凍てつく底で
どれくらい時間が経ったのだろう。
埃っぽく淀んだ空気を吸いながら、保田は後ろ手に縛られた指先を床に擦りつけている。
床は硬い。コンクリートのようだ。氷のように冷たく、接し続けたことで冷え切った身体が小刻みに震える。指先の感覚も鈍いが、おかげでさほど痛みを感じないのはありがたい。
血は出ているだろうか、ちゃんと文字になっているだろうか。
ふー、ふー、と口に噛まされている布らしきものの隙間から漏れる自分の呼吸が、やけに大きく聞こえる。
他に聞こえるのは、制服の布ずれの音と、風の音。数回、遠くで車の走行音がした。こちらへ近づいてくるかと心臓が跳ねたが、すぐに遠ざかった。
身をよじって手足の拘束を緩ませようと試みたが、かなりきつく縛られており、上手くいかなかった。
頭を動かして目隠しをずらそうともしたが、殴られた後頭部の痛みでほとんど動かすことができなかった。
唯一、口元だけは、何度も噛んでいたら言葉を発せられるほどの隙間ができた。声が嗄れるまで大声を上げて助けを求めたが、反響するだけで返事はなかった。
そもそも近くに人がいないのだろう。車に乗せられてからの移動時間は短かった。おそらくここは白岩地区の廃工場か廃倉庫だろう。声が反響したことからして廃工場の線が強い。であれば、人など滅多に立ち入ってこない。
無線機もスマホも奪われた。GPSなどで見つけてもらうこともできない。
……それだけなら、まだ良かった。
腰に着けた帯革から、拳銃が抜き取られた。予備弾丸十発が入ったポーチも取られてしまった。
大失態だ。
まさか嘘だろうと、横向きの体勢で床に当たっている腰部分に何度も意識を向けたが、あるべき装備品の感触はなかった。
その事実を再確認するたびに、じっとりとした汗がにじんでくる。自分の迂闊さを繰り返し悔いながら、拉致されたときの状況を思い出す。
被疑者は三人。不審車両の運転席にいた男と、後部座席にいた男、そして背後から自分を殴った男。車内で被疑者のうち一人が「やっぱり、こんなこと、やばいよ」と言い、「うるせぇ、黙れ!」「もう後に退けねぇだろ」と返されていた。声と気配の数からしても間違いない。
あの男たちはここへ戻ってくるのだろうか。拳銃を奪って何をする気だろう。
もし、あの拳銃を悪用されたら。そう考えるたびにぞっと鳥肌が立つ。
同時に、自分の危機管理の甘さを深く反省する。もっと周りの気配に注意を払うべきだった。不審車両を呼び止める前に、署へ無線を入れておけばよかった。
不安と悔しさがないまぜになって襲ってくる。唾液で濡れそぼった布をぎりぎりと噛む。
自分が狙われた理由は、おそらく拳銃だ。拳銃だけ奪って逃げると、即座に通報されて追われる。だから自分を拉致して隠し、捜査のトリガーを遅らせようとしたのだ。
ズキ、ズキ、と頭部が鈍く痛む。ジャンパーを着てはいるが、無線などを取られた際に前を開けられたため、一月半ばの冷気を防ぎきれない。
目隠しの布越しに、わずかな明るさを感じる。どこからか光が差し込んでいるのだろう。まだ日中でこの寒さなら、夜になればさらに冷える。翌朝まで耐えられるかは、わからない。
……もし、耐えられずに息絶えたとしても。
自分の不在はじきに地域課へ伝わる。
数日音信不通になれば捜索される。
自分が扱った最後の事案の当事者である松永へも聞き込みをするはずだ。彼から白岩地区のパトロール強化の話が出れば、きっとここも捜索される。そのとき、自分を見つけてくれた仲間たちへ、手がかりを残しておきたい。
被疑者の性別、人数、車のナンバー、襲われた日時。
爪で指先を抉り、水気を感じたら床に押し付ける。乾いたらまた抉り、血を出す。
閉ざされた視界に、無表情な男の幻が浮かぶ。
――またな
あの人は、きっとまたあの駐在所へ行くだろう。そして、動いてくれる。この事件も、解決に導いてくれる。
保田はぐっと目をつぶる。
そこで、車のエンジン音が聞こえた。複数の男の声がする。聞き覚えがある。被疑者たちの声だ。
たちまち全身に緊張が走る。
なぜ戻ってきた。自分に用があるのか。これから何が起きるのか。
さすがに警察官殺しというリスキーな真似はしないと思いたいが、彼らはすでに警察官の拉致と拳銃強奪という大事をやってのけてしまっている。
「俺が見張ってる。おまえらはあいつを車へ運べ」
「……はい」
かすかに聞こえた会話のあと、足音が近づいてきた。
「おい、おまえは上半身を持て」
「……はい」
間近で声がした。身体に触れられる感覚、気配から、ここにいるのは二人のようだ。彼らはどうやら自分を運ぼうとしているらしい。
保田は意を決して、緩んだ猿ぐつわの隙間から話しかけた。
「頼む、少しだけ、話をさせてほしい」
くぐもった声になってしまうが、できるかぎり刺激しないよう、穏やかでやさしい口調を心掛ける。
被疑者たちが動きを止めた気配がした。
「俺は、君たちを、責めない。でも、なぜこうしたのか、理由だけ、教えてほしい。お願いだ」
舌打ちが聞こえた。足の方からぶっきらぼうな声がする。
「こんな目にあっても責めない? ……はっ、いいよな、あんたは。良い親に育てられて、普通に学校行って、公務員になれてんだから。そうやって正義の立場で善人ぶれるんだから」
「……君は、違うのかい?」
「違うさ。全然違う。人生の初めから他の奴らとは違ってた。どん底からのスタートでどうやったら他の奴らに並べるんだ。正攻法が無理なら邪道走るしかねぇだろ」
頭上から気弱な声がした。
「……僕は、こんなつもりじゃなかった。ただ、割が良いバイトだって思っただけなんだ」
「おい、おまえまだそんなこと言ってんのかよ」
「だって、こんな……やっぱり、僕、怖い。ねぇ、お金返して自首したら、まだなんとかなるんじゃないかな」
「おまえなぁ、ここまでやっといてそれはねぇだろ」
「君だって、さっき話が違うってあの人に文句言ってたじゃないか」
「そりゃ言うさ。一億って話だったのが五百万だぞ。山分けしたら俺の取り分はたった百六十万ぽっちだ。割に合わねぇにも程がある」
「そうだよ、割に合わないよ。もうやめようよ」
「ここでやめたらそれこそ一銭にもならねぇだろ。タダ働きのうえに豚箱暮らしになっちまう」
言い合う二人の声を聞きながら、保田は必死に頭を働かせる。
どうやら彼らは一枚岩ではないようだ。付け入る隙はある。
彼らの揺れる心へ、そっと届けるように、保田は慎重に、言葉を選んだ。




