独り言
保田はガラス戸に不在案内板を掲示して施錠すると、執務室の奥にある住居へ入った。
明朝出すゴミを外にまとめ、特盛カップ麺にお湯を注いでいると、勝手口が開いた。
「ここが守男の棲み処か。古くて狭いな」
そう言いながら靴を脱いで入ってくる灰々津に、保田は頓狂な声を上げる。
「な、なんでここに灰々津警部補が!?」
「貴希だ」
「……貴希さんが、なんでここにいるんですか?」
「いたらいけないのか」
無表情でそう言われ、保田は肩を落とした。このひとに言い返したところで詮無いことだ。勝手口を施錠し忘れたことがそもそも不用心だった。
保田はできあがったカップ麺を手にちゃぶ台に着いた。灰々津が向かいに腰を下ろすが、構わず麺をすする。
灰々津は縁もゆかりもない土地に飛ばされてきて同僚からも冷遇されているのできっと寂しいのだろう。そう考えると、あまり邪険にもできない。それでなくても彼は自分より階級が上だ。警察組織は階級が絶対。
「守男、そんなものを食べていると腰回りがより太くなるぞ」
階級は絶対……
「おまえの身長は目測で百六十七センチ。俺より二十二センチも低い。けれど脂肪量は俺を上回っている」
「その発言、侮辱罪ですよっ」
「俺は事実を言っているだけだ。それに第三者はここにいない。公然性が欠けるため、侮辱罪の成立は難しい」
ううう~と保田は割り箸の先を噛む。
悔しいが、灰々津の言うとおりだ。彼が目測で示した身長もぴたりと当たっている。
とはいえ空腹だ。目の前にあるできたてのカップ麺を食べたい欲には勝てない。
保田は灰々津を無視して麺をかっ込んだ。汁も全部飲み干して、茶を淹れる。
「守男、俺にもお茶をくれ」
「失礼な人に出すお茶はありません」
「俺はおまえの身体を気遣っただけだ」
「余計なお世話です」
憤慨しつつも、保田は二つの湯呑に茶を注ぎ、ひとつを灰々津の前に置いた。
「飲んだら帰ってくださいよ」
返答せず湯呑を持ち上げる灰々津に、保田は顔をしかめつつ座って茶を口に含む。
本当に、このひとはよくわからない。
とはいえ、鋭い洞察力を持っていることは確かなようだ。それによって導き出された推理は、無感情な見た目によらず優しかった。
「これは独り言だ。聞き流してくれ」
前置いて、灰々津は淡々と語りだす。
「遠藤は、揉みあいになって坂井が取り落としたナイフを拾い上げ、返せと掴みかかられて尻もちをつき、覆い被さってくる坂井に向けて思わずナイフを突き出したと語った。坂井の傷口を検証したところ、その供述の裏付けが取れた。検察は、遠藤の自首および供述や証拠から、正当防衛を認める可能性が高い」
正当防衛が認められれば、不起訴、つまり無罪になる。ほっとしかけたところで、釘を刺すような言葉が続けられた。
「だが過剰防衛とみなされて過失致死罪になる可能性もある。また、遺体を運んで放置したことは死体遺棄罪、救急車を呼ばなかったことは救助義務違反となる」
保田は唇を噛む。
どんな理由があっても、人を殺してはならない。現実的に考えても割に合わない。けれど、意図せぬ形でそのような状況に陥ってしまう人間もいる。
「悲しげだな」
平坦な口調でそう言われ、保田は自嘲する。
「わかってますよ。感情移入は禁物だって。中立的な視点を保つ必要があるって。……でも、俺には難しいんです。これでも以前は尾堂署の刑事課にいたんですけど、俺に刑事は向いてなかった。だから駐在を希望したんです」
他人のことを自分のこととして受け取ってしまう。この厄介な性分も、共感によるコミュニケーションが必要とされる場であれば役に立つだろうと。
「そうか」
灰々津はそれだけ言って茶の表面を強く吹き、ちびちびと飲んだ。
自分ばかりが感情をあらわにしていることが気恥ずかしくなり、保田も茶を飲む。
長い沈黙が続いたあと、灰々津が口を開いた。
「赤蔵町の地蔵は、山越えをする旅人たちが安全に通れるように置かれたものだとユキさんが言っていたが、俺はそれだけではないような気がした。そんな平和な成り立ちのものに、人の血を捧げることで願いを叶えるなどという発想が付加されるのは奇妙だ」
言われてみればたしかに、と保田は顔を上げる。
「これはあくまで俺の推測だが、」と言って、灰々津は空になった湯呑を置いた。
「あの地蔵が置かれたのは、行き倒れた旅人を供養する目的もあったのではないか。それは、旅人が所持していた金銭や衣服を剥ぎ取ったことへの贖いだったのではないか。他人の死と引き換えに得られる恩恵が、長い年月を経て、他者の血を捧げることで願いを叶えるという言い伝えに変化した。それは、いわば集落の暗部だ。だから近代に入ると秘匿されるようになった。地蔵がある場所を石垣で囲い、小屋を建てて隠し、その小屋で自治のための集会を開いていた。互いを見張るために。けれどそれも、世代を重ねて風化した」
灰々津は静かに天井を見上げた。
「地蔵は、地獄で子供を守ると言われている。本来は守護者である存在に、生臭く歪んだ信仰を結びつけたのは、そのような存在に変えたのは、人間だ。地蔵が悪いのではない」
そう言って立ち上がり、勝手口から出て行こうとする背中に、保田は思わず問いかけていた。
「なんで、俺だったんですか」
自分でも不明瞭な問いかけだったが、灰々津はこちらを振り向かずに答えた。
「あのとき、現場にいた捜査員の中で、おまえだけが遺体を見て目を潤ませていた。俺が警視庁で携わった多くの現場でも、そんな捜査員は一人もいなかった。だから……」
そこで灰々津のスマホが鳴った。応答しながら外に出て、すぐにエンジン音がした。
保田は窓辺に立って、暗闇の向こうへ遠ざかっていく赤い光を見送った。




