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守る

 法定速度ぎりぎりで車を走らせた灰々津は、白岩地区の元板金加工工場の手前にある待避所で降りた。


 ゆるやかな傾斜がついた中央車線のない道を駆け上がり、草が茂る土地へ踏み入っていく。

 足下に、錆びたチェーンが落ちていた。押し潰された草の筋が重複している。わずかに息を止めて、木の陰に隠れつつ音を立てないよう足を運ぶ。


 工場の建物が見えた。外壁材がところどころ剥がれて、蔦が絡みついている。

 戸が外れた入り口前に、車が駐まっていた。その横に立つ、二十代後半くらいの男。その手に持っている物を見て、灰々津はスマホを取り出した。小声で報告する。


「課長、銃を所持した男を見つけました」


「なにっ、どこだ!?」


「白岩地区の元板金加工工場の入り口に、一人で立っています。横に、熊堂市ナンバー〇〇〇〇の黒い軽自動車が駐まっています」


「他の二人は?」


「姿は見えません。工場内にいると思われます」


「わかった。すぐに応援を向かわせる。そこに待機していろ」


「……」


「おい、馬鹿なこと考えてるんじゃないだろうな。いいか、くれぐれも……」


 灰々津は通話を切った。着信を報せるバイブレーションを無視してスーツのポケットに戻し、銃を持つ男を凝視する。

 パーマをかけた長めの茶髪、黒の上下に紺色のスニーカー着用、身長百七十五センチ前後、やせ型。どうやら見張りをしているようだが、不満げにしかめた顔をしきりに工場内へと向けている。


「ちっ、まだかよ、のろまどもが……」


 吐き捨てる声がかすかに聞こえた。

 その様子から、他の二人は工場内にいると確信した。そこに保田もいるのであれば、彼らは何をしているのか。まさか……


 浮かんだ想像をすぐに打ち消し、灰々津は深く呼吸する。

 銃を持った男は単独で、保田から離れた場所にいる。そして注意が他へ向いている。

 この好機は、逃せない。


 応援が来たところで、どのみちSATの到着を待つことになる。SATが到着して包囲することで、追い詰められた被疑者たちは逆上し、保田に危害を加えるかもしれない。

 そもそも保田はすでに大怪我を負っているかもしれないのだ。その状態で、長時間の膠着状態に陥った場合、耐えられはしないだろう。今救出しなければ手遅れになるかもしれない。


 目の前に、幻が見える。

 拡がっていく赤い血。やさしかった母の最期の姿。

 犯罪者がどれほど泣こうがわめこうが後悔して罪を償おうが、失われた命は二度と戻ってこない。


 母さん、守れなくてごめん。

 でも、今度は、守る。


 灰々津は、手のひらに爪が食い込むほどに拳を握った。

 周囲の地形、物の配置を確認し、敷地の脇に積まれている廃材の陰へ、男が入り口へ顔を向けた瞬間にさっと入り込む。陰から陰へと身を隠しながら、男との距離を縮めていく。

 脳内では、自分の動きと男の反応のシミュレーションを何度も繰り返している。

 実行するタイミングを見計らっていると、男がダン! と地面を蹴った。苛立ちを露わに工場内へ向けて怒鳴る。


「おい! 遅ぇぞ! なにチンタラやってんだよ!」


 灰々津は勢いよく飛び出した。拳銃を持つ男の手首を片手で掴む。同時に、男の首に片腕を巻き付ける。そのまま一気に力を込め、三角圧迫で頸動脈を絞める。


 五秒後、男の手から拳銃が落ちた。だらんと弛緩した男の体重が腕にかかる。

 腕を離すと、男はばたっと地面に倒れた。

 灰々津は銃を拾い上げ、コートのポケットに入れた。

 男のズボンのベルトを抜くと、その身体をうつぶせにして両腕を背中で交差させ、重ねた肘上部分にベルトをきつく巻いて縛る。

 これで肩の可動域が制限され、意識が戻ったとしてもしばらくは起き上がれない。起き上がっても車の運転はできない。走って逃げようにも応援が向かっているのですぐに捕まるだろう。


 次だ。


 灰々津は、ポケットから取り出した銃を構え、入り口へそっと身を滑らせた。

 内部は意外と明るかった。ところどころ抜け落ちた屋根から、朱を帯びた光が差し込んでいる。

 そこで声に気づいた。話し声だ。はっとして耳をそばだてる。


「うん、そうなんだね、それで?」


「僕は、嫌だって言ったんだ。でも免許証の写真送ってたから身バレしてるし、車に乗ったらもう共犯だって言われて……」


「今さら被害者ぶるなよ。間違いなく共犯だろうが」


「違う、僕は運転しただけだ。強盗も、このひとの頭を殴ることも、してない。……殴ったのは、君だ」


「てめっ、いい加減にしろよ!」


「うわぁっ!」


「落ち着いて、大丈夫、俺は怒ってないよ。ね、ほら、ゆっくり息をして、」


 くぐもっているが、間違いない、保田の声だ。

 他の声は、残りの被疑者二人のものだろう。


 灰々津は、入り口のそばに置かれている金属加工用らしき大きな機械に身を隠して、奥へと目を向ける。


 男が二人、立っていた。彼らの間に、もう一人、手足をロープで縛られた男が横たわっている。目隠しをされているがその顔の形、短い黒髪、体型と制服からして保田だとわかった。


