」
玄関の広間の卓に、角のそろった帳面が一冊あった。表紙に〔来訪者名簿〕。
「こちらに、ご記入ください」
同じ頁の上のほうに、枠から上にも下にもはみ出した、巻いた字の名前があった。
ヴェルナー家の嫡男だ。字が大きい。用件の欄には「愛」とあって、その横に、小さな字で「面会」と書き添えてあった。
空いている行に、僕は小さく名前を書いた。
用件の欄で、ペンが止まった。少し考えて、書いた。
〔退屈〕
狂犬殿は、帳面をのぞきこんだ。表情が、一つも変わらなかった。
「……殿下。ご用件の欄に、ご気分を書かれますと、困ります」
ご気分。
「ご面会、でよろしいですか」
「それで頼む」
「どなたに、ご面会ですか」
「君に」
狂犬殿は、僕の「退屈」の横に、小さく「面会」と書き添えた。
巻き字の横の「面会」と、同じ字だった。それから、訪問先の欄に、自分の名前を書いた。
ヴェルナー家の嫡男と、同じ扱いだった。なぜか、うれしかった。
近衛の二人も、名前を書かされた。用件の欄は「随行」。
剣を預けろとは、言われなかった。この屋敷には、そういう決まりがないらしい。
狂犬殿のすぐ横から、帳面をのぞきこもうと身をかがめたときだった。
狂犬殿が、腰の扇子を抜いて、ぱちんと開いた。鉄の音がした。
扇子の陰で、狂犬殿の喉の奥が、小さく鳴った気がした。
「……待て」
扇子の向こうから、小さな声がした。近衛には聞こえないくらいの声だった。
それきり、あの喉の音はしなかった。
僕に「待て」と言った人間も、初めてだ。近すぎたらしい。
照れているのだと、思うことにした。
広間の奥から、視線が二つ来た。
鞄を抱えたそばかすの侍女と、淡い金の髪の聖女だった。
敵を見る目だった。二人とも、同じ目だった。
なるほど。この屋敷には、狂犬殿の番犬が、もう二人いるらしい。
「まあ、殿下。ようこそ、おいでくださいました」
伯爵夫人が、階段を下りてきた。目を細めて、微笑んでいた。
「ちょうど、お茶の時間ですの。ご一緒に、いかが」
庭の白い卓で、伯爵夫人と狂犬殿が向かい合った。僕は、二人のあいだの、卓の脇に座った。
お茶の時間と聞いたとたん、窓の向こうから使用人の姿が消えていた。残ったのは、侍女と聖女だけだった。
伯爵夫人が、にこにこしたまま、自分のカップを手首で放った。
娘の顔めがけて。
狂犬殿の手が、受け皿を出した。カップは、受け皿の真ん中に、すとんと収まった。紅茶は、波も立たなかった。
侍女が眉一つ動かさずに、卓の下から予備のカップを出した。聖女は、手のひらを少し光らせていた。
近衛の二人が、僕の前に半歩出たところで、剣の柄に手をかけたまま固まっていた。
驚いているのは、僕たち三人だけだった。
「……今のは」
伯爵夫人が、なんでもないことのように答えた。
「淑女教育ですわ」
狂犬殿が、受け皿を卓に置いた。
「お母様。お客様のお隣です」
夫人は、予備のカップに紅茶を注ぎながら、僕のほうへにっこりした。
「ご安心くださいませ。殿下には、投げませんわ。お客様ですもの」
二人目だった。
ほっとした。少しだけ、がっかりもした。
庭の柱の陰で、眼鏡が光っていた。伯爵だ。なぜ、柱の陰に。
「伯爵。先日の謁見での一言、見事だった」
柱の陰で、眼鏡が深く頭を下げた。出てはこなかった。
ここへ来るまでの廊下を思い返して、ふと気づいた。
玄関にも、廊下にも、竜晶灯が一つもなかった。燭台とランプだけだ。
今の王都で、こういう屋敷はほとんどない。
「伯爵夫人。この屋敷には、竜晶灯がないのですね」
「わたくし、ろうそくの灯りが好きですの」
伯爵夫人は、目を細めた。手もとの扇子が、ほんの少しだけ閉じた。
それ以上は、聞けなかった。聞いても、同じ笑顔が返ってくるだけだろう。
◇