 不意に、頭の芯が溶けていくような感覚を覚えた。血流が速くなっていく。身体中を奮い立たせるようにどくどくと迸る。衝き動かされるように、灰々津は両手で銃を構えた。


「警察だ。動くな」


 銃口を向けると、右側に立つ長身の男が「わあぁっ!」と叫んでその場に尻もちを着いた。

 左側にいた男も、手を挙げて膝を着こうとした。しかし次の瞬間、保田へ飛びつくように素早く移動した。


「おまえこそ動くな! こいつを刺すぞ! 銃をこっちに寄こせ!」


 保田の首に突きつけられたナイフを、灰々津はじっと見つめる。

 うるさかった血流音が遠ざかっていく。

 すべての音が消えていく。


 無音の世界で、保田が小さくうなずいた。

 灰々津は息を呑んだ。

 しかし迷いはなかった。

 照準を定め、ゆっくりと引き金を引く。


 パァン! 耳をつんざく音が響き渡った。

 建物内に反響するその音が消える前に、灰々津は動いていた。ナイフを取り落とした男のもとまで一息で駆けて蹴り飛ばし、転がったナイフを踏みつける。


 左手を押さえてうめきながら転がる男に、もう立ち上がる余力はないだろう。

 もう一人の男は頭を抱えて震えている。戦意は見られないが念のためそちらへ銃を向けたまま、スマホを耳に当てる。


「拳銃回収。被疑者の一人は入り口前で気絶、両腕拘束。他二人は工場内にて身柄を確保しています。守……保田さんの生存確認。保護しました」


 一拍後、課長が怒鳴るように叫んだ。


「全班に通達! 被疑者確保完了! 銃器回収! 人質の安全は確認済み! 現着次第、直ちに工場内へ突入! 犯人拘束支援と現場制圧に移行せよ!」


 繰り返したあと、課長がこちらへ小言を言う気配を察知した。


「あとで聞きます」


 通話を切り、一一九番へかける。

 救急車を手配して、着信のバイブレーションがうるさいスマホをスーツのポケットに入れたとき、複数のサイレンが聞こえてきた。

 ややあって、外から機動隊員がなだれ込んできた。灰々津が彼らに指示すると、被疑者二人を手早く拘束して連行していく。


 銃弾が当たった場所は、左手の親指と人差し指の間、合谷と呼ばれる部分だ。出血はあったが、機動隊員が圧迫止血を行っていた。命を落とす状況には見えなかった。


 こちらへ駆け寄ってきた機動隊員へ拳銃とナイフを渡し、彼らが持つ器具で、保田の手足のロープを解いてもらう。

 保田の手首は、擦れて血がにじんでいた。必死に拘束を解こうとしたのだろう。


「すみません……」


 緩んでいる猿ぐつわを外してやると、保田は嗄れた声でつぶやいて、起き上がろうとした。その肩をそっと押さえる。


「守男、動くな。頭を殴られたんだろう。救急車が到着するまでじっとしていろ」


「……大げさ、です。大丈夫、」


「頭部への衝撃を甘く考えるな。安静にしていろ」


 保田は口を閉じて、目隠しを取ろうとした。けれど力が入らないらしくなかなか外れない。布を掠るその指先は、皮膚が裂けて赤黒くなっている。


 灰々津はふと、床を見る。ミミズがのたくったような線で、何か書かれている。部分的にかすれているが、字だとわかった。目を凝らす。

 三人、男、数字。

 その意味を察して、灰々津は大きく息を吐き、保田の目隠しを取った。


 まばゆそうに細められた目が、こちらを見上げてきた。何度か瞬いたあと、彼の顔がゆるんだ。

 これは、安堵だ。

 そう認識したとき、なぜか喉元を絞められたように苦しくなった。呼吸が乱れる。なぜだ、自分は怪我など負っていないのに。


 保田の目が、大きく見開かれた。驚きの表情。

 灰々津は、出にくい声を絞り出して訊ねる。


「どうした、守男」


「……幻を、見てるようです」


 無理もない。頭を殴られただけでなく、縛られてこんな寒い場所に転がされていたのだ。

 灰々津はコートを脱いで、保田の身体の上に掛けた。


「床は冷たいだろうが、もうしばらく辛抱してくれ」


「……あったかい」


 つぶやいて、保田は目を閉じた。

 灰々津はその横に腰を下ろし、頭を深く垂れる。

 やがて遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。


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