お茶のあと、狂犬殿に庭の小道を案内してもらった。近衛の二人は、少し離れてついてきた。
「アイゼンハルト嬢。君に、聞きたいことがある」
推薦状の五人のことを話した。捕らえるか、気づかないふりをして泳がせるか。ブラントの言い分と、僕の言い分。
狂犬殿は、黙って聞いていた。それから、言った。
「私には、決める権限がありません」
「分かってる。だから、聞いている」
「……守る順番なら、言えます」
狂犬殿は、まっすぐ僕を見た。
「大広間の係から外せるなら、外すのが先です。外せないなら、目の届く所に。それから、一人にしないこと」
短い。ブラントの報告書より、ずっと短い。
「それに、推薦状が偽物でも、五人ともがそれをご存じとは限りません」
捕らえるのはまだ早い、という意味に聞こえた。泳がせる、とは言わなかった。
僕は、少し考えた。
「新しい給仕には、みんな、前からいる給仕を一人ずつ付ける。教える係として。五人の相方だけ、ブラントに選ばせる。剣の使える者を」
「横につく方も、一人にしないでください。近くに、騎士の方を」
「そうしよう」
これなら、五人だけが見張られているようには見えない。ブラントの部下も、一人きりにならない。
「承りました。五人は係のまま、相方は副団長が選ぶ、剣の使える方。近くに、騎士の方」
狂犬殿は、僕の決めたことを、繰り返した。
宮殿では、僕の言ったことは、褒められて終わる。
「私は、壁ぎわから見ています。見えたことは、すぐ副団長に」
「もう一つ、頼みがある。夜会の夜、僕のそばにいてくれないか」
「壁ぎわです。騎士団長のご命令なので」
即答で、断られた。
「それに、人のそばについて守る警護は、専門外です。殿下のおそばは、近衛の方の持ち場です」
「知ってる」
謁見の日の回廊でも、狂犬殿は「専門外」と言った。僕の答えも、あの日と同じだった。
狂犬殿が、少しだけ目を丸くした。
いい顔だった。
話しながら、僕は何度も、北の空を見ていたらしい。
狂犬殿が、足を止めた。
「殿下。どうされましたか?」
小道の上で、僕も足を止めた。
誰も、王子にそれを聞かない。
王子は、困らないことになっているからだ。困った顔の王子は、国を不安にさせる。だから二十年、半分だけ笑ってきた。
半分だけ、本当のことを言った。
「……人を一人、待っている」
誰を、とも、どこから、とも言わなかった。狂犬殿も、聞かなかった。
かわりに、少し考えてから言った。
「点呼のときは、いない人の名前も、ちゃんと呼びます」
「点呼?」
「名前を呼んで、そろっているか確かめることです。いない人も、名簿から消しません。帰ってくる人の席は、空けておきます」
仕事の話をする声だった。慰める声ではなかった。
だから、効いた。
僕は、笑った。
半分じゃない笑い方を、ずいぶん久しぶりにした。
その夜、宮殿に戻ると、ブラントが自分で待っていた。
「扉を順番に見ていた給仕が、昼の稽古の点呼に出ませんでした。昼から探させましたが、部屋は空です。荷物もありません。最後に姿を見られたのは、ゆうべの夕食の席です。門には、昼のうちに知らせてあります」
ブラントの声が、いつもより低かった。
「見張りを付けるのは、今夜からのはずでした」
昼前の報告のときには、もう、いなかったのだろう。
ブラントが推薦状の束を侍従から借り出したのを、誰かが見ていたのかもしれない。
残りの四人は、何も知らない顔で働いているそうだ。
懐の上から、包んだ石に触れた。
「さて。代わりに、どの給仕が来るかな」
僕はもう、退屈していなかった。
翌朝、紅茶を運んできた給仕の顔を、まじまじと見た。
前からいる給仕か、新しい給仕か、僕には分からなかった。
二十年、給仕の顔を、ちゃんと見たことがなかった。